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「人種差別をなくす実験授業」の感想

NHKで放送されたイギリスのドキュメンタリー番組、「人種差別をなくす実験授業」。これがとても興味深くて面白かった。

あらすじ
イギリスにある中学校。白人だけではない様々なルーツの子供が通っている。その学校の中学1年生を対象にした、無意識の偏見を無くすための実験授業が行われた。

このドキュメンタリーの中で個人的に印象的だったシーンを紹介します。

その1 白人とそれ以外に分けられた授業

授業の中ではクラスを白人と白人以外に分けたレッスンが行われ、その中で自らのアイデンティティについて話していました。
白人以外のクラスの生徒は、「自分がブラックルーツであることを誇りに思う」などハキハキと多く語り合いブラックミュージックに乗って踊ったりしていました。
一方で白人生徒のグループは、何もしゃべることが無く、ただ隣の教室から聞こえてくる楽しそうな声に居づらさを感じていました。


このシーンはとても興味深いと同時に示唆的でした。
人種差別という話をする際にはその国の力があるマジョリティが一般的に“強い側”と言うことの方が多いと思います。
しかしこのシーンはそうではなく、マイノリティである非白人グループが盛り上がり、マジョリティの白人側がお通夜状態なのは、その一瞬だけではそれが逆転したようにも見えるからです。

この背景にあるものを考えると、ある種の逆転状態は説明が付くと思います。
以前出口真紀子さんによるマジョリティの特権についての講演会を聞いたときに知った事柄ですが、マジョリティは何か社会的な困難にぶつかるたびに、それは自分の属性が原因ではないかと考えさせられるということです。
例えば、セクハラに遭った際に、これは私が女性だからだろうか等マイノリティは自分の属性について反芻する機会が多くあります。
一方でマジョリティは、自分の属性を考えずに生活することができるという特権を持っています。
女性が少数の会議で “女性の立場として~”と意見が求められることはあっても、“男性として”とは言われません。
マジョリティはそうであることが当たり前だからです。
そのため、マイノリティの非白人グループの生徒たちはこれまで反芻し考えてきた自らのアイデンティティについて、自らの言葉ではっきり話すのに対して、それまでそんなこと考えなくても生きてこれた白人グループは何も話すことが無い状態になってしまうのです。

個人的にこのワークを考えた人に私は一度会って話をしてみたいと思います。
それくらいよくできたワークだなと思います。
どうしても(白人が意識してなくても)非白人生徒はどこかで白人中心主義を学校の中で感じ生きづらいと感じているのだろうと私は勝手に想像します。
その中で非白人グループの方が盛り上がるという逆転現象を起させるこのワークは、感覚的にもその場に居づらさのようなものを感じられてとても良くできているなと感じます。

その2 スタート地点の違う徒競走

授業では座って話すだけでなく、体を動かすアクティビティも行われていました。その一つがスタート地点の違う徒競走です。
生徒は校庭で横一列に並びゴールを目指します。
スタートする前、インストラクターが"私が言うことに当てはまったら一歩動いてください"と言います。
・親が英語のネイティブスピーカーであること
・警察に職務質問をされても恐怖を感じないこと

等様々な質問がされ、中には2歩下がる等のものもありました。
質問が終わり校庭を見渡すと、前の方には白人の生徒が固まり、後方には非白人の生徒が、最後尾はインド系の生徒でした。
インストラクターがこれは何かと問うと、生徒がこれが社会であると言います。
明らかに白人生徒がゴールに近く、最後尾の生徒は2倍以上の距離を走らなくてはなりません。
このように差別構造を可視化することで、マイノリティだけでなくマジョリティもそのことを考えやすくなるというワークです。

このワークのよいところは、実際の経験に則したものであることです。
同じように格差を考えるワークに、教室で椅子に座った状態から丸めた紙を投げるというものもあります。
教室の中で簡単にできるため便利ですが、その投げている人の位置と実際の差別はあまり関連しません。
一方でこの外で行うアクティビティはその格差を見れるだけでなく、実際にどのようなことで差別を感じるのかを知ることができます。
実際、警察官に職務質問されても恐怖を感じないという質問に対して白人の男子生徒が、「そんなこと考えたことも無かった」とつぶやきます。
社会構造はマジョリティ向けにできているため、マジョリティで生きている以上は"そんなこと"を考える必要もなく、それに困難を覚える必要もないのです。
そういう意味で、より構造的差別を可視化するという意味でも、このワークは優秀だなと感じました。

日本でもできないかな?

このワークに限らず、同じ授業を日本でもできないかなと私は考えています。
日本は人種差別は見えにくいですが存在し、その他の男女差別や障害差別等あらゆる差別に応用できると感じるからです。
一方で、これをやるときには一種のアウティングを含んでしまう危険性があることは否めません。
というのも、イギリスの授業では白人と非白人の様にある種見た目にわかりやすい分け方をしたため、まあそうだよねと言う感じがしました。
しかし日本でそれを行う場合、日本人/在日コリア台湾、部落の人、アイヌ琉球の人等、見た目にはわかりにくい人が多くアウティングになってしまうのではないかと感じます。
障害も同様です。車いすや視覚障害など目に見えてわかりやすい障害であればそこまでアウティング要素にはなりませんが、一方で発達障害や精神障害等見た目ではわからない障害もまたアウティングしてしまうのではと感じます。
男女の方がまだやりやすそうですが、私自身学校生活そのものでは男女の差別についてあまり感じたことがありません。
それよりも会社でこのワークをやった方が良いのではとも感じます。

東京オリンピックで、日本が掲げているDiversyが如何に空虚で中身を伴っていないかが明らかになり、反差別教育を含め差別を無くす教育の必要性が目に見えてわかるようになった一方で、どうやったらそれが実現できるのか。難しいなぁと感じます。

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