カラダはいらない アタマだけがあればよい世界
今朝、散歩の途中で公園のベンチで座っていたら、
チワワを連れた人が散歩していたのだけど、
いわゆる「歩きスマホ」状態で
画面からまったく目を離さずに歩いているのだけど、
それがまるで
「VRゴーグルつけて歩いているかのようだった」
もう、そういうことは「はじまっている」んだなあ
その程度が違うだけで「もう、そういうことだ。」
スマホとオデコのあたりが一体化しているようにみえた
スマホと視覚だけで完結している世界
カラダと…ではなくて
スマホと繋がっているようだった
あれはもう、VRゴーグルつけて
歩いているのとおなじだと…そうかんじた。
ベンチからその様子を興味深く見ていたのだけど、もちろん、わたしがガン見していることに気づくことはない。
彼は、スマホ画面の世界にいて「ここ」にはいなかった
少しチワワの安全が心配になったけれど、ちょこちょこと歩いているチワワのほうが、この世界に気づいていたとおもう(もはや、チワワが連れて歩いているようにも見えた)
これは「歩きスマホ」が良いか悪いかという話ではなく、特にそのようなマナーやルールに対しての怒りのようなものなくって、
ただただ、いま世界で起きていることを、
とてもわかりやすく表している象徴的な現象、、、
それへの違和感。
もう、そういうことは「はじまっている」んだなあ
その程度が違うだけで「もう、そういうことだ」
カラダではなくて、スマホの中の世界につながっている
それはインターネットなのか、メディアなのか、
テレビの時代からなのか、、、
その 画面□ を持ち運べるようになり
画面のサイズ□が、どんどん小さくなっていっているだけなのか、、、
カラダとのつながりが希薄になり、
きっと、アタマと「画面□」があれば
事足りていくのだろう
カラダはいらない、アタマだけがあればよい世界
それを具現化したのが
VRゴーグルのようなものなのだろうとおもう。
VRゴーグルのような技術は不便さを便利にもしてくれるのだろう。
でも「いつも」おもうのが、闇の部分を光でカモフラージュして100%光のごとく、がしかしと推し進めるのはいかがなものだろうか……表向きは「もっともそう、むしろいいかんじ」なのだけど、よくよくみてみたら、その中身・本質は……??それによって、表面的にみえている良い部分よりもデメリットのほうが大きいことに気づくのだけど、その表面的なキラキラとした光沢(イメージ)のほうに夢中なあまり、大人の事情については「見えない=見せない」
そんな光のカモフラージュに押し流されていく意識が
そのムーブメントのスピードを加速させ、
その川幅を大きくするエネルギーとして使われていく。
もちろん無意識のまま、、、
知らず知らずのうちに、その流れに参加している
そういう「手法」を使ったムーブメントなので仕方がない。
般若心経では「ここは夢だ」と言っているわけなのだけど、ここからさらに「一層深い夢」に降りていって、ますます、この夢から醒めることからは遠のいていく
そんな意識の状態が、そこにあるようにおもえた。
ウェルカムレイン☆サヤカ https://lit.link/wrsayaka
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