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短歌とか和歌とか

6月1日 短歌
文字により焼き付けれられしその想いひとつひとつを解凍してく / 有泉

こんにちは。初めまして。日本海にある離島・隠岐島、海士町というところで、暮らしている有泉(ゆうせん)と申します。ツイッターアカウント隠岐後鳥羽院大賞の中の人です。どうぞよろしくお願いいたします。

わたしは、仕事の関係で、『隠岐後鳥羽院大賞』という詩歌の大会の事務局をさせていただいております。後鳥羽院とは、今からおよそ800年前の1221年に、「承久の乱」という戦に敗れてこの島に来島された方(第82代の天皇だった方)です。この方はいろいろ多才(彩)な方でしたがその中でも和歌にすぐれた方で、当時の優秀な歌人たちをスカウトして(『和歌所』という役所を設置)、勅撰和歌集『新古今和歌集』を編さんさせました。

いろいろ語ってまいりますと長くなってしまいますので後々語らせていただきたいと思いますが、後鳥羽院の和歌にかんする業績を顕彰するために『隠岐後鳥羽院大賞』が作られ、おかげさまで短歌・俳句の部は今年で23回、和歌の部は10回続いております。

今日も、隠岐後鳥羽院大賞の投稿作品が全国から寄せられています。

わたしは毎日、全国の皆様が届けてくださった作品に目を通しPCに入力していっています。

わたしは、自分自身が歌を詠み、句を作るものですから、皆様の作品を見せていただくのが本当に楽しみです。

今日は短歌の話になりますが、皆様から寄せられた短歌の中には(※第22回の内容です)、
生き生き、はつらつとした歌もあれば、
奥様に先立たれて随分たつけれど携帯に残された奥様の番号をいつまでも消せないでいる、というような歌があったり、隠岐に行きたいけど病身のため行けない、という歌もあります。拝読していると、こういった気持ちを歌にすることでこの作者の方の想いが少しでも軽くなっていたらいいなと思いながら入力しています。
歌って、かならず相手があって詠むもので、よんだ(詠んだ)人と、それをよむ(読む)人との間には感情のやりとりが成立してると思うのです。
作者の方々はわたしが読むことは想定してないだろうけど。
いろんな、作者の方の抱えてる想いを軽くしてさしあげたいと思う。
歌をよむ、よみあうことはすてきな営みだと思います。
何年か前に読んだ本の中で、作家の川上弘美さんが、「短歌は短編小説」とおっしゃっていて、なんだか胸がスッとしました。
自分にしか書けない三十一文字(音)の短編小説、なんだよなあ。短歌は。

さて、自分にしか書けないことを書くのが短歌(現代短歌)なら、いにしえの人々の感じた季節のうつろいや、言葉のしらべにのせて、掛詞や縁語といった色々な決まり事を守ったうえで詠うのが、和歌(いわゆる古典和歌)です。

『隠岐後鳥羽院和歌大賞』の選者をおつとめくださっている冷泉貴実子先生が仰るには、明治以降の短歌(現代短歌)は、「あなたとわたしは違う」という考えを基に詠まれている三十一文字(三十一音)の歌で、個性を表現することに重きを置いているもの。では、和歌(古典和歌)はどうかというと、「あなたとわたしは同じことを感じていますよ」ということを共感しあうために詠まれている三十一文字(三十一音)の歌…ということなのだそうです。

ですので、和歌の場合は、季節をあらわす言葉も決まっていて、歌の中に詠まれる植物や生きものも決まっていたりします。この記事を読んでくださっている皆様は、(和歌…やってみたいけど難しそうだなあ)と思われるかも知れませんが、わたくし有泉もヒヨッコながら和歌を詠んでおり、いろいろつまづきつつも楽しくやっておりますので、これから、わたくしのnoteを読んでいただくうちに、「和歌作るの楽しいかも!」と思っていただけると嬉しいなあと思っております。(短歌も俳句もよろしくお願いいたします)

ここまで読んでいただいてありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします(*^^)v

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