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路地裏の雑文集 vol.6 無観客試合とオールドトラフォードの思い出。となぜかギターマガジン最新号の話。

無類のフットボール好きを自認する身としては、コロナ禍による欧州フットボールの長期中断は、なかなかに堪えます。

そんな中、一足先に再開となったブンデスリーガの無観客試合の様子を映像で眺めていたら、失望とともに、ふと15年前ぐらいに訪れたマンチェスターユナイテッドのスタジアム「オールドトラフォード」での思い出がフラッシュバックしてきたので、今回はその辺りを頼りに書き散らかします。

他人に自慢できることは、つむじが3つあることぐらしか思い当たりませんが、フットボールが好きで、学生の頃から、テレビ観戦では飽き足らず、お金を貯めては足繁く海外のスタジアムを訪れて、ちゃんと現地特有の熱気に身を浸すという行動を繰り返してきたことは、そこそこ誇れることかもしれません。

ざっと過去に訪れたスタジアムを得意げに列記させて頂きますと、

スペインなら、カンプノウ(FCバルセロナ)、サンチャゴベルナベウ(レアルマドリード)、ワンダメトロポリターノ(アトレチコマドリード)、サンマメス(ビルバオ)、ピスファン(セビージャ)、アノエタ(レアルソシエダ)、ドラガン(ポルト ※ポルトガル)

イタリアなら、サンシーロ(ACミラン)、デッレアルピ(ユベントス)、オリンピア(ローマ)、ビアデルマーレ(レッチェ)

イングランドは、オールドトラフォード(マンU)、アンフィールド(リバプール)

ブラジルなら、マラカナン(フラメンゴ)、モルンビー(サンパウロ)、ウルバノ(サントス)

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(スペイン、バルセロナ「カンプノウ」2014年!)

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(ブラジル、サントス「ウルバノ」、2004年!)

我ながら錚々たるスタジアムに足を踏み入れてきたものです。
(もちろん、もっと強者はたくさんいます!)

言わずもがなですが、カメラが一部分を切り取って、それを継ぎ接ぎするテレビ中継で観戦するフットボールとは、別次元のフットボール体験、フットボールカルチャーが確実にスタジアムには存在します。現場の熱狂でアドレナリンが放出され、そのカルチャーの一部に自分が溶け込んでいく感覚は、他では得難い体験がゆえに、毎回大枚を叩いて、海を越えてしまうわけです。

観客と選手がシンクロする“夢の劇場”と無観客試合


中でも、生涯忘れ得ぬ体験となったのは、鬼軍曹ファーガソンの晩年期、Cロナウドとルーニーの2枚看板時代に、友人らと訪れたマンチェスターのスタジアム「オールドトラフォード」です。

“シアターオブドリームス”(夢の劇場)との異名を持つ、その名門スタジアムは、観客が届ける声援と、ピッチ上の選手のプレー一つ一つが、完全に呼応していて、観客席とピッチがシームレスに繋がって、一つの生き物のように、特大なうねりを醸し出していました。

勇敢なプレーには拍手で讃え、臆病なプレーには容赦ない野次。目の肥えた観客のボルテージに比例するかのように、選手のパススピードが上がり、プレスの出足が早まり、ドリブルのキレが増していくのです。理屈では説明できない魔法のようなものが次第にスタジアムを包み、相手チームを飲み込み凌駕していく様は、まさにシアターオブドリームス。いたく感服しました。

フットボールといえば、選手のプレーありきと斜に構えていた自分にとって、スタジアムと選手が一体となって織りなすフットボールの姿は衝撃体験で、そりぁ、シーズン通じてホーム戦は負けなしとかっていう科学的には立証困難な摩訶不思議な現象(同じ選手、同じサイズのピッチ、同じルールで戦っているのに!)も、当然起こり得るんだなと、論ではなくて、体が理解したのを今でも強く覚えています。

さすがにオールドトラフォードの特異性は群を抜きますが、カンプノウでも、アンフィールドでも、本場のフットボールのスタジアムの原理というのは、おしなべて、そういうものでした。

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で、この前のブンデスリーガの無観客試合。

選手同士の身体がぶつかり合う音、スパイクがボールを捉える瞬間の音、監督や選手のコーチングの声。普段の中継では伝わらないピッチ上のディテールが伝わってくるという意味では新鮮で、臨場感があるにはありましたが、

ただそれだけでした。

フットボールという競技が剥き出しで映し出されているだけで、カルチャーとしてのフットボールは存在せず、無機質で魂が抜けた印象は想像以上、乾いた音が虚しさを余計に助長していました。

無観客試合なんてやるだけ意味がない、と訴えたいわけではなく、(現状の事態を考えれば、誰も望んでない致し方ない判断であり、観客の受け容れ体制を整えるための歓迎すべきファーストステップだと思っています)

無観客試合を観て、改めて噛み締めたことは、突如オールドトラフォードの記憶が引き出されたように、「フットボール(カルチャー)はどこで生まれ、誰が作っているのか」という、初歩的な前提事項の方です。

当たり前ですが、やっぱり、スタジアムの観客とピッチの選手との間で取り交わされるパッションの相互作用によって、フットボールはフットボールたり得て、選手は選手たり得ると思うのです。

観客の視線や期待や興奮が、選手のポテンシャルを無限に引き出し、逆に選手の覚醒が観客の歓喜を煽り、何なら相手チームの闘争心まで掻き立て、その往復を繰り返す中で、フットボールの魅力が醸成されるのだと思うのです。

そうした一種の極限状態が担保されているからこそ、その均衡を打破する超一流のプレーにカタルシスと価値が発生するわけであって。観客がいないのであれば、メッシはメッシではなく、ネイマールはネイマールでもないのです。

その前提が抜け落ちた状態で、試合をテレビで中継したところで、出がらしのような感動しか生まないのは当然です。

そう考えると、もちろん経済的価値はメッシの方が数億倍高いとしても、スタジアムに駆けつけるカンプノウの観客一人一人とメッシの文化的価値は等価だともいえます。何なら観客だけでなく、舞台裏で観客と選手の作用を支える、すべての関係者も、その文化的価値は等価であることは自明です。

ピッチの上でフットボールが生まれるのではなくて、
スタンドとピッチとの、その「間」で、フットボールは生まれるのだと思います。

ギターマガジン最新号に泣く


そんなことをウダウダ勝手に考えていた時に、偶然手にしたギターマガジンの最新号からも、「カルチャーはどこで生まれ、誰が作っているのか」という基本的な前提事項の確認作業を突きつけられました。

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ハイスタやナンバーガールなど、トップアーティストが、まだ何者でもない時代のライブハウスでの思い出を寄稿するという、魂込められた緊急特集で、どの記事も素晴らしく、ライブハウスへの愛と感謝に溢れた、胸が熱くなる文章ばかりです。

詳細は割愛しますが、オーディエンスとアーティストの相互作用によって音楽がドライブしていくこと、アーティストとアーティストが鎬を削り合う中で、新しい表現が弾き出されていくこと、ライブハウスが揺籃の地となり、音楽というカルチャーの下地を固めてくれていたことに、改めて気づかされます。

ステージの上で、音楽が生まれるわけではなくて、
ステージとフロアの、その「間」で、音楽が生まれるのですよね。

ドイツがコロナ禍における文化支援において、突出した態度を示したのは、世界の知るところですが、

中でも、個人的にぐっときたのが、例えば音楽に関して、その助成の範囲が、アーティストだけでなく、照明、ローディー、エンジニア、ライブハウス、ライター、街場のスタジオ、音楽教室、etc。そのカルチャーを形成するすべての要素を包摂していたことです。

文化を守るってことは、アーティストや選手を守ることではなくて、文化を形成している生態系全体を守るってことを、ちゃんと理解しているのですよね。さすがは先進国。ちゃんと「間」を見ている。

カルチャーはどこで生まれ、誰が作っているのか。

やっぱり、「間」にカルチャーの神様が宿るのだしたら、

僕らに、「間」を提供してくれるリアルな現場が、おいそれと、オンラインに取って替わるとは、到底思えないのです。

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