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これまでの自分と今の自分、そして、これからの自分へ

お久しぶりです。

前回のnoteを書いたのが10月の終わりごろ。それからなんとか秋学期を乗り切り、今は春休みを送っているところだ。今回は、備忘録的な感じで、過去の私から今に至るまでを、そして今の状況を書き留めていこうと思う。

話は高校入学から始めよう。

私が入学した高校は、いわゆる進学校で、私はその中でも難関大学を目指す人たちが集まるクラスに入ってしまった。中学までの勉強はかなりできる方で、どの教科も100点を目指して頑張っていた。しかし、高校の勉強は難しく、また、授業の進度も早く、急に毎日がハードモードになってしまったと感じていた。毎晩1時から2時頃まで予習や復習をし、土日は休みではなくひたすら課題をこなす時間で、やりたいことよりもやらなければならないことの方が多く、ひたすら焦っていた。夜中に吐き気を催しながら課題をし、月曜日になるのが怖くて日曜日は動悸がしていた。

睡眠時間が極端に少なく、勉強の過度なストレスがたたったのだろう、高2の5月ごろ、5限目あたりから動悸がするようになった。さすがにこれはまずいと思い、母が通っていたメンタルクリニックに自分も行くことを決めた。漢方薬や抗不安薬を試してみたが動悸は治まらず、「適応障害」と診断された。今思えば、あの頃は毎日緊張していたのだろう。常に競争の中に身を置いている感じ。常に課題に追われている感じ。

そして夏休み前の補講のとき。教室に着いて、授業開始のギリギリに水筒を忘れたことを思い出し、急に不安に襲われて水道まで水を飲みに行った。今思えばこれが不安感の始まりかなと思う。この時から、手元に水筒がない状態が苦手になった。今は、そのシチュエーションになるたびに自分に「大丈夫」と言い聞かせて、昔ほど不安になることは少なくなったが、それでも完全に気にしない!とはならないだろうなと思う。

夏休み明けのテストで事件は起きた。テスト中に頭が真っ白になって、沸騰しそうな感じでパニックになった。これ以上は無理だ、早く退席したい、と手を挙げて先生に気付いてもらおうとするも、先生は全く気付いてくれず、どうしたらいいか分からなくてただ涙が出てきた。泣きながら何とか保健室に行き体温を計ると微熱があったが、恐らく心因性発熱だったのだと思う。この時から、テストを受けるのが怖いと自覚するようになった。そして、もうあまり覚えていないが、恐らく次の日、ベッドから起き上がると体が重く、呼吸ができず洗面所で座り込んでしまった。涙が止まらなかった。急遽、通っていたメンタルクリニックに受診をしたのを覚えている。その後数日間は車に乗るのも少し怖かった。閉所が怖くなっていたのだろう。

そうやって体の不調を抱えながらも、いろいろと仕事を引き受けてしまっていて、1月の最後に全てやり終えたあと、メンタルがギリギリで、模試の時にまた頭が真っ白になってしまった。その時は一度退出して水分を取り、水筒を携帯して何とか継続したが、本当にしんどくなってしまった。この頃から、2年間いたクラスを辞めることを考え出した。そのあと英検の試験があったが、緊張と不安で、二次試験の面接では直前に試験監督の人に水を飲ませてほしいと言うくらいだった。クラスにいても、毎日の課題や授業でのグループワークが怖いとしか思えなかった。ちょうど現代文の授業で読んでいた「こころ」もとても重たい内容でしんどかった。みぞおちの痛みも良くならず、高校自体を辞めるかどうかまで悩んだが、自分にできることはもう何もない、環境を変えるしかない、とクラスを変えることを選んだ。担任の先生にそれを言うときは複雑な感情で号泣してしまった。

そうして私は3年生から普通クラスで過ごした。はじめは不安もあったが、過ごしてみると私がいかに閉鎖的な空間にいたのかが見えてきた。普通クラスにはいろんな人がいた。皆がそれぞれ違う方向を向いていた。私にはそれが楽だった。しかしみぞおちの痛みは治らなかった。受験生というプレッシャーもあったと思う。私には行きたい大学があった。はじめは高校が志望校を設定しろと言ってきて、とりあえず関心のある方向性の大学を調べて出てきた大学だったが、自分の進路を考えた時に大学に行くならここがいい!と思うようになった。共通テストの判定でEをとったり、二次試験の際に時計が壊れたりしたが、奇跡的に合格した。

大学生になってもみぞおちの痛みは治らなかった。入学早々、私は短期の韓国留学をしようとしていた。早く韓国に行きたかった。それと同時に焦っていた。早く通院を、薬をやめないといけないと思っていた。私はもう大丈夫だと思っていた。そしてゴールデンウィークあたりで通院と薬をやめた。そして約2ヶ月後、なかなか住む場所が決まらず困っていた。両親と電話をしながらどうしよう、どうしよう…と段々と不安と緊張が高まっていき、パニックになっていった。母の「やめてもいいんだよ。」という言葉に、「怖い、やめたい。」と思ってしまった。そして次の日、私は部屋の外に出れなくなっていた。全てが怖くなってしまっていた。留学どころではなかった。その日は学校を休んだ。そして土日を挟んで、月曜日、友達の付き添いで何とか学校に行き、テストを受け、それを何日か繰り返し全てのテストを乗り切ったあとすぐに父に迎えにきてもらって帰省した。自分の体に何が起きているのか分からなかった。とにかく体が重い。ひとりでいるのが怖い、寂しい。そして高校生のときに通っていたメンタルクリニックを受診。「全般性不安障害」と診断された。それから2ヶ月はほとんど寝て過ごした。

noteを始めたのはこの頃。これは以前noteに書いたが、花火大会があって、外に出るのも不安だった私は決死の思いで行ったのを覚えている。そして大学の授業開始に伴って東京に戻る前日、緊張で吐いたが、何とか行き、東京で病院を探し、今はそこに通っている。秋学期は薬のおかげもあってか、不安感はなく過ごせた。しかしみぞおちの痛みは変わらなかった。胃などの異常ではないかと内科を受診し胃カメラを受けたが、何も異常はなかった。唯一、今頓服で出されている薬がよく効くので、やはりこころの不調からきているものなのだろう。

春休みに入って前半は特に体調の変化はなく過ごしていたが、北海道旅行の1週間前に急に飛行機が怖くなってしまい、ひどい緊張型頭痛に襲われた。何とか飛行機は乗れ、旅行もそこそこ楽しめたが、その時から漠然とした不安感と体の不調が続いている。薬の影響もあるだろう。よくなってくれるのを祈るばかりだ。

大学生活は人生の夏休みだと言う人もいる。だが、そうでない例外も一定数いるだろう。私もきっと、その中のひとりだ。大学生になればよくなると思っていた私は、好きなことに没頭できると思っていた私は、どうしてここまでつらいのか、苦しいのかと、人生に絶望しそうになった。でも人生の夏休みなんて人それぞれだ。周りを見れば羨ましくなる。焦るような気持ちにもなる。でも私は、私の人生を生きているのだ。他人の道に咲いた花を羨ましく思う代わりに、自分の道に水をやろう。

私が、心の底から笑えるようになるまで、とても時間がかかるかもしれない。でも、痛みを抱えながら感じた幸せも、嘘の幸せではない。ただ、痛みも同時進行でいるだけ。幸せを探すことを忘れないで。

焦らなくていい。人生はきっと、焦らなくてもいいようにできてる。自分のペースは周りより少し遅いかもしれないけど、それでいいのだと思おう。

長くなってしまったが、備忘録として書き残しておく。これで私の頭の中から忘れることができる。つらい記憶はなるべく思い出したくないものだから。それに、もし今後、私と似たような状況の人の目に止まれば、なにかヒントになるかもしれないしね。

では今日も、おつかれさま。


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