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共鳴と雷鳴(後編)

テンポが上がりそうな会話をペースダウンさせるように、レイはゆっくりと雑誌から視線を外して、中空を見つめた。何度も見た横顔だった。静かな音楽が、僕とレイの間を通り過ぎていく。決して冷たいわけではないけれど、ひんやりとした温度で、障害物をうまく避けながら低空飛行を続けている。耳から入ってくるというよりも、体の表面が、皮膚が音に触れている感覚だった。音楽が鳴っていること以外に、時間が流れていることを認識できるものはなかった。夜から切り離された時間は、孤独でもあり、自由でもあった。目的地を定めず、夜間飛行を続ける飛行艇。ナイトフライト。星降る夜、空全体が瞬いている。それとは対象的に、眼下の海は無表情にぬらりとしている。空と海の境界線は、不思議なくらい近くに感じられた。
口を硬く閉じて、レイがこちらを見る。目が合う。ずいぶん久しぶりのような気がした。一度視線を外した後、そうだね、と再び僕を見る。同時に、図ったようにぴたりと音楽が止んだ。堆積していた沈黙が一気に弾け、あっという間に部屋じゅうを埋め尽くしていく。持て余すほど濃密な沈黙の中で、交わった視線の行く先を見つけられないまま、視線を外すこともできず見つめあった(実際にはほんの数秒の)時間は、永遠のように長かった。

突然、ドーンと大きな音がして、窓ガラスが揺れた。
「え?」思わず声を上げる。反射的に空を(正確には天井を)見上げる。雷だろうか、そう思った矢先、激しい雨の音が聞こえてきた。
「雨か。びっくりしたね」そう言って、レイに視線を戻した。レイは突然の出来事に驚いた様子もなく、雷も雨も予め知っていたかのように平然として僕を見つめている。

もしあのとき雷が鳴らなかったら、と今でもときどき考える。
あのタイミングで音楽が止まらなかったら、雷よりも先に僕が沈黙を破っていたら、そもそもあんな質問をしていなかったら。どれか1つでも違っていたら、結果は変わっていただろう。けれど、全てが偶然とも思えなかった。きっとどこかの観測点で、気がつかないうちに別の世界に迷い込み、長い時間をかけて辿りついた結果--。
気がつくと、レイの目は妖しく光り、吸い込まれそうなほど深い藍色をしていた。もはや視線を外すことは諦めていた。藍色の光に身を委ねるしかなかった。遠い昔の記憶が呼び覚まされ、時間と場所を軽々と越えていく。過去と未来と今が混ざり合い、大きなうねりになる。レイと出会ったこと、同じ歩幅で歩いてきたこと、いつの間にか迷い込んだ世界の入り口、いつの間にか歩幅も、歩く方向も違っていたこと、ときどきレイが立ち止まって僕を呼んでいたこと、レイがこれから僕に伝えること、そして2人の未来。全てが1つになって流れ込んでくる。夜間飛行を続けていた飛行艇が、水平線の向こうにかすかな光を見つけ、舵を切る。

今度はもっと近くで雷が鳴った。
やがて、レイが口を開く。

(了)

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