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SNS文章の「読む専」なった弊害~文章を書く力↓、本を愛でる感性↓~

SNSを開けば、広告だろうがお気持ち表明だろうが、様々な文章が目に飛び込んでくる。かつて娯楽や教養目的に本を購入していた習慣はどこへやら。用意にアクセス可能な文章に年単位でさらされ続けた自分の、文章を読む力、書く力が著しく低下しているような気がしてならないのだ。それを自覚したのは大学院生になってからだが、これからの自戒もこめて、今後どうしていくべきかを書いていきたい。

他人に読んでもらう文章を書くことでしか得られない栄養

自分の仕事は、文章(特に長文)を作成するタスクは多くない。あったとしても定型的な文章の作成のみであり、学生時代のように文章を苦しんで作り、推敲するような機会はめっきり減った。ひっっさしぶりに人に読んでもらう文章を作成したのは、研究の倫理申請だっただろうか。
文章を論理の破綻なく作成することがこんなに難しかったとは、とひどく落ち込んだのを覚えている。ただ、他人に読んでもらうための文章を書くことでしか得られない栄養があるとも、その時気づいた。昔学問で触れてきた文章や、小説・新書を読む中で得た感動も、なぜか文章を書く中で思い出されてきたのだった。

思い出深い本たち、でも、その文章の詳細はもう思い出せない

SNSの有無にかかわらず、長文を腰を据えて読む機会はめっきり減った。学校の休み時間やバスや電車で読書にいそしんでいたが、自家用車通勤となりその機会を失った。仮に電車通勤でも、スペースを取る本を持参する可能性も低いだろう。「そうまでしても読みたい本が無いのだ」と自分に言い聞かせているが、そもそも本を評判で選んだことなんてなくて、タイトルや表紙にひかれて購入していたことすら忘れてしまっていた。
なぜか、今でも深く記憶に残っている本は、村上龍の「半島を出よ」だ。

当時は小中学生くらいの年齢だったが、授業中も隠れて読んでいたくらい、この本は好きだった。ストーリーも好みだったが、文章がとにかく好みだったのを覚えている。かなり序盤にホームレスがおしぼりで体中を拭く描写があるのだが、その描写がすごく印象的で、出だしから「この本はなにやら面白そうだ」と感じた。
その後村上龍の本を読んだかと言うと、読んでいない。本当にこの本の表紙を含めたたたずまいが好きだったんだと思う。そんなお気に入りの本でも、その細やかな表現までは思い出せない。自分の奥深くに存在だけでもしてくれていたら、と期待している。

良質な文章に触れる機会が無いからこそ、触れたタイミングでのアウトプットを意識したい

SNSで誰もが発信できる世の中、良質な気づきを得る機会は爆発的に増えた。しかし、なぜか頭にこびりつくような、印象的な文章に触れる機会はめっきり減ったように思う。キャッチコピーで素敵なものはあるが、そういう意味ではなくて、引き込まれるようなセンテンスというか、そんなものだ。本を読んでしみこんでいくような感覚を忘れたくない、アウトプットを通して自分の糧にしたいという狙いがあり、noteを書いてみようと思っている。また、それと同時になぜか手に取りたくなる本に出合った場合、無理にでも読書をする時間を設けていこうとも感じている。

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