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インフラとしての医療、仁術としての医療

2024年4月、医師の働き方改革がスタートした。他医療職種を差し置いて医師がターゲットになったのは、その職業の持つ特殊な働き方が原因に他ならない。その働き方については大手メディアも多く情報をまとめているので、正確な情報を伝える自信がないこの場で語ることは避けて、違った視点から考えを吐き出したいと思う。見出し画像はhttps://www.kahaku.go.jp/exhibitions/ueno/special/2014/ihajin/より。


医療はインフラなのか、サービス業なのか

医療はインフラの一種である。この部分に異論がある方は少ないだろう。医療行為にかかるコストは国民皆保険で賄われているのだから、水や電気が使えるのと同じく、医療へのアクセスがある程度保障されていると考えるのは自然なことだ。

では、医療は水や電気のような「無機物」なのだろうか。人間が人間に対して行う以上、もう少し感情的なものになるのは間違いないだろう(電気屋さんや水道屋さんが人間らしくない、とする表現ではありません)。全く同じ内容の治療をうけても、病院の綺麗さや医師・看護師の態度によっては満足度が変化するのは言うまでもない。病気が治るための絶対条件として、病院がホテルみたいに綺麗であることや、医師・看護師が常に笑顔であることは求められているわけではないはずなのに。間違いなく医療にサービスの側面は存在する。

ここで、インフラというマクロな視点と、場合によっては医者と患者の1対1対応下に存在する濃厚なサービス業という視点が混在することになる。「国がインフラは整備するから、後は現場レベルでサービスしてね」が現代における医療の現状と考えている。

サービス業であるからこそ存在する「医は仁術」という表現

「医は仁ならざるの術,務めて仁をなさんと欲す」、という江戸時代の言葉がある。「医療は無条件に善なのではなく、医者次第で善にも悪にもなるから、医師は常に謙虚に患者のために尽くすべきである」という言葉だそうだ(日本医師会雑誌117巻 第6号より抜粋)。インフラというマクロの視点で、ここまで人間一人にフォーカスした理念が出てくるだろうか。何なら、水道や電気の整備によって命を救われた人間の方が多い気もするが、それらは仁術と呼ばれない。医療は濃厚な個々人の関係性の上に成り立つサービス業そのものであったことが伺える。

「医は仁術」と呼ばれる別の要因として、①医療人には永続的な自己研鑽が必要、②病気やケガはいつ何時起きるものかわからない、という認識だと考える。日進月歩する医療知識をキャッチアップし、手術などの手技を磨く。急病人には速やかに対応する。このような姿勢が人々の尊敬を集め、「医は仁術」と称されるようになったのだろう。赤の他人のために自己研鑽に励み、昼夜問わず対応する。仁術=サービス業、と言い切ってしまって良さそうだ。

サービス業+インフラ。医療に強いられる二面性

名医という言葉がある。医療に秀で、かつ人間性にも優れた仁術を提供する人間のことをここでは指そうと思う。仮に日本に1人しか名医がいないなら、患者が名医を求めて集まってくるのだから、優れたサービス業者だと表現しても矛盾しないだろう。ここで私が思うのは、現代日本においては、名医をインフラとして扱おうとしていないだろうか?ということだ。つまり、優れたサービス業者を、インフラとして配備しようとしていると感じているのだ。

現在、日本国内には82の医学部が存在するそうだ。数多くの医療人や患者さん達の協力の元、医療は発展した。人員が増えることで医学教育体制も拡充し、高齢社会に対応するように国民皆保険の元、医療はインフラとなった。各医学部で教育された医師たちが日本全国で名医として活躍すれば立派な医療インフラの完成、となるはずだ。しかしそのためには医師の偏在はあってはならないことだし、各医師が「医は仁ならざるの術,務めて仁をなさんと欲す」という理念の通りに自己研鑽に励み、急病人にも対応できるよう働き続ける必要がある。江戸時代のまま、とまでは言わないが、仁術を提供することが医療インフラの中でも当然のように求められ、サービス業+インフラという二面性を医療が持つようになったと考えている。

仁術コミコミ医療インフラ、医師の働き方改革はそれを暗に認めただけ

24時間、戦えますか?というキャッチコピーが打たれていた時代から時は移り、平成令和においては過重労働による弊害がクローズアップされることになった。そこで医療人の働き方にもメスが入ることになる。長時間にわたる自己研鑽、繰り返す急病人対応による疲弊の実態が明らかになった。しかしながら、長時間労働の是正を掲げながらも、時間外勤務の上限を原則年960時間とし一部の医療機関において年1860時間を許容する、という方針が打ち出された(一般的な労使関係においては年360時間が上限)。さらに、宿日直許可という、「当直後の日勤も存分に仁術を提供しちゃっていいよ」というような仕組みも生まれてしまった。もはやインフラに組み込まれてしまった仁術を急激に縮小することは、国・社会全体が容認出来ないのだ。

https://iryou-kinmukankyou.mhlw.go.jp/manga
厚生労働省の出している解説漫画より

さらに歪な構造だと個人的に思うのが、インフラ維持の根幹となる患者対応に際して、現場レベルで裁量をゆだねていることだ。多くの医療人は「医は仁術」の理念通りに働くが、患者にとってはそれは水や電気のように当たり前のこととして扱われている。だからこそ、最善の医療を尽くしたとしても訴訟に発展するケースが存在するのだと思う。医療は限られた名医のものから、国の管轄するインフラに引き上げられた。また、医療レベルは飛躍的に発展しよりシステマティックなものに変貌した。それなのに、「医は仁術」という崇高な概念だけが、現場で戦い続けている。

古くから存在する仁術への期待と、コスト(金銭面、医療人の体力面)とのすり合わせは現場で起きている。医師の働き方改革はインフラを維持するためにコスト面での解決策を与えるのみで、仁術の上限を規定してくれることはなかった。仁術コミコミ医療インフラの維持は暗黙の要請であり、国はインフラを維持するために長時間労働を容認しただけだ。

インフラに組み込まれた仁術、サービス業への回帰

仁術はインフラの一部になった。国レベルでは仁術はシステムに組み込まれ、あって当然のものと扱われるようになった。それでも、現場の医療人はサービス業だからこそ得られる患者さんからの感謝などは率直に嬉しく、励みにしてきた。医療人が行ったサービス業としての仁術への対価は、国が直接払うわけではなく、患者からの感謝という見えないものを現場で回収することに依存しているのが現状だ。それでも医療を提供する人間としての矜持、プライドを持って頑張ってきたし、これからも頑張る医療人はいるはずだ。ただ、多くの医療人が、保険診療を去り美容などの自由診療や、他分野に活躍の場を広げている事実もある。私が思うにこの流れは、医療のインフラからサービス業への回帰と考えている。優れたサービスを提供することで患者ないしは社会から評価され、儲けも出る。美容医療を卑下する方もいるかもしれないが、美容医療の名医たちは「医療は無条件に善なのではなく、医者次第で善にも悪にもなるから、医師は常に謙虚に患者のために尽くすべきである」を見事に実践し、その結果患者からの支持、報酬を得ているのではないだろうか。

昔と違って名医のポテンシャルを持つ人間は多くいる。全員が名医にはなれないが、医療インフラというシステムが日本全体の名医を担う。仁術は、インフラの中に概念としてのみ存在し続けるのか。はたまた名医の条件としての価値を取り戻すのか。取り戻すとしたら、どのような形で名医は復活するのか。注目していきたい。

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