閑話休題 帰省(前編)

 祖父の調子が優れないため帰って来いという母親からの連絡と、九月に中学校のクラス会をやるので来ないかという誘いを同時に受けてから二週間、もう大学卒業まで帰って来ないつもりでいた故郷の駅に一人立っている。
 駅まで迎えに行こうかという両親からの申し出は断った。いつ帰ってくるかも詳細には伝えなかった。駅から家まではそう遠くないので、寄り道をしながら一人でゆっくり歩こうと思っていた。親の運転でまっすぐ帰りたくなかった、というのももちろんあるが。
 岩手の山間に位置する田舎は、夏でも涼しい風が草木の匂いを運んでくる。同じ東の字が使われているのに東京とは大違いだ。コンクリートの高層ビルの代わりに木造の平屋や戸建てが立ち並び、夏休みの日中だというのに人通りは全くと言っていいほどない。ノイズのような蝉が鳴き喚き車やバスが時々過ぎ去る以外は、世界に俺一人だけが取り残されたかのような静寂が背後からひたひたと迫り来るようだった。
 その孤独感が妙に心地よいとも思っていた。東京は好きだけれど、あまりにも人が多すぎる。海のような人込みに毎日呑まれ、星も見えない夜を駆け抜けて帰る狭い家は隣人の吐息すらも聞こえるような部屋だ。寝ても覚めても自分以外の人間の気配を感じながら生きていると、あれほど憧れていた都会での生活も疲労と苦痛の素にしかならない。
 かといってこの田舎に戻りたいかと言われると今は絶対に戻りたくない。せっかく井戸の外に出られたのに、広い世界ではなく住み慣れた井戸に舞い戻るなんて何のロマンも楽しみもない。固定されたメンバーが全員俺が誰でどこの家の人間で今何をしているのか全て把握しているような環境で、また生きていきたくない。嫌でもいずれは戻らなければいけないのだから。
「暑……流石に夏の日中に歩くのは無謀だったな」
「だからタクシー乗ろうって言ったじゃん、ねえ! 今からでも乗ろうよぉ」
 後ろから田舎に似合わない綺麗な標準語が聞こえてきた。俺以外にも人間がいたらしい。世界に取り残されたわけではなかったという安堵と、本当に一人だったらどれだけ自由に生きられたかという思いが一瞬よぎる。
 横に逸れるふりをして素早く二人の顔を見ると、田舎にはそぐわないツインテールで地雷系の女の子と目が合った。彼女は俺と目が合うと一度は視線を前に戻したものの、何かに気付いたかのようにもう一度俺を見た。
「ふみくん?」
 ドッ、と心臓の動きが速まる。なぜ俺の古いあだ名を知っているのだろう、この子は。
「あ、ええ、と」
「ふみくんもクラス会で帰ってきたの?」
 ふみくんも、と言ったということはこの子も俺と同じ学校に通っていたのだろう、クラス会とはいえ一学年一クラスしかないような過疎地域だ。過去のクラスメイト達と目の前の彼女の顔を照らし合わせても、中々出てこない。
「んもー、うららだよ、青山うらら! 中学まで一緒だったじゃん」
「ああ……えっ? う、うらら?」
「あんなに仲良かったしインスタも繋がってるのにさー、忘れないでよもー」
 さらさらの黒髪を指先で弄びながらうららは笑う。芸能人のような眩しい笑顔にピンクと黒を基調にしたワンピース、中学生時代の俺が知っている短髪で男言葉のうららとは全くの別人だった。
「ごめん、可愛くなってるから気付けなくて。久し振りだね、いつぶりだっけ」
「中学校の卒業式? 高校から別だったもんね。懐かしー、ふみくんも大人っぽくなったね」
 俺の言葉に恥じらうでもなくさらりと受け流した彼女の姿は、もう俺の知っている青山うららの面影はなく、都会で遊び慣れて垢抜けた知らない女の子だった。それでも俺のことをふみくんと呼ぶのは変わらず彼女だけで、それが妙に嬉しくも、外見ががらりと変わった彼女を見るのが悲しくもあった。
 うららの隣にはもう一人女の子がいた。こちらは重い前髪を一直線に切り揃えた、Tシャツにショートパンツにビーチサンダルという今一垢抜けない子で、俺を安心させたのは彼女の方だった。
「ええと、そちらは……」
「月子だよ、大学の親友。観光ついでについてきてもらったの」
「赤羽月子といいます」
 テノールの声が胸を貫いた。一瞬女の人とは思えないほど低かったが、それが心地よく俺の脳に響き渡り、もう一度声を聞きたいと願ったものの、彼女は名前以外の情報を何一つ言わなかった。その代わり鋭い三白眼がじっとこちらを見ていて、俺の出方を観察しているようだった。
「国見文人です。うららとは小学校からの知り合いで」
「『あやと』なのに『ふみくん』?」
 赤羽さんはうららの方を見てそう言った。些細なことだけれど、話す相手のことをちゃんと見て話すというのは結構好印象だ。
「そうなんだ、聞いてよ。あたし小二までは二クラスでさあ、小三から一クラスに統合されたんだけど。で、ふみくんは文章の文に人って書くじゃん? 最初に名前を見たときに『ふみとくん』だと思ってたの」
「よく間違われるよ」
「でずっとふみくんふみくんって呼んでてさ、ある日ふみくんと同じクラスだった子に指摘されて初めて気付いたの」
「でもうららが呼ぶあだ名はずっと『ふみくん』だったね」
「失礼かなと思ったけどいいじゃん、あたしだけって。何か特別感あってさ」
「そうだね」
 赤羽さんは短く同意をしながらニッと右頬だけを上げて笑った。その姿が妙に格好良くて、変にドキドキしてしまった。
「ね、タクシー呼ぼうと思うんだけど。ふみくんも乗る?」
「ああ……どうしようかな」
「どうせすぐそこでしょ、歩こうよ。散歩がてら」
「暑いじゃん!」
「俺は徒歩でもいいよ」
 難色を示したのはうらら一人だったけれど、俺と彼女が歩く気でいると知り諦めたようだった。赤羽さんは既に僕たちの数歩先を一人で歩いており、うららのことなどは気にしていない様子だ。
「わかったよもー……ねえつーちゃん待って!」
 少し後に僕とうららが続いて追いかけていく。うららが重そうにキャリーバッグを引くのに比べると、彼女は登山用のリュックサック一つと随分身軽で、躊躇いもせず一人でどんどん歩いていた。どこまでも歩いて行けそうな筋肉質の白い脚だった。

 壁に貼ってある昔の写真はどこか日焼けしたように見える。どんなに帰るのが嫌でも実家の匂いは安心とセットだ。長い間空けていた自分の部屋でも、荷物を置いて腰を下ろせばすぐに自分の匂いになる。ここで生きて、成長して、友達ができて、高校を卒業して……いいことも嫌なことも全てこの部屋に詰まっている。二年も離れた実家に安心感は覚えないだろうと思っていたのに、踏み入れた瞬間から全てがしっくりきてしまい、やはりここが自分の帰る場所なのだと自覚せざるを得ない。
 カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しすぎて目を逸らす。昨日家に帰ってきてから、両親と少し話してすぐ自分の部屋に引き上げてきた。祖父が特に異常もなくいずれ退院できると聞いて安心したと共に、じゃあ帰ってくる必要はなかったのにという負の感情が心の奥底からふつふつと湧き上がり、余計なことを口走ってしまう前にクールダウンしようと部屋に逃げ込んだのだ。
 特に何も考えずスマホを開く。うららと一緒に来ていたあの子、荷解きは済んだだろうか。駅からうららの家まではそんなに遠くないから、もうとっくに落ち着いた頃だろう。このままベッドに沈んでいたい気持ちもあるけれど、せっかく会ったのだから遊びたい気もする。他に会いたい奴もいないし、何より地元の皆よりは俺と同じように東京に出たうららと話した方がまだましだ。
 シャワーを浴びて服を着替える。持ってきた服からはまだ東京の匂いがする。束の間の非現実、理想の匂い。つい昨日ここへ着いて見慣れた地元の風景と実家の匂いに安心していたはずなのに、大学やあの狭い部屋のことを胸が苦しくなるほど欲している。帰りたいわけではない、逃げ込みたい。もう少し都会の自由な生活の夢を見ていたい。
 かといって本当に何もかもを投げ出して、本当の意味で好きなように生きることは絶対に不可能だ。何より自分にその勇気がないのが一番の足枷になって、この岩手の地に縛り付けられている。
 準備された朝食を食べ、大学の入学祝に両親と祖父母が買ってくれた車の鍵を手に取る。慣れない車の鍵は無機質で重く手に食い込む。
 うららの家はここから駅に向かって走る途中の住宅街にある。確かアパートだったけれど、正確な場所までは覚えていない。近くなったら電話でもして確認しようと思いながら走っていると、赤羽さんと思しき人が神社の手前を歩いているのが見えた気がした。赤羽さん本人だろうか、コンビニの駐車場に車を停めて後を追いかける。受験前の正月、クラスの何人かで初詣に来た神社だ。本殿の手前には狛犬ではなく狛狐、この辺は農家ばかりなので稲荷神社が多い。
 境内の芝生にしゃがみ込んでいるのは紛れもなく赤羽さんだった。この辺では珍しい野良猫が彼女の足に絡みついて気持ちよさそうに喉を鳴らしているので、顎や背中を撫でてやったり何か話しかけたりしているようだった。相変わらず飾り気のないTシャツ姿だったけれど、他の姿が想像できないくらいしっくり来る格好だった。
「おはよう、赤羽さん」
 近付いて声をかけると、彼女は真顔で俺を見上げた。警戒しているわけではないけれど、あなたのことを心の底から信用していないし、行動次第ではいつでも逃げ出しますと言いたげな、野良猫のような目だった。
「……ええと」
「昨日会ったね、国見だよ。国見文人」
「ああ……ごめんなさい」
「何してるの?」
「散歩してたんです」
「いいね」
 会話はそこで沈黙と共に途切れてしまった。どうやら猫の方に集中したいらしいけれど、俺はもう少し会話を続けたい。地元出身ではない彼女は明らかに異物、異質そのもので、かといって東京っぽいかと言われると決してそうではない、不思議で見えない芯を持っている。赤羽さんの傍で呼吸をするのが一番楽なのだ、今は。
「猫好き?」
「好きですよ」
 再び沈黙。
「毛皮と牙があっていいですよね。爪も鋭いし」
「可愛いよね」
 可愛いという反応を想定していたので、予想外の返答に可愛いと答えるしかなかった。大体こういう時には可愛いからなんて言うものだろうと思っていたのに、何だか自分が面白くない的外れな回答をしてしまったようで嫌だ。
「猫カフェとか行く?」
「行ったことないです、そういう猫には興味がないので」
 撫でられて満足した様子の猫があくびをして立ち上がる。
「わたしは特定の誰かに深く愛されている猫が好きなんです」
 どことなく寂しいような顔をしている、ような気がした。もしかしたら俺の勘違いだったかもしれない、彼女はすぐ無表情になるので何を考えているのかがわかりづらい。
「あの、よかったら三人で遊びに行かないかな、と思って。その、二人が良ければだけど」
「わたしは……わたしはいいですよ、うららが一緒なら」
「ありがと。家の場所忘れちゃってさ、教えてくれない?」
 赤羽さんの動きが一瞬止まり、何かを探るように僕のことをじっと見た。でも彼女は何も言わずすぐに立ち上がり、俺も急いでそれに続いた。警戒しているわけではなく、俺の思っている以上に無口なだけなのかもしれない。
 うららの家は神社からかなり近く、駐車場に入ると一気に懐かしいうららのマンション周りの風景だった。
 中学校二年生から三年生の終わりまで、毎日ではないものの、頻繁にうららと一緒に下校をしていた。うららが真帆のことを好きだったのも、俺が真帆と付き合って別れたのも、全部学校帰りに話していた。
 丁度その頃は二人とも思春期らしくやさぐれて、傷付いて、毎日躁鬱のジェットコースターに振り回されていた。夏の日に俺はうららに家へ誘われ、そのまま卒業までセフレになった。
 あの頃にはもうとっくに自分に課せられた逃れられない運命に気付いていて、高校進学前にはすっかりあがくことを諦めていた。親や親族が敷いたレールを進むことに抗わず、最終的にこの田舎に帰ってくるまでの僅かな間に自由というものを垣間見て、それですっかり満足してしまおうと思っていた。
 うららは違った。うららは逃げようと頑張っていて、東京の高校に進学することを決めた。中学生の頃にうららとセックスしたのは、そうして彼女により近付くことで自分の運命も変えようとしていたのかもしれない。結局人生はそう上手くはいかないと気付かされただけだったが。
 赤羽さんがドアを開けるとうららはベッドに座って柔軟体操をしていて、俺の姿に気付くと慌てるでもなくおはようと言ってそのまま続行していた。
「どうしたのふみくん」
「暇だからさ、一緒に遊びに行かないかなと思って」
「暇って、ふみくん遊びに行かないの? 元生徒会の友達とかクラスの友達とか沢山いるのに?」
 言われた途端に息が苦しくなり、ずっと胸の辺りを圧迫されているような感覚が消えなかった。それは、そうだ。確かに友達はいる。帰省する話をしたら何人も遊ぶ約束を取り付けようと連絡してきた、でもその全てにいつ帰るかは未定だと帰してしまった。どうしてそんなことをしたのかは自分でもよくわかっていない。
「それは……そう、なんだけど」
 それはそうだけれど。けど、どうしてだろう。理由も言い訳もすんなり浮かんでこない。前はこのくらい簡単だったのに。皆のことをコントロールして、統率して、どんな言葉だって思っていなくても出てきたのに。
「まーいっか。いいよ、準備するからちょっと待ってて。後ろ向いてよ、着替えるんだから」
 うららに言われて慌てて後ろを向く。赤羽さんは興味がなさそうにスマホを見ていたので、俺もうららが着替える音を聞きながらスマホを開いた。遊びに誘ったはいいけど、どこに行くかは決めていない。
 この辺りで遊べそうなところ、あったっけ。盛岡でも行こうか、でも行ったところでどこに連れて行けばいいんだろう。デートをしたことがないわけじゃないのに変に緊張しているのは、異分子が紛れ込んでいるからかもしれない。
 赤羽さん。初めて会うのに他の女の子とは違う、何を考えているのか、何なら喜ぶのかがまるでわからない。
「あ……あのさ、赤羽さん」
 赤羽さんは返事をせずに顔だけ上げて俺の方を見る。そうして無言で話の続きを促してくる。彼女に見つめられていると焦りを見抜かれてしまいそうで、つい目を逸らしてしまう。
「どっか行きたいとこある? 好きなものとか」
「行きたいところ……映画館とかですか」
「あ、え、映画館? うち来たら映画くらい見れるけど……」
「映画館に行くのが好きなので」
 映画館に行くのが好き、ということは結構サブカル系寄りなのかもしれない。今どき映画館に出向いて何かを見る人も珍しいし。
「平泉とか何かありませんでしたっけ、龍泉洞?」
「それは岩泉!」
 うららの声に思わず振り返るともう着替え終わってメイクを始めたところだった。すっかりこの辺のことなんか忘れて東京に染まりきっているのだと思い込んでいたから、うららが岩手のことを何も忘れていないことに少しほっとした。
「あー……中尊寺とか? 修学旅行で一回だけ行った覚えがあるんですが」
「えー? ねえアメリカンワールドとかは? 観覧車あるよ観覧車」
「何それ? 美浜みたいな感じ?」
「あー月子は沖縄を知ってるんだった、じゃあ駄目か……」
「厳美渓は?」
「ねえあんたさっきから出してる名前のとこ修学旅行で行ったんでしょ」
「行ったけど……」
「じゃあ駄目じゃん! てか夏だし暑いし野外はやだ! 盛岡で古着漁るくらいでいいでしょ、ふみくんも古着好きだったよね」
「あ、う、うん」
 二人の会話のラリーを追っていたところに突然話を振られて戸惑ってしまった。
「赤羽さんも古着好きなの?」
「別に嫌いではないです、詳しくはないですけれど」
「決まりじゃね? メイク終わったし行こうよ」
 想定より早くメイクを終わらせたうららは鞄を手に取り、赤羽さんもすぐ赤と紺のツートンカラーのリュックを背負い、無言のまま玄関に向かう。俺も慌ててそれに続き、鍵を閉めるためにうららが最後に部屋を出た。正午を迎えようとしている夏の水沢は乾燥した暑さで、いつの間にかサングラスをかけていた赤羽さんが背筋を伸ばしてたたずんでいる姿がアンバランスなのによく似合っていた。

 盛岡を出る頃には辺りはすっかり暗くなっていて、眠くなったうららが後ろのシートで寝ると言うので赤羽さんが俺の隣に座ることになった。こんな時間に県南に向かう自動車はそう多くないだろうから、下道を通って帰ることにする。赤羽さんとじっくり話をしてみたかったというのも少しはあるが。
 赤羽さんは買い物の荷物を後ろの足元に置き、窓に肘をついて外を眺めていた。黒髪に黒い服が夜の街にすっかり馴染んでいて、こんなに夜が似合う人は初めてだとぼんやり思った。
「寒かったり暑かったりしない? 大丈夫?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
 一日中一緒にいたのに彼女はまだ敬語で、同い年のはずなのに妙に大人びて見える。なんだかずるい。
 信号で一時停止をすると、エンジンと排気の音の合間から微かに鼻歌が聞こえてきた。低く鼻歌を歌っているのは赤羽さんだろうか、可能な範囲で耳を傾けていたけれど、俺の全く知らない曲だった。
「音楽かけていいよ」
 赤羽さんが鼻歌をやめこちらを見る。俺も赤羽さんの方を向くと、暗闇の中であの真っ黒な三白眼だけがきらきら輝いていて綺麗だ。
「イヤホンジャックに繋いだら音楽流せるから、俺赤羽さんの好きな音楽知りたいな」
「好きな音楽ですか」
 プラグをスマホに挿し込んだ彼女がスマホ内から曲を探すのを横目に車を走らせる。対向車は忘れた頃にすれ違う程度になり、街灯もまばらになってきて、今この夜に起きているのは俺と赤羽さんだけのようだった。
「国見さんはクリープハイプお好きですか?」
「うーん……聞いたことないかも」
「レディオヘッドは?」
「それもちょっと知らないかな」
「邦楽と洋楽、どちらをよく聴きますか?」
「邦楽かも、や、でも本当に、気にしないで好きな曲かけてよ。赤羽さんの好きな歌が知りたいんだ」
「好きな曲……」
 選曲を終えたのか彼女がスマホを閉じ正面を向く。スピーカーからは男の人の声が聞こえてきて、すぐに夏のビーチで流れるような少し古いポップスが始まった。
「夏っぽくて好きなんです。この曲」
「そうだね、季節に合ってていいね」
 しばらく聴いた後に誰の曲かを尋ねると、有名なクリスマスソングを歌っているアーティストと同じだということがわかった。それからイントロだけよく知っている曲が流れたので、歌詞の解説をしてもらい、この曲が特に有名でとかMVが革新的でとかぽつぽつ教えてもらった。
 話の内容も興味深かったけれど、何より彼女の低い声が耳に心地よくて、ずっと聞いていたいくらいだ。今この瞬間、赤羽さんが俺のためだけに話してくれている。改めて意識すると何だか変な気分だ。状況は普段友達や先輩後輩と話すのと何ら変わりないはずなのに。俺の知らない世界を持っている赤羽さんが、自分の見てきた景色を教えてくれる。低い声が耳から入り込んで、心の奥底を揺らす。
「だからニルヴァーナは死にゆく者の叫びなんですよ。カートコバーンは若くして死んだんですけれど、自分がその歳で死ぬ運命だとわかっていて、自分が生きた証、人生の葛藤を歌にして遺したかったような気がするんです」
 そこまで言い切ってから赤羽さんは一息ついて飲み物を口に含んだ。
「沢山喋ってしまいましたね。でも音楽ができるのはいいことです」
「赤羽さんも音楽が好き?」
 思わず反射で叫ぶように返してしまった。赤羽さんは別段驚いた様子もなく、首を傾げて俺を見た。
「あっ……えっと、僕……俺も音楽が好きでね、昔からずっとピアノをやっているんだけど」
「だから指が綺麗なんですね」
 突然褒められて胸がきゅんと甘く締め付けられた。女の子に褒められるのが初めてってわけではないけれど、そうすることが当たり前みたいな態度で何も飾らず真っすぐに褒められたのは初めてで、照れると同時にとろとろに溶けてしまいそうなくらい嬉しかった。
「ありがと、それでね、理論上では音楽は楽しい音や悲しい音が音階やリズムによって変わってくるんだけれど、それだけじゃないと思ってて、ピアノのことしか知らないけど、ピアノは弾き手の感情によっても左右されると思うんだ」
「悲しいときには悲しい音が、嬉しいときには嬉しい音が出るということですか」
「そう」
「要は気持ちによって手の置き方やリズムに微妙な差が生まれて」
「そう、それによって悲しい曲はちゃんと悲しく、楽しい曲はより楽しく響かせることができると思うんだ。でも悲しい気持ちの時に楽しい曲を弾いたって楽しくはなれないし、楽しそうにも聞こえない」
「悲しいときには無理に前を向くより、一度悲しみに浸った方がすっきりすることもありますからね」
「そう、そうなんだよ」
 胸の高揚でついアクセルを強く踏み込んだら時速八十キロに達してしまったので慌てて速度を落とす。高速道路ではないのもそうだけれど、何よりこの時間を少しでも失いたくない。もっと赤羽さんと話していたい。赤羽さんの言葉が欲しい。
「わたしはね、悲しいときにニルヴァーナを聴くんです」
「悲しみに浸るために?」
「はい。人生の葛藤やわたしが抱える苦しみを、カートコバーンが代わりに叫んでくれるんです」
「ああ、いいね」
「カートコバーンがわたしを素直にしてくれる。わたしの心の柔らかい部分を揉み解してくれるんです」
 目の前に広がるヘッドライトも届かない夜空を見上げながら、その感覚を自分の中で再現する。音楽に心を開いて、自分自身が子供のように素直になっていく感覚。赤羽さんが僕の話を聞いてくれたように、カートコバーンが彼女の話を……赤羽さんが僕の話を聞いてくれた?
 ドッ、と突然心臓を突かれたようになって、胸が苦しくなった。彼女の目がこっちを見ている気がする。見えないのに、彼女が暗闇のような目で見ているのを感じる。暗闇が彼女の目になって、俺は四方八方から見つめられている。でも決して責められているわけではない、むしろ母性を孕んだ優しい目で、俺が自分の体の奥底に押し込めていた俺自身、誰にも見せてはいけないと隠していた俺の本性が顔を見せるのを待っているようだった。
「俺は……おれは……ぼくは」
 心の奥底からこみ上げてくる泥のような苦しみが、喉の奥でごぽっと音を立てたような気がした。今になってわかったけれど、彼女は出会った頃から決して僕に対して警戒していたわけではなかった。僕の笑顔、僕の皮膚の下にある、長らく抑圧されて表に出すことのなかった人間らしい感情や、つけ込まれやすかった繊細な精神性、そういったものを見抜こうとしていたのだ。
 おかしい、ただ見られただけで、ただ一つの言葉でこんなに動揺するなんて。今までこの高い感受性で感じ取れるのは、誰かの悪意や負の感情だけだった。それなのに赤羽さんが放つ柔らかい雰囲気、彼女が甘く重たい香水の匂いと共に漂わせている、あなたを決して傷付けませんよ、という空気が僕を包み込み、僕の殻は一枚ずつ剥がされていく。
 赤羽さんが支配しているこの場の空気に流されてしまった。おかしい、いつから? ずっと僕が支配しているはずなのに、今までの人生ずっとそうだったのに。
「ああ……」
 乾いた喉からか細い声が漏れる。ハンドルを握っていられなくて太腿の上に落とした左手を、赤羽さんは温かい手で優しく握ってくれた。今まで触れたどの手よりも熱くて、体がじんわり溶かされていくようだった。
「僕はね、小学校の頃から生徒会長をしていたんだ。ずっと生徒会に入って、皆をまとめてた」
 赤羽さんは黙ったまま手を握っていてくれる。いつものように黙って話を促してくれる。
「人ってコントロールしやすいんだよね、かけてほしい言葉を言うのも心理を操って思い通りに動かすのも簡単。怒ってるのも悲しんでるのもすぐにわかるんだ、そういう第六感みたいなのがあって……それで簡単にできるから、ずっと自分以外の人を支配して見下してた」
「人を支配して優位に立とうとするのは防衛機制だったんじゃないですか。身を任せても安全だと思えるような拠り所がなかったから、とか。コントロールされやすい他人を信用するのって難しいでしょう、裏切られるかもしれないし」
「うん。うん、そうなんだよ……だから赤羽さんは初めての人なんだ、僕と対等に、それ以上に話ができる初めての人」
「そんなことないかもしれませんよ、わたしもただの浅学な小娘ですから」
「ううん。赤羽さんは凄いよ、今までこんな人いなかった、赤羽さんだけなんだ。赤羽さんのこと、凄く好き」
 心の底から素直に出てきた「好き」だった。赤羽さんは照れるようでも男女のそれととらえたようでもなく、ふふ、ありがとうございます、と正面から返してくれた。きっと慣れているんだろう、誰かにこうして拠り所にされることに。そして今や僕もその不特定多数の一部と化してしまって、底知れない彼女の包容力にずぶずぶと沈み込んでいく。
「そう、ああ……そうなんだ。そうなんだよ……こんな話をしていいと思わなかった。音楽のことも、生きてきた日々の話も、他人からしたら面倒なだけだから。面倒な話は皆が嫌がる、だからできる限り皆に合わせて、にこにこ笑って、何も考えていないように見せてた」
「でも疲れるでしょう」
「疲れるよ。何も考えずにいるのは疲れる。川面に魚が跳ねたことを、夕陽がピンク色に輝いていたことを、誰にも共有できず、説明もさせてもらえず、ただ自分一人が感じているだけ」
「疲れるし寂しいですよね。この世界で自分だけがこんなに情緒豊かで感受性が高いのかって思っちゃう、誰も共感してくれないから」
「綺麗だね、悲しかったね、辛かったね、で終わり。それ以下はあってもそれ以上はない、誰も深く考えようとはしないんだと思って、自分一人でずっと考えて、でも一人で辿り着ける結論には限りがあることにも気付けなかった」
 赤羽さんの態度に、彼女が共感して紡いでくれる言葉にどんどん丸裸にされ、残っているのは余所行きではない小さくてか弱い僕自身だった。形がなくて半透明で、強く握ったら潰れて液体になってしまいそうなゆるゆるぐずぐずの僕を、赤羽さんが包み込んで守ってくれる。
「黙らなくてもいいんですよ、わたしの前では。全部話していいんです、全部打ち返してあげますから。わたしは今の国見さんが好きです」
「ああ……僕は弱いんだ、色んな小説や漫画のキャラを継ぎ接ぎどうにかそれっぽく形作った、自我と呼べるかもわからない僕なんだ……これが本当の僕かさえも曖昧でわからないんだ、もう……」
「人なんてみんな何かに影響されて成長するんですよ、別に醜くも何ともない。みんなそうなんです、敢えて言わないだけで」
「あああ。ああ! どうしてそんなに優しくしてくれるの。どうして」
「あなたの言葉が好きだからですよ。好きだから面倒な対話も回りくどい議論ももっとしたい。それでは駄目?」
 淡白だと思っていた彼女の声がどんどん熱を帯びていく。とはいっても下心で僕に共感しているわけじゃない、目の前にいる僕をちゃんと見て、同じ人間としてちゃんと愛してくれる。暗いだけだと思い込んでいた彼女の瞳が暗闇の中、視界の端できらきら輝く。
「変なの。みんなは僕の話を面倒だって言うのに。だからこんな話しないようにしてたのに」
「わたしは面倒だとは思わない、それでいいじゃないですか。あなたが面倒だと思わない限りは議論してください、わたしと。わたしにとってはこれが一番楽しいんです」
「赤羽さんは僕のこと好き?」
「嫌いじゃないですよ。きっとこれからもっと好きになる」
 赤羽さんの言葉で胸の苦しみは全て流れ出て、僕はもう丸裸でお母さんの腕に抱かれているような気持になって泣き出したいくらいだった。
「なんだかずっと頑なだったよ、僕は……自分が思っている以上に凝り固まっていたみたい」
 それを聞いて赤羽さんはふふ、と鼻で笑った。でも嘲笑したわけではなく、彼女は元からこういう笑い方をするのだとすぐにわかった。
「たまには誰かを信用して全てを預けるのも悪くないですよ」
 どうしてこんなことが言えるんだろう、どうしてこんなに傷付けないよう優しく扱ってくれるんだろう。何を経験した結果こんなことが言えるようになったんだろう、赤羽さんは。共感は示して分析もしてくれたけれど、彼女自身が他人を誰でも支配して都合よく扱ってきた様子ではない。もっと僕のことを話したい、赤羽さんのことを知りたい。
 気付けば僕たちはうららのマンション下に停まっていて、赤羽さんのスマホからは優しい邦楽のラブソングが流れていた。これは最近の曲です、と赤羽さんが最後に教えてくれた。うららは寝ぼけてふらふらの足取りで先に部屋へ向かってしまい、別れ際の数十秒、数分になってようやく赤羽さんとちゃんとした二人きりになれた。
 彼女にキスをしたいと思った。恋愛感情や性欲じゃない、雰囲気に酔ったわけでも決してない、ただ純粋に好意を伝えるのにキスが一番手っ取り早いような気がしてならなかった。そんなことを思ったのは今まで生きてきた中で初めてのことで、自分でも戸惑っているけれど。目下の懸念はそれをどうすれば誤解のないよう彼女に伝えられるかだった。
「あの、さ」
 ただ告白をするよりよっぽど心臓が高鳴る。恋、かもしれない。順序を飛ばして焦って結論に至ろうとしているだけかもしれない。ただ言葉より早く気持ちを伝えたくて必死で、他にいい方法も浮かばない。
「キス、してもいい」
 降りようとしていた赤羽さんは俺の言葉を聞いてぴたりと動きを止め、否定も肯定もせず、ただ鋭い三白眼で身動き一つせず俺を見た。返事に困っているようにも、俺の出方を窺っているようにも見えた。だからと言ってこちらから何か行動を起こせば、いつでも逃げ出すぞという姿勢のままだ。
 やっぱり何でもない、と言いかけた時、彼女の白い腕が暗闇の中からぬっと現れ、何となくハンドルを掴み続けていた俺の左手を優しく握った。
 そして、ああ! 彼女の唇の柔らかさといったら! 赤羽さんは少し困惑したような、むっとしたような表情で眉間にしわを寄せながらも、手の甲にそっとキスをしてくれた。紳士が淑女に挨拶をするような軽いそれではあったものの、赤羽さんの唇が音を立てて離れた瞬間、とろけるような甘い電撃が手の甲から全身へと駆け巡った。
「おやすみなさい、気を付けて帰ってくださいね」
 彼女は想像していたよりずっと冷静で、俺の姿が見えなくなるまでずっと見送ってくれた。家に着いて歯だけ磨いて暗い部屋で倒れ込むと、赤羽さんがキスをしてくれた左手を撫でながら彼女が教えてくれた音楽を聴く。思い出せる限りでかき集めて、プレイリストに入れていく。去り際に流れていた曲も探し出して再生する。男の人が優しい声で歌う曲のタイトルはプラネテスといって、惑う人という意味らしい。歌詞を噛み砕き、その曲が偶然流れてきた意味を考える。普段よりもずっと強く音楽が流れ込んでくる、彼女が好きな音楽が。ああ、赤羽さん。赤羽さん!

 目が覚めたのはお昼の十二時だった。同窓会は夕方からだからまだ時間は有り余るほどあるけれど、昨日の今日でもう赤羽さんに会いたくて仕方がなかったので今から準備を始める。いつもより念入りに丁寧に体を洗って、少しでも赤羽さんに褒めてもらえるように髪の毛をセットして、本当はもっとラフな格好で行くつもりだったけれど、持ってきた服の中から可愛いと思ってもらえるようなお気に入りを選び出して袖を通す。
 昨日教えてもらった曲を集めたプレイリストを再生しながらの運転はもう赤羽さんが隣に座っているような気分で、自然と普段より丁寧になる。うららには悪いけど今度二人でドライブがしたい、赤羽さんと二人きりで議論をしながら、美味しいものを食べたり綺麗な景色に感想を言い合ったりしたい。東京に戻ってしまったら今のように時間が取れないかもしれないから。それに東京では運転ができないから、移動中に二人きりで秘密の話をして笑い合うことはできないだろう。もし会えたら、だけど。
 同窓会のために帰省するくらいだからうららも楽しみにしていたんだろうと思っていたのに、僕の考えとは裏腹にうららはゆっくり、というよりもたもたと準備をしていた。
「赤羽さんは?」
「月子は散歩中だよ、買い出しも行くって。なんで?」
「え? いや別に何でもないよ、そういえばうらら同窓会出席って言ってたっけ? グループで聞かれてたよ」
「あー返事してなかったっけ……」
 僕が赤羽さんのことを濁したようにうららも同窓会の話を濁したので、お互いに違う話題で気まずくなってしまった。うららとこんな風に気まずくなるのも珍しかった、前まではもっと普通に会話をしていた気がするのに。いや、赤羽さんと話したことで以前のような人をコントロールして会話を続けようとする性質がなくなったから、今は本当の意味でうららと会話をしているってことなんだろうか。
「……いや、実はまだ考え中なんだよね。どうせ永田くんの実家で集まるんなら、直前で参加するか決めてもいいんじゃないかなと思って」
「そうなんだ。行かない可能性もあるってこと?」
「どうかな」
 そう言うとうららはパジャマのまま裸足でベランダに出て、深呼吸でもするかのように煙草を吸い始めた。何に悩んでいるか聞いても大丈夫だろうか、赤羽さんのように上手く受け止めてあげられるだろうか。余計なことを言って傷付けてしまわないだろうか……考え方が段々赤羽さんに染まってきた気がする。彼女もこんなに慎重に僕と話をしていたんだろうか? それにしてはあまりにも簡単そうに見えたけれど。
「月子ぉ」
 うららが大きな声で赤羽さんの名前を呼ぶ。部屋の中からは姿が見えないけれど、すぐそこに赤羽さんがいるのだと思うだけでもう胸が高鳴って仕方がない。昨日も会ったのに今日も赤羽さんに会える、こんなに幸せな気持ちになったのも久し振りだ。
 煙草を吸い終えたうららが戻ってきて着替えを始めた頃に赤羽さんも帰ってきた。僕はまるで大学受験の時みたいにどきどきしながら彼女を見たけれど、赤羽さんは相変わらずあっさりしていて、おはようございます、といつもの顔で挨拶しただけだった。
「同窓会まで時間があるから、それまでご飯がてらドライブでもどうかなって……」
 言ってから彼女の買い物袋に食材が入っていることに気付いた。もしかしてこれから作る予定だったんだろうか、ということは赤羽さんの手料理が食べられるかもしれない。彼女の作ったものが血肉となり僕を構成してくれる、そう考えるだけで嬉しくて仕方がない。
「……思ったんだけど、もしかして今から作る?」
「いや、これは二人が同窓会に行ってる間の夕飯分で……外に食べに行くなら喜んで行きますけど」
「そっか……」
 残念な気持ちを全面に出したら右の口角だけをちょっと持ち上げて笑ってくれた。赤羽さんが笑う顔は初めて見たかもしれない。格好いい。
「今度作りますから。ドライブ行きましょうよ、うららも着替え終わったでしょ」
「んー」
 呻くような返事だった。確かにうららは着替えもメイクも終わっていて、いつでも出られる体勢だった。うららの様子を見て赤羽さんが何か言うかもしれないと思っていたのに彼女は何も言わず、僕たちは昨日のように三人で車に乗り込むことになった。赤羽さんはうららと一緒に後ろに座ったけれど、うららの前で寂しいとは言えないからそのままドライブに繰り出した。
 今日も夏らしい快晴の日で、空も雲もペンキで塗られた絵のようにべったりと重く見えた。暑さのせいか夏にはあまり爽やかなイメージがないけれど、赤羽さんと一緒だから一段と輝かしく見える。今まで以上に世界の彩度が上がって、このまとわりつくような暑さも蝉の合唱も美しい夏の一日を彩る装飾品のように思えた。

 北上でご飯を食べてしばらくドライブをして、公園に落ち着いた頃にはもう五時半になるところだった。黄色かった日差しは段々と夕方の空気を帯び始め、僕は散歩をしながらそろそろ同窓会会場に向かおうか、と言い出そうか悩み始めていた。
 うららはずっと俯き加減にゆっくり歩いていたけれど、僕たちが駐車場に向かっていることに気付くと突然足を止めた。
「どうしたの」
 僕がどうしたものか考えている間に言葉を発したのは赤羽さんだった。相手が話す気になるまでは黙っているタイプだと思っていたから、最初に彼女が話させようとするのは意外だった。
「あたし、同窓会行かないことにする」
 重く沈んでいくような口調でうららはそう言った。
「え、うらら行かないの? えーじゃあ僕はどうしようかな……」
 いつものように茶化そうとしたのにうららは頑なで、珍しく俯いて自分の左腕を右手でぎゅっと握っていた。それはそうだ、冗談でこんな雰囲気の発言をするわけがない。癖でおどけようとしてしまったことを少し恥じる自分もいるんだと初めて気付いた。
「いいんじゃない」
 そんなうららを僕より先に肯定したのは赤羽さんだった。彼女は少し離れた風下に立って煙草に火を点け、美味しそうに煙を吸っては吐き出していた。夏の穏やかな風は煙の形を優しく変えながら弄び、甘い匂いだけを残して連れ去っていく。彼女がそうして白い煙をゆっくり吐き出す姿は晴天に合わないほど重く毒々しかったけれど、寧ろ青空が彼女のことを際立たせているようだった。
 うららも彼女の方へ行き、服が汚れるのも気に留めず縁石に座り込むと同じように煙草を咥えた。二人とも喫煙者なのを今初めて知ったけれど、どちらも煙草を吸う姿がよく似合っていて、今日ほど自分が喫煙者になれないことを悔やんだ日はない。
「行かないったら行かないの」
 何があったかはわからないが、膝を抱えてうなだれるうららに何も声をかけられないでいた。喋るのは嫌いじゃないし、言葉を紡ぐのも上手な方だとよく言われるし自分でも思っていたけれど、何を言えばいいかがまるでわからなかった。僕と同じくらいかそれ以上に上手な赤羽さんの前で委縮しているせいかもしれないし、そんな赤羽さんが何も言わないから自分も何も言うべきではないと無意識で思ったのかもしれない。
 赤羽さんも縁石に腰かけ、うららの方へ少しだけ体を傾け肩同士を触れさせた。その瞬間、二人の間に流れる空気が変わったのを感じ取った。決して嫌な空気ではない。人混みで疲れるとき、サークルで空気を読んで気疲れしているとき、いつも人の感情や思考を敏感に捕まえてしまうから疲れている。だから都会は好きだけれど疲れる。
 今は違う。二人の間に流れる空気は心地よく、自分もこのままずっとここにいたいくらいだった。二人の生物が支え合い、お互いを気にかけ合って、冗談めかしたり軽く流したりなんか決してしようとはしない。そうして二人並んでゆっくり煙草を吸う姿を、僕は一生覚えているだろう。
「じゃあ僕も行かないでおこうかな。このまま帰ろうか、送っていくから」
 うららはほっとした様子で僕を見上げ、いくらか元気を取り戻した声で帰りにスーパー寄ろうと言いながら車に向かった。僕はそんなうららを自分の子供でも見るような気分で眺め、ふと隣を見ると赤羽さんと目が合った。彼女もまた僕と同じような気持でうららを見ていたようで、軽く肩をすくめて微笑んでみせた。
 その瞬間、僕と赤羽さんの間にこんな未来が訪れるかもしれないという想像が脳裏をよぎった。こんな秋の午後、僕たちの間に子供がいて、僕と赤羽さんが目を見合わせて微笑んで……勿論僕は未来予知なんかできないからただの想像、いや妄想だけれど、もしこれが本当になったらと考えると、顔が熱くなるのを悟られないようどうにかして車に乗り込むので精一杯だった。

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