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北条政子と私

田中泰延さんの書籍企画『書く術 〜働く君に伝えたい 調べて、書く技術〜』のライター募集に応募した原稿、残念ながら選考で落ちてしまったので、ここに載せておきます。
久しぶりにがっつり本を読んで、調べて、書いて、楽しかった~!!

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 北条政子と聞いて思い出すのは、中学受験に向けた夏期講習だ。歴史を面白おかしく教えてくれることで有名な先生だった。

「北条政子は絶対入試に出るぞ。承久の乱の演説が有名だな。後鳥羽上皇との戦いで、御家人に発破をかけるために政子が演説をぶったんだ。」

ホワイトボードに、先生が大きく「北条政子」と書く。

「要は、『頼朝様が平家を滅ぼして鎌倉幕府をつくってから、官位も給料も、あんたたちには山よりも高く海よりも深い恩があるでしょ。恩に報いるために戦いなさい。』ってことだな。」

 先生はさらに、妾への後妻打ち、実子と父親の追放と、激しく冷酷なエピソードを話した。

「多分、政子は『北条氏を鎌倉幕府のトップにして、自分が実権を握る』という野心があったんだろうな。こんな嫁さんじゃ、頼朝も大変だったろうなぁ。」

どっと笑いが起きた。

テキストに載っている政子は、確かに切れ長の冷たい目をしていた。あの日から二十数年ずっと、私の中の北条政子は、冷酷な野心家のトップレディだった。ちなみに入試に北条政子は出なかった。

 二〇二二年、大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」の放送が始まった。ホームドラマのような和やかさ、叩きのめすような非情さで物語が進み、引き込まれてしまう。登場人物はみな魅力的だが、どうしても違和感を拭えない人物がいる。小池栄子さん演じる北条政子だ。

彼女は決して冷酷な野心家ではない。頼朝の妾である亀の前に嫉妬し、後妻打ちを命じたときも、亀の前の館が焼失したと聞いて「こんなことになるなんて」と青ざめるし、亀の前から御台所としての教養のなさを指摘されると「差し当たって、何を読めばいいのでしょうか。」と素直に問う。目的のためには手段を選ばぬ冷酷な女性ではなく、むしろチャーミングで素直な女性だ。勿論「鎌倉殿の十三人」は脚色されたドラマだが、私がずっと抱いていたイメージとはかけ離れている。北条政子とは本当はどんな女性だったのか。

 政子は保元二年、伊豆国の豪族・北条時政の長女として生まれた。北条氏は、伊豆最大の豪族・伊東氏に比べ兵力も十分の一ほどしかない、小豪族であった。この田舎で、政子は兄弟たちと共に慎ましく暮らしていたはずである。

その生活を一変させたのが、源頼朝だった。頼朝は平治の乱に敗れ、伊豆に流された。流人としてやってきた頼朝は、政子の眼にはどう映ったのだろう。無粋な東国武士ばかりの田舎に、武士界トップの御曹司で都育ち、しかも流人という悲運な男。さしずめ頼朝は、少女漫画の悲劇の王子様だ。

勿論、政子は頼朝に夢中になる。時政は焦った。どんなに娘が惚れていようと、相手は流人であり、平氏の怒りを買う種だ。「源平盛衰記」によれば、政子を別の男(山木兼隆)に嫁がせようとする。

しかし政子は、山木の屋敷を抜け出して頼朝のもとへと走った。後に政子は、「暗夜に迷い、深雨を凌ぎ、君の所に到る」と回顧している。

 この時代、父に背くとは如何ばかりのことであったか。それでもなお己の気持ちに従い、想い人のもとへ走る政子は、情熱的で純粋な、まさに少女漫画のヒロインである。時政は、ついに頼朝との結婚を許すのだった。

 晴れて頼朝の妻となった政子だが、苦難が続く。頼朝が平氏打倒を掲げた第一戦。弱小の北条氏とその他わずかな軍勢では、勝算はない。それでも打って出る夫たちを前に、政子はどのような思いだったのだろうか。もう二度と会えないかもしれない。それでも「平氏打倒は頼朝様の悲願。それを支えるのが私の役目。」送り出す政子もまた、覚悟を決めたはずだ。

 戦勝祈願をしていた政子のもとに、やがて石橋山の戦い大敗の知らせが届く。頼朝の生死は不明。動揺したであろう政子のもとへ、頼朝は大逆転勝利を収めて帰ってくる。その後も政子は頼朝とともに、何度も危ない橋を渡るのだ。

だが、政子はただ戦勝祈願をしていただけではない。頼朝が平氏との戦を勝ち進めるためには、東国武士(御家人)たちの協力が必須であった。

御家人たちは、先祖伝来の所領に対する支配権の保証と、戦功に応じて新しい所領を与えられる恩賞を期待して頼朝に仕えていた。これらは「御恩」と呼ばれ、頼朝がこれに応えられなければ、主従関係を平気で解消するくらいドライな関係だった。

そこで政子は、頼朝と御家人を繋ぐ架け橋となった。御家人同士の対立や、頼朝が罰した御家人の遺族のケアなど、陰に日向に尽力する役を担ったのだ。歴史上、鎌倉幕府を開いたのは頼朝だが、その陰に政子の内助があったことは間違いない。

ここまでの政子は、冷酷な野心家の姿を感じさせない。情熱的で純粋な、気配りの人だ。だが、頼朝の死後の彼女は明らかに冷酷に見える。何が彼女をそうさせたのか。

一一九九年、頼朝の急死によって、嫡男・頼家はわずか十八歳で二代将軍となる。しかし、甘やかされて成長した頼家は、独裁的で我儘な将軍であった。乳母の夫・比企能員を重用する比企氏贔屓もあり、御家人たちの不評を買ってしまう。このままでは幕府が内から崩壊する。そこで政子は時政と画策し、有力な御家人十三人による合議制を敷く。名目上は若い頼家の補佐だが、実質は「頼家をお飾りの将軍とする」と決めたのだ。頼家が将軍となって、わずか三か月後の出来事であった。

一二〇三年、頼家が病に倒れると、頼家の後ろ盾・比企氏の更なる強大化を阻むため、政子たちは次男・実朝を三代将軍に擁立した。回復した頼家は比企氏とともに北条氏討伐を企てるも失敗。政子は頼家を修善寺に幽閉した。翌年には、頼家は北条氏の刺客によって暗殺されている。二十三歳の若さであった。

正式に三代将軍となった実朝は、わずか十二歳。そのため、時政が執権として実質的な政治運営を担った。

やがて時政は、長女婿の平賀朝雅を次期将軍に擁立しようと企んだ。政子は、弟・北条義時と諮って時政を出家させ、隠居させる。

幕府を守るため、実の息子、実の親を追放することを選択した政子に、更なる苦難が降りかかる。一二一九年、実朝が頼家の息子に暗殺されたのだ。実朝には子がなく、源氏の嫡流が途絶えてしまう。この危機に政子は奔走し、遠縁にあたる藤原頼経を四代将軍に据え、幼い頼経の後見に自ら就任する。こうして幕府における実質の権限は、政子と執権・義時が握った。

一二二一年、幕府を揺るがす大事件が起きる。後鳥羽上皇が、御家人たちに対して義時を討つよう命じたのだ。承久の乱の始まりである。義時に味方すれば、上皇の命に背き、朝敵となる。幕府に仕える御家人たちは、上皇(朝廷)と幕府の間で板挟みとなり、揺れ動く。

政子は幕府を守るため、御家人たちが上皇側に付くのを阻止せねばならない。そこで、あの有名な演説である。演説の中で政子は、反乱の首謀者を後鳥羽上皇とは言わず、「上皇をだまして幕府を滅ぼそうとしている藤原秀康と三浦胤義を討ち取って、三代将軍の恩に報いよ」と言う。戦う相手は上皇ではなく、逆臣だと宣言したのだ。これで迷いが吹っ切れた御家人たちは一致団結し、承久の乱は幕府軍が勝利を収めた。

政子は承久の乱後も幕府の中枢で指揮し、一二二五年に六十九歳で死去する。

政子が政治の表舞台に立ったのは、実朝亡き後だ。政治の実権を握る野心があったなら、もっと早い段階で機会があったはずである。彼女の原動力は野心とは別物だったと思われる。では、政子を突き動かしたのは何なのか。

人は日々、決断をする。何を食べるかという日常的なものから、人生の選択という重いものまで。人は選びとって生きていく。選ぶということは、捨てるということである。何かを捨てなければ選びとることはできない。重い選択であれば、覚悟も決めねばならない。

頼朝のもとに走ったあの日、政子は初めて覚悟を決めたのではないだろうか。家族を捨て、頼朝を選ぶ。人生は大きく変わった。

立場は人を変える。成長させ、変貌もさせる。田舎娘に過ぎなかった政子は、立場を得て変わっていく。

頼朝亡き後、何度も重い決断を迫られた政子は、その度に覚悟を決めたはずである。何を捨て、何を選ぶか。

実子や父をも切り捨て、彼女が守ろうとしたもの―それは鎌倉幕府の存続だろう。

街の小さなお店を切り盛りするおばあさんが「亡くなったお父さん(夫)と頑張ってきたこの店だけは、守り抜きたい」と話すのをテレビや新聞で見聞きする。政子にとっては、まさに「鎌倉幕府」こそが、頼朝とともに創り上げた居場所であり、守るべき場所であったのだ。

「頼朝様と創ったこの幕府を、私が守る。」

この強い覚悟が政子を突き動かし、時に冷酷な処断をも下させた。

彼女は冷酷な野心家だったのではなく、「覚悟」によって「北条政子」になり得たのだ。

教科書で断片的に歴史を学ぶだけでは、政子は冷酷な野心家に映る。だが、その「史実」の間にある「事実」を一つひとつ丁寧に積み上げていくと、新たな解釈が浮かび上がってくる。歴史学者ではない私たちが歴史を学ぶ醍醐味とは、史実だけを知ることではなく、その史実に関わる人々の生き方、考え方を知り、各々が解釈し直せることにあるのだ。


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