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元気になるための旅

「手術が必要です。でも大丈夫、一緒に頑張りましょう。」
担当医の先生は力強く言ってくれた。けれど、私は頷くことができなかった。

(上司に何て言おう。忙しい時期なのに、みんなに負担をかけてしまう。)
震える指で上司にメールすると、すぐに返事が来た。
「仕事のことは大丈夫。ずっと忙しかったから、神様が休暇をくれたんだね。元気になって、戻っておいで。」
その言葉に、視界がにじんだ。そうか、神様が休暇をくれたのか。
「これが神様のくれた休暇なら、この入院は元気になるための旅なんだ。」
そう思ったら、急に肩の力がふっと抜けた。それならいっそ、この休暇、この旅を思いきり満喫しよう。そう決めた。

「まずは旅で着る服、パジャマを揃えよう。」
病院からの帰り道、まっすぐデパートに向かった。日ごろだったら着ないような、可愛くて明るい色のパジャマを買い込む。
(1度着てみたかったんだ、こんな可愛いパジャマ。ピンクのパジャマは派手かなとは思うけど…旅の恥はかき捨てだよね。)

次は本屋に向かう。ミステリーにエッセイ、いつもは読まない恋愛小説。
(知らない作家さんだけど、タイトルが好き。こっちは表紙が可愛い。)
気になった本をどんどん買っていく。
(一目惚れみたいな本の買い方、初めてだけど楽しいな。)
また少し、ワクワクが増加した。

入院初日。
「わたし、この入院を『元気になるための旅』だと考えることにしたんです。」
そう言うと、看護師さんが
「旅って思うの、いいですね。だったら先生と私たちが添乗員さんと運転手さんになって、元気な未来に連れて行きますからね。」
と言って手を握ってくれた。温かくて、仕事に鍛えられた、信頼のできる手だった。

それから手術まで、丁寧な診察と検査があり、先生にも看護師さんにも沢山話をしてもらって、私も自分の胸の内を何度も伝えた。そうしているうちに、何が不安なのか、どうしたいのか、どんどんクリアになっていった。
「大丈夫、頑張りましょう。」
先生の言葉に、今度はすぐに頷くことができた。

手術の日。
ゆっくりと本を読んだあと、母にメールした。
「行ってきます。」「行ってらっしゃい。」

目が覚めたら、猛烈に喉が渇いていた。
廊下を行く人の足音、看護師さんの声。
外の音が、他人の気配が、私の心を揺らす。
「あぁ、帰ってきたんだ。ただいま、私。」
安心の気持ちが心に押し寄せて、涙が出た。

少しずつ体が回復するにつれ、食事もできるようになった。久しぶりに食べる、柔らかで優しい味の食事。舌が敏感になっていて、その優しい味に、舌がしびれたようになる。
(米ってこんなに甘いんだ。こんなに美味しいんだ。)
どんな高級な料理を食べたときより、そのシンプルな米の味に感動した。

規則正しい入院生活の中で、朝日が昇ってくる空の白さ、夕日の紅さ、力強く輝く月と星に気づいた。
窓の外の規則正しい日常がひとつの静かな映画のようだった。
(大自然の中に行かなくたって、街にもちゃんと自然があるんだな。)

夜の暗闇や痛みに不安になるときは、看護師さんたちが楽しい話をしに来てくれた。最近買った本の話、休日に行ったカフェの話、今日あった小さなうれしい出来事。小鳥たちのさえずりのような、明るく軽やかな話に不安が少しずつほぐれていった。
「もう退院ですね。」
「はい。みなさんに良くしていただいて…。」
「ふふふ、良い旅になったようでなにより。」
私の「入院=元気になるための旅」という解釈を共有してくれ、寄り添い続けてくれた先生にも看護師さんにも、心からの感謝を伝えたい。
私の入院期間は、この解釈と周りの支えによって、前を向いて過ごすことができた。

退院の日。
病院の外に出た瞬間、日差しがビシッと差し込んで、背筋が伸びた。携帯を取り出して、上司にメールする。
「休暇ありがとうございました。退院しました。」
「良かったね。どうだった?」

「はい。からだもココロも元気になる、よい旅でした。」


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