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まさに現代の自粛警察 戦時下の「投書階級」と重なる姿|【特集】真珠湾攻撃から80年 明日を拓く昭和史論[PART-7]

80年前の1941年、日本は太平洋戦争へと突入した。当時の軍部の意思決定、情報や兵站を軽視する姿勢、メディアが果たした役割を紐解くと、令和の日本と二重写しになる。国家の〝漂流〟が続く今だからこそ昭和史から学び、日本の明日を拓くときだ。

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文・金子龍司(法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員)

戦前戦中の日本で行われていた娯楽に対する検閲は、政府や軍の暴力性だけに起因するものではない。むしろ国民の側が、当局に対し一部音楽などを統制しろと、「投書」を通じ圧力をかけていた。

 戦前戦時の日本には、娯楽に対する検閲が存在した。内務省・逓信省の官吏や警察官などが、映画、レコード、舞台演劇、ラジオ放送、新聞書籍雑誌などのメディアに安寧秩序の紊乱(びんらん)や風俗壊乱のおそれがないかをチェックしていた。

 当時、メディアは相当程度に普及していた。たとえばラジオの普及率は、日中戦争開戦前年の1936年度には21.4%だったところ、開戦後に普及が加速し、44年度には終戦前のピークである50.4%に達した。これは戦況のニュースに需要があったためでもあった。

 ただ、国民のすべてが娯楽を享受していたわけではなかった。国民の中には、お笑い芸人が舞台で滑ったり転んだりすれば〝下らない〟と言い、子どもが映画出演者のギャグを真似れば〝けしからん〟と言い、流行歌を歌えば〝教育上悪い〟と目くじらを立てる人もいた。

 そうした人の中には、居ても立ってもいられず、警察や新聞、放送局に投書によって抗議をする人があった。

「投書階級」と呼ばれた人たちである。当時の検閲担当者にとって、彼らの声は無視できないものがあり、しばしば抗議を受け、取り締まりが強化された。戦時中の検閲や統制に関しては、これまで政府や軍の暴力性・抑圧性が強調されてきたが、それらが消費者市民に由来する側面があったのである。

厳重に取り締まりを
舞い込む批判の投書

 日本放送協会(現在のNHK)には、40年には3万6000通余りの投書が届いたという。投書階級にはサラリーマン、官公吏、教員、商業関係者などが多く含まれ、彼らは大正期以降に一定以上の教育の普及や都市化を前提として出現した新中間層に該当した。

 一方で、投書はインテリのすべきことではない、とも見なされていた。投書は利己的な主張にすぎないと見られていたのである。反面、娯楽を享受する大衆は投書とは無縁だった。

 投書階級はこの両者の間に位置した。彼らは政治、経済、教育、社会風潮などに一家言を持ち、自身を大衆と同一視されたくないがために投書により意識の高さをアピールした。

 これに対して内務省などの検閲官は、多くが大学を出て教養主義を身につけたインテリだった。彼らは欧米の芸術的な映画や演劇作品を模範とし、大衆には少しでも芸術味のある娯楽を与えて人格を向上させる必要があると考えていた。

 投書階級が敏感だったトピックの一つに、子どもと娯楽の問題があった。娯楽の教育に及ぼす影響が懸念されたわけである。ここには、受動的な検閲官に対し、投書階級が取り締まり強化を求めていたという構図を見出すことができる。流行歌の事例を基に、両者の力関係を紹介する。

 35年、「あなた」「なんだい」の掛け合いで有名な流行歌『二人は若い』が発売された。この曲が流行り出すと、新聞に批判の投書が舞い込み出した。「このごろ四つ五つの子供がさかんに『あなたと呼べば』と唄つてゐる」が、これは「耳から飛びこみ童心を蝕むパチルス【編集部注:細菌】」であるから「府保安課【編集部注:大阪府警保安課】で厳重取締つてほしい」(『大阪朝日新聞』36年6月13日朝刊)、という類いであった。

 続いて36年末、流行歌『あゝそれなのに』が発売され、『二人は若い』以上に流行する。すると新聞には、小学生が『あゝそれなのに』を歌っているうえ、「私には五歳になる男の子がありますが、私が夫を【編集部注:「あなた」と】呼ぶのを聞いて坊やが〝ナーンダイ〟と茶化します。私は恐ろしくなりました」(『東京朝日新聞』37年3月14日夕刊)、という投書が掲載された。

 事前検閲のうえこれらレコードの発売を許可していた検閲官は、当初こそ「当局としてはあの程度の内容の歌詞は許可しないわけには行かない時代だと思ひます」と弁解した(同)。しかし検閲官は明らかに投書階級に押されていた。最終的に『あゝそれなのに』は、歌手の美(み)ち奴(やっこ)の声が「エロ」だ、とさらに大きな問題となり、事後的な取り締まりがなされたからである。当局は、メーカーに対して自発的にレコードの原盤を破棄するよう申し入れた。

「流行歌はいかんといふ人の中には、(中略)よく流行歌といふものを知らないで、先入主的な感情ばかりで云つてゐる人が多い」(『国民新聞』37年6月13日朝刊)。これは当時の検閲官の投書階級に対する批判である。しかし実際には、当局は投書階級に押しまくられていた。

 もちろん、投書階級の主張すべてが通っていたわけではない。たとえば日本放送協会には、日中戦争開戦後、〝西洋音楽は日本精神に反する〟という内容の投書が多く寄せられていた。これに対して同協会は、声楽や管弦楽の放送を文句の出にくい軽音楽の放送に振り替えることで西洋音楽の放送を維持した。だがいずれにしても、投書階級に対して何らかの対応を迫られていたことに変わりはなかった。

 投書階級の〝活躍〟は戦時中も続いた。お笑い芸人や巡業劇団の取り締まりや、ジャズ、パーマネント、横文字の芸名、パーセントなどの敵性語の排斥などを繰り返し主張して当局に対応を迫った。

1943年、回収された米英〝敵性〟音楽のレコード

1943年、回収された米英〝敵性〟音楽のレコード。投書階級は『蛍の光』や、米英音楽ですらないチェコ人作曲家・ドヴォルザークの『新世界より』も〝敵性〟ではないかと当局を焚きつけた(MAINICHI NEWSPAPER/AFLO)

今や「投書」は「ツイート」に
現代も続く「民意による統制」

 戦前戦中の娯楽統制は、政府や軍部よりも、投書階級の「民意」に由来する部分が大きかった。しかし、当時の投書階級のみを諸悪の根源と見なすだけでは、教訓は得られないだろう。投書を掲載した新聞界は、満州事変での速報を基に飛躍的に部数を拡大し、陸軍大臣から協力を感謝されていた。戦争報道と娯楽批判の投書が紙面に並ぶことで、世上の自粛ムードの盛り上げに貢献していたかもしれない。

 また、投書階級はしばしば流行歌を問題視したが、敗戦を経ても直ちに問題意識が変化することはなく、戦後も同じ光景が幾度となく繰り返された。『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』にも、登場人物が『愛ちゃんはお嫁に』や『ひと夏の経験』といった流行歌を歌って大人に怒られるシーンが出てくる。投書階級の問題意識はかなりの程度人々に共有されていて、投書階級はそれを代弁しただけとも考えられる。そうであれば、投書階級だけを断罪しても根本的解決にはなりそうにない。

 こと現代は、インターネットやツイッターなど新しいメディアの普及により、意見発信の参入障壁が戦時期と比較して格段に下がっている。今や誰もが投書階級よろしく、何気ないツイートで新たな抑圧を生むことができる。動画投稿サイト「ユーチューブ」上で1.6億回再生されたヒット曲『うっせぇわ』は、子どもが親に「うっせぇわ」と口答えをすると問題になっている。現代の自粛警察の姿は、意識の高さが社会の息苦しさを招いた戦中の投書階級の姿ともダブる。投書階級の問題は私たち自身の問題でもあり、他人事ではないのである。

電車内写真

インターネットやSNSの普及により、今や誰もが「ツイート」のような何気ない意見表明から、思わぬ抑圧を生んでしまう社会となった(ALEX ROBERTSON/GETTYIMAGES)
金子龍司(Ryoji Kaneko)
法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員
学習院大学大学院政治学研究科博士後期課程単位修得退学。博士(学習院大学、政治学)。2021年より現職。専門は日本近現代史。著書に『昭和戦時期の娯楽と検閲』(吉川弘文館)。

出典:Wedge 2021年9月号

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