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映画「人魚の眠る家」を観て

初めての投稿になります。読書の子と申します。これから不定期で、本・映画・日常生活であったことなどから感じたことを発信して行けたらなって思ってます。

さて、本題に入りますと、先ほどアマゾンプライムビデオで「人魚の眠る家」を観てまいりました。いやー、考えさせられた。アマゾンのレビューなどを見ると、平均星4/5と高評価を受けているものの、やはり賛否両論あった模様。

ここからは、自分が観ていた中で、感じたことを書いて行きたいと思います。(以下、ネタバレ含みます)

見ていない人のために、あらすじが書いてあるウィキペディア貼りますね。

目次
・人間と科学技術の進歩
・人間における共感が持つ意味
・人間のエゴ

・人間と科学技術の進歩

今回の主な学び①
科学技術の進歩により、人がとりうる選択肢は拡大し続ける
→選択肢は人の認知の限界を超え、人は自分にあった最適な意思決定をすることができなくなる
→自身の今までの意思決定の教師データを学習したAIアルゴリズムが我々の意思決定を代替する時代が今後到来するのではないか

「人魚の眠る家」のテーマは「脳死」や「死」の定義である。

脳死というテーマが生まれたのがいつかはわからない。調べたところによると、1960年代になり「臓器移植」という概念と共に、「脳死」という概念も生まれたらしい。

そう考えると、昔はそもそも「脳死」という概念すら世界には存在しなかったはずだ。つまり、これは科学技術の進化により、いわゆる「脳死」状態での延命処置が可能になったがために、「脳死」という概念が生まれたと言えるのではないだろうか?

ここから言えるのは、科学技術が発展するに連れて、我々人間がとりうる選択肢は広がっていく。しかし、選択肢が広がることが意味するのは、逆に我々は数ある選択肢から自身が納得いく選択をする必要があるということだ。

本作でも、19世紀の人が考えられなかったような選択肢が今回の登場人物である夫婦に与えられる。何をもって死とするのか?心停止か脳死か?もし生きていると仮定して、どのように延命するか?機械から発せられる電気信号によって、植物人間の状態の人間の健康状態を保つか?ect.

たった、50年くらいでこんなに選択肢が増えていることが本作を見るだけでもわかるだろう。そして、1つ1つの決断がその決断に直面した人の人生にとってとても大きいのも事実。

経営学の授業で、ジャムの販売に置いて24種類店頭試食をした場合と、4種類で店頭試食をした場合の売上を比べると、4種類の方が高い売上だったという結果を聞いたことがある。ジャムの購買から生命に関わる意思決定を考えるのは少し抵抗があるが、本質も同じで、我々は多くの選択肢が与えられすぎると意思決定に踏み切れない・もしくは十分な熟考をせずに意思決定をしてしまう場合が多いと思う。実際に、本作「人魚の眠る家」の主人公夫婦である和昌と薫子はあまり時間がなかったということはあるかもしれないが、「脳死」ではなく心停止をもって死と考える・機械からの電子信号を使って植物状態の娘の健康状態を維持するなどの決定を行ってきた。その結果、途中から夫は途中から自分たちがとった意思決定について疑うようになり、母親はその現実から目を背け、自分の選択の正しさに盲信した。

これを踏まえて最近仕事などで人工知能や機械学習の内容に触れる中で思うのが、人工知能によって人の意思決定を外部のアルゴリズムとして生み出す可能性についてである。意思決定の教師データで言えば、〇〇と××が与えられたときに、〇〇を選ぶなどが浮かぶが、これらを機械学習によって学習させることで、人間は全く頭を使わずに意思決定をAIアルゴリズムに丸投げすることができるのではないか?まあ、実際問題、その教師データから和昌特徴量を抽出するかなど実装面において、数々の問題があるが。。。

それらの問題が中長期的に解決されると考えると、これからの未来では意思決定を自分でしない時代にを迎えるのかもしれないし、人間はそうなるしかないのかもしれない。冒頭に述べたとおり、我々は科学技術の発展により、今までより膨大な選択肢に直面することになる。そんな時代に我々が対応できなければ、その時々の質の低い意思決定を積み重ねていくだけになるだろう。そう考えると、自分自身に最適化されたAIアルゴリズムに意思決定を委ねる方が質の高い意思決定ができるとわたし的には思う。フジテレビ系列のノイタミナで放送されていたPSYCHO-PASSの世界観だろうか(シビュラシステムが決めたものに人々が従う世界)。

人間における共感が持つ意味

今回の学び②
人は共感されることで、自身の精神状態を「まとも」に保つことができる
→共感や理解を失い、精神的に苦しんでいる人たちに対しては、共感や理解を示すことからコミュニケーションを初めて、信頼関係を構築することが大切なのではないか

本作、「人魚の眠る家」に対する多くのレビューの中に、狂っていく篠原涼子さん演じる母親・薫子に対する言及が多かった。自分も観ている時は、狂っていくなと感じていた。しかし、観終わって一度俯瞰的に物語を眺めて見ると、そもそも、薫子は狂っていたのだろうかという疑義が湧いてくる。

そもそも、「狂う」とは何か考えてみていただきたい。

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グーグルで検索してみると、上記のような意味が出てきた。

「精神が乱れ、正常な考え方ができなくなる。」とあるが、正常とはなんなのか。私個人が考えるには、正常とは相対的な概念でしかないと思う。世間から見て、普通などそんな意味合いでみなさん使っているのではないだろうか?

そのように考えたときに、薫子本人にとっては狂っているという実感はなかったのだと思う。グーグルの検索結果の2つ目にあるように、ただ単に度を越して、日々改善されていく植物状態の娘の健康状態に夢中になっていただけな気がする。

そして、我々観客が薫子が狂って見えるのは、娘が実質「脳死」と診断されるという経験自体がとてつもなく日常生活をするだけでは体験し得ないものであるが故に、薫子の感情に対して共感できないから、狂っているように見えるのではないだろうか?ここまで読んでもまだなお、あなたは薫子が異常であるとか狂っていると言えるであろうか。

そんな風に、娘に夢中になっていた薫子に対し、観客や世間の声を代弁したのが、薫子の息子である生人だった。生人が代弁したと同時に、薫子の妹も生人と同じように考えていたことが発覚、そして夫である和昌も同じことを薫子に口にする。そして、娘の介護に付き合ってくれていた薫子の母も、植物人間の娘に没頭する娘にある種のきもち悪さを抱えていたのである。

つまり、この時、薫子は自分に共感してくれていると思っていた周りの人間が実は薫子のことを奇異の目で見ていたが、事の気の毒さ故に、共感しているふりをしていたことに気づいたのである。そして、薫子は精神的落ち着きを失う。

この展開から私が読み取ったのは、冒頭にも書いた、人は共感されることによって、自分の行動や考え方の正統性を確立しており、共感がなくなることによって、精神的に落ち着きを失うという仮説だ。

実際に、本作のラストでは、薫子に対して登場人物がそれぞれの形で共感や理解を示すことによって、薫子は精神的な落ち着きを取り戻し、元の日常生活に戻ることができている。

そして、私自身の経験を通しても、この仮説には一定の妥当性があると思えてならない。というのも、ここ最近女友達から、いろいろな相談をされることが多く、その際に相手に共感や理解を示したかどうかで、相手が自分にどれくらい心を開くかが異なってくるからだ。

この学びを元に、相手に対して理解・共感を大切に生きていきたい。

長くなりましたが、最後まで読んでくださりありがとうございます。


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