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区画整理でひっそりと失われていく飯能の茶畑や桑畑の風景

埼玉県飯能市といえば、狭山茶で有名な茶所のお隣というか一部に含まれる。
飯能市から阿須山を越えた入間市金子のあたりには広大な茶畑が一面に広がる光景が今でも残っているが、昔は飯能市内にも茶畑がたくさんあった。
特に茶畑が多くあったのが、加治地区(川寺と岩沢)と双柳地区だと個人的には思う。両方ともに平成後期、2000年代に入ってから区画整理が急激に進み、どんどん姿を消し始めた。

飯能の区画整理が実際に進み始めたのはかなり遅い。計画自体は昔からあったのだが、昭和の頃は全然進捗しなかった。
しかし、平成になって大きな道路を中心に徐々に整備が進み始めると、各地区での区画整理も一気に進んだ。住宅が立ち退いて新しいまっすぐな道路が作られ、田畑は平坦にされて綺麗な区画に整備されて新たな住宅が建ち並ぶ。
そんな新しい景色に変わってしまった土地が、実は元茶畑だったりする。

自分は加治地区が詳しいのだが、小さい頃(1990年前後まで)は本当に茶畑が家の周囲に沢山あった。大きなお茶屋さんが所有していて防霜ファンがいくつも建っているような大規模なものもあれば、比較的小さい規模の畑も散らばっていたり。小学校、買い物、友達の家、どこに行くにしても必ず茶畑の横の道を通るようなものだった。それくらい本当にあちこちに茶畑はあった。
春〜夏の茶摘みの時期には、お茶の芽を摘む機械のエンジン音がよく聞こえたものだ。手入れがされて、そして機械で綺麗に摘まれた茶畑は、綺麗なかまぼこ型をしている。小さい茶畑もきちんとそうなっていることが多かったので、放棄されずにきちんと育てられていたのだと思う。

茶畑と共に子供の頃身近にあったのが桑畑である。桑の木が植えられた畑なのであるが、養蚕業に使われる。桑の葉は蚕(カイコ)の餌になるのである。
実は飯能は昔、養蚕業と織物産業が栄えていた。養蚕業が盛んだったということは、飯能市平松にある円泉寺というお寺のサイトにも記述がある。また、織物産業については飯能市川寺にある株式会社マルナカという会社が代表的であり、明治元年から続いている

1990年前後までは、養蚕業を行なっている家が地区内にあったのを覚えている。仕事場にお邪魔させていただき、蚕を見せてもらった記憶がある。
蚕が桑の葉を食べるガサガサという音が、たくさんの蚕によりまるで飛行機の騒音のように大きかったのを覚えている。
余談だが、自分の母方の実家(埼玉県ときがわ町)では昔、母屋の屋根裏で養蚕業を営んでいたこともあると聞いたことある。それくらい、埼玉県西部では養蚕業はよくある仕事だったようだ。絹産業の中心であった富岡製糸場と横浜港を結ぶシルクロードの通過ポイントであった、という話もあるくらいだ。

桑畑は幼稚園から小学校の頃の自分にとっては格好の遊び場だった。茶畑と違い、桑畑には子供が楽に通れるスペースがあり、平坦ではなく少し丘のようになっていたので走り回っていたのである(注:当時は迷惑にならないレベルであれば、そういった子供の遊びは許される雰囲気であったのと、所有者の方とは友好的だった)。
桑の実が成る季節(5月〜6月)には、桑の実を集めて桑の実ジュースを作ったりした。ジュースといっても飲むためでなく、混ぜて色を楽しむだけの子供の遊びであるが。

そんな桑畑もいつの間にか、あっという間に区画整理に飲み込まれ、平坦に整備されて道路によって綺麗に区画分けされ、新しい住宅が建ち並ぶ風景になってしまった。
自分は小学生の時に市内で引越しをしたため、小さい頃遊んだ地域からはしばらく離れていたのだが、10年くらい経ってからふらっと幼い頃に住んでいた地区を訪れた際に、この変わってしまった風景を見て驚いたのである。まったく面影がなかった。桑の枝を持ち、桑畑を走り回っていた幼少期の原風景が本当に懐かしい。

Googleマップで航空写真を見ると、飯能市内では今でも茶畑はわずかに残っているのが分かる。しかし自分が小さい頃に知っていた茶畑や桑畑は半分くらい既に失われてしまっていると思われる。区画整理によって道路と住宅になってしまい、昔の痕跡なんてまったくないのがほとんどである。

もちろん、区画整理は生活が便利になるメリットが大きいので必要なことだと分かる。むやみに反対をするわけではない。
ただ、懐古厨としては、区画整理をする前の景色や風景をきちんと写真などの映像に残して、アーカイブ公開して欲しい、というのが勝手な希望である。失われた風景、というのはいつの時代になっても貴重なものだと思う。
飯能の茶畑や桑畑がひっそりと消えていってしまっていることを忘れないでいたい。

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