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【産むことに人生全振り?!のりちゃんの話②】障害のある人の産み育てる権利と私たちが子どもを持つと決めた経緯

 みなさんこんばんは。
 脊髄損傷車椅子ユーザーをパートナーに持つ2児の母、のりちゃんです。脊髄損傷の車椅子ユーザーと子どもをつくるということについて、私の経験をお話させていただいています。

 ここに書かれた内容は、あくまでも私の場合の話ですので、一個人の経験談としてお楽しみください。

前回のお話はこちら↓
私が何者かを知りたい人は読んでみてください。

https://note.com/preview/n56894eccf79f?prev_access_key=360f827573f5c261dad5f69ed07fbc1b

今日は私たちが子どもを持とうと決めた経緯についてをお話していきたいと思います。


その前に、みなさんは障害のある人が産み育てるということを
どのように感じられますか?

「親のエゴ」「育てられるわけがない」「障害者のくせに結婚だなんて」「こどもが可哀想」「こどもがいじめられるよ」

そうした社会からの抑止は今も昔も変わらず障害のある人たちを取り巻いています。そうした抑圧感情は障害のある人自身も多くの方が自己に対して強いてきたのではないかと容易に推測されます。

時間がない人のために1分で読める簡単まとめ!

【時間がない人のために1分で読める簡単まとめ!】

・障害のある人の産み育てるについてはリプロダクティブヘルス/ライツや障害者権利条約にて人権保障されている。

・のりちゃんちではお互いはじめは産み育てることに疑問があったけれど、結婚生活での様々な経験を通して、ロールモデルに出会い、子どもを持つためのトライをすることに決めた。


では、詳しく知りたい方は本編へお進みください。

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みなさんはこんな言葉をご存知でしょうか?

リプロダクティブヘルス/ライツ


リプロダクティブヘルス/ライツとは

リプロダクティブ・ヘルス/ライツは、1994年にカイロで開催された国際人口開発会議において提唱された概念です。性と生殖に関する健康と権利のことであり、持続可能な開発目標(SDGs)の中で、主に「健康と福祉」や「ジェンダー平等」に関連しています。障害のある人の産み育てる権利についても、ここに含まれると捉えることができます。

リプロダクティブヘルスとは

性や子どもを産むことに関わる全ての部面において、身体的にも精神的にも社会的にも本人の意思が尊重されて、自分らしく生きられるということです。

リプロダクティブライツとは

自分の生殖についてを自分で決められる権利のことです。(子どもを産むか産まないか、何人の子どもを持つか、何歳差で産むかなど)

そして、これらはそのための情報を得る権利を保障するものでもあるのです。つまり、障害のある人が産み育てるかどうかを自ら判断するための情報が、今、必要なのです。

障害のある人が生み育てる権利についての根拠法

障害のある人が子どもを産み育てる権利は、国際的な人権規約においても明確に保障されています。




障害者権利条約
(Convention on the Rights of Persons with Disabilities, CRPD): この条約は、障害のある人々の権利を保護するために採択されました。この第23条に於いて、障害のある人が両当事者の自由かつ完全な合意に基づき婚姻し、家族を形成する権利があるとされています。この権利は当然のものであり、権利侵害は決して許されるものではありません。

 ですが障害のある人の産み育てる権利は、諸外国に於いても多くの批判が巻き起こりヘイトを浴びる現状は今も昔も、それほど変わらないのかもしれません。

 子どもの人生と親の人生が繋がっているからこそ、障害のある人の親になる権利を尊重することに心配の声が上がるのですが、障害がある人の生活を知らぬまま、またはその子どもの思いを一般的な指標でのみはかり、表面だけを見て意見される声も多いなと感じることも多いです。(個人の主観です)

 日本に於いてはまだ障害のある人が子どもを産み育てる権利を尊重する法的・政策的な改革は行われていませんが、障害のある人の雇用促進やSDGsの広がりが進む中、今後は改革が必要になって行くのではないかと推測されます。

私たちが子どもを持つと決めた経緯

 難しい話を前置いてしまいましたが、では実際に私たちがどのように子どもを持つと決めたのかという話をしていきたいと思います。

"してはいけない"という鎖

 私たち夫婦は出会ったころから既に夫が脊髄損傷者という状況でした。夫が受傷したのは1990年代ですから、まだまだ障害のある人は様々な生活の不便を強いられ、外出してもトイレがない、駐車場がない、街は段差だらけで道はガタガタ。当然雇用や一人で暮らせる場所もほとんどなく、田舎では家族の世話になり生きていく人も多いような状況でした。


段差



”病者役割”という言葉を耳にしたことがありますか?パーソンズが提唱した概念です。これは4つの側面から構成されています。
①正規の社会的役割を免除される
②自己の置かれた立場や条件について責任を持たな(他者の援助を受ける権利がある)
③早く回復しようと努めなければならない
④専門的援助を求め、医師に協力しなければならない
病者は社会的役割からの一時的離脱を求められるのです。そしてそこから外れることは、社会的に好ましい行動ではない風潮を感じました。

 「病気があっても働ける」というようなアナウンスが高まってきた現在では、そこまでこの概念が社会に強く影響しているようには感じなくなってきましたが、平成の時代、まだそれは色濃かったのではないでしょうか?
 ここに詳しくは書きませんが、障害者については、ジェラルドゴードンが提唱した障害者役割という概念が適応されるのとされているのですが、私が見てきた限りの個人の主観としては、障害のある人たちは障害者役割と同時に、病者役割を強く求められていたのではないかと感じました。




 そんな状況で未成年のうちに受傷をした夫は当初、子どもはおろか、結婚をすることさえ「してはいけないこと」と自分を制していました。

 ですから結婚の話が出た時も、
「子どもは作らないよ。不妊治療をすればできるという話も聞いたことはあるけど、そんな大変な思いをしてまで、欲しいと思わない。それに障害者が親になっていいの?いいわけないでしょう?申し訳ないけど子どもは作れない。それはわかって欲しい。」
と、真っ先に言われたのを覚えています。
 私自身もあまり子どもが得意なタイプではなく、自分の遺伝子なんて残してもどうしようもないと思っていたため、特に彼の意見を否定することもなく、私たちは子どもを持たない人生を送って行こうと決めていました。
 けれど私はこう言いました。
「でももしかしてこの先人生を共にする中で、あなたの気が変わって子どもを欲しいと思う瞬間が来るかもしれないから、産める体は維持しておきたいと思うよ。」
 なぜなら私はたくさん夫と同じ障害を持ちながら、親になる選択をする人がいると知っていたからでした。結婚に渋っていた夫でしたが、結婚をする道を選びました。だからもしかしたら先々変わるかもしれないと何となく思ったのかもしれません。

子どもを意識せざるを得なくなった理由

 2人で住むための小さな家を建て、犬たちと2人と2匹の生活をはじめて数年が経つと、障害がある私たち夫婦も、他のカップルと変わらず聞かれるようになりました。

「お子さんは?」「子どもはいいぞ。子どもは作ったほうがいい!」
「女の仕事は子どもを産んで家庭を守ることだ!」「まだできないの?」
「子ども、嫌い?」「早う産んだ方がええよ」
「旦那さんが子どもみたいなもんだから作らないの?」
「不妊治療したらできるんでしょ?ちゃちゃっとやっちゃいなよ」

 そうした言葉を投げかけられるうちに、子どもを意識せざるを得なくなっていきました。

 犬と戯れる彼、甥たちを抱く彼の姿を見ていると、ふと思ったのです。「この人はどんなお父さんになるんだろう?どんな顔をしてわが子と遊ぶんだろう?」と。きっとその感情が湧くのは私たちにとってはとても自然なことでした。他のカップルがそうであるように。

葛藤

 ですが他のカップルとは違う点もありました。私はグルグルと色んな感情と闘わざるを得なくなりました。それは自分の中に潜んでいた、偏見と対峙していく作業でもあったかもしれません。

障害を持ちながら子どもを産み育てるとはどういうことなんだろう?
産む人生と産まない人生の違いはなんだろう?
子どもを残さないということはこの世に生きた意味ごと亡くなってしまうのか?
障害がない人の産み育てるってなんなんだろう?
何も残さずに死ぬとはどういうことなのか?
ここまで連綿と繋がった命を自分が立ち切る覚悟はあるのか?
親兄弟にも孫を抱く権利や甥姪を可愛がる権利はあるのではないか?
子どものいない老後は?
自分の人生の最後の後始末は結局誰かに託すしかないけれど、それを甥姪にさせるの?
生きる意味って?愛する意味って?
もしも子どもを持つ選択をした先で子どもを持てなかったら?
そもそも子どもを持つって、何?


 グルグルと考え続け、その一つ一つを自分の中で消化するために、
家族の歴史を調べ、家系図を作りたどりました。
子どもを持たずに亡くなった親族の人生を調べ、その人たちがどれだけその後を生きた家族に影響を及ぼしたのかを知り、色んなことが自分の中で腑に落ちていくのを感じました。

私にとって衝撃的なできごと

 ある時、夫の祖母が亡くなりました。とても安らかに、眠ったまま亡くなった最後でした。
彼女の火葬の日、炉に吸い込まれる棺を見ていたら
「私は自分の選択で彼女に曾孫を見る楽しみを得ることができない人生を送らせてしまった。もうそれは取り返しがつかないんだ。」
と自責の念が湧いてきて、涙があふれて止まらなくなったと同時に
私は夫の子どもが抱きたいんだ。自分の子どもではなく、夫の子どもを育てたいんだ。
という自分の感情に気付いた瞬間でもありました。




そうして私は子どもを持つ人生を選んでもいいのではないかと思うに至りました。

そこまでで結婚から既に数年の歳月を要し、25歳を過ぎていました。
まだ産む年齢には余裕がある。まだ大丈夫。

そうと決まれば先を考え、
自分が先立つことになるパターン、夫が先立つことになるパターン、
子どもが先立つパターンをそれぞれ考え、私は大学に行くことにしました。
夫が先立つことになるパターンの人生になってしまうと、子どもを育てる自信がないと思ったからでした。

障害のある人が親になるのはおかしいこと?価値観を変えたのは環境だった

同じ頃、夫もまた薄々と子どもについて考えていたようでした。
決定的だったのは、車椅子バスケでの出来事でした。

当時はまだ、インターネットやSNSがこれほど発展している時代ではなく、
障害のある人の情報は、リアルな繋がりから得るもので、勝手にSNSから情報が流れてくるということはない時代でした。

当時、障害のある人たちの中でも車椅子バスケなど、スポーツをされている人たちは、比較的結婚をしていたり子どもを持つ人が多くおられたように思います。

夫のいたチームにも、お子さんのおられる方は何人もおられました。障害を持つ人も当たり前に働き、結婚し、子どもを持ち、お父さんをしている姿があちこちで見かけられました。

「○○さんとこ、3人目(不妊治療)やるんだって」
「△△さんちはもう(不妊治療)始めて長いけどなかなかできないね」
そんな会話もあちこちから聞こえてきます。

当時の多くの人の価値観がそうであったように、あの空間でも結婚しているのに子どもを持たない選択をしている夫婦というのはとても珍しく不思議に映ったかもしれません。
そのくらい、車椅子ユーザーが子どもを持つことがナチュラルな場だと私は感じていました。

ある時、チームメイトの一人がお子さんを練習に連れてきておられました。練習が終わるとチームメイトはお子さんを連れてシャワー室に入っていきました。
その更衣室のシャワールームはカーテンで区切られているため、中の声が更衣室にいる夫の耳に届いたのでした。


「お父さーん!お湯きもちいいねー。」

その一言を聞いた夫は、こう思いったそうです。
「ああ、俺にもこんな未来があってもいいんだな。」

続く拮抗

ですが私たちはなかなかその意見をすり合わせることができませんでした。
どうしても、不妊治療の番組がTVから流れ始めると口を噤んで重苦しい空気がその場を包みます。

 幾度となく、お互い子どもを持つかどうかの話題に踏み切ってはみるのですが、苦しい時間が流れるばかりでした。
おそらく夫は自分の不妊なのに私の体で不妊治療をするということに後ろめたさがあったのでしょう。
 そして私は夫の体にメスを入れることになるわけだし、不妊治療をやるとなると夫のお金で不妊治療をするしかないのに、まさか自分からは言えないじゃない?と思っていました。(当時の私は本当にお金がありませんでした)

 ですがその中でも私は私で自分の疾患で子どもを持てるのかを調べ、医師に相談し、不妊治療経験者である車椅子ユーザーの男性たちに相談をし、県内の医療機関に問い合わせて脊髄損傷のケースはどこなら受け入れ可能かを調べ続け、期を見ながら夫と歩み寄れる距離を徐々に縮めていったのでした。

私たちが決断する上で必要だったものとは?

 そうしてある日、「家族を作ってみませんか?考えておいて欲しい。」との言葉に、
これまで調べ上げた情報の全てを提示して、彼に子どもを持つまでの手順や方法を説明し、大学病院の門を叩いたのでした。

 私が大学を卒業すると同時に不妊治療を開始し、それから2年後に妊娠することができましたが、その時私はもう既に31歳。
結婚から8年の歳月が流れていました。

 私たちの場合は子どもを持つと決めるには、夫にはロールモデルが
そして私には自分の愚かさや罪を知る経験がたくさん必要でした。

 私が上に記したようなリプロダクティブヘルス/ライツや障害者権利条約の第23条について知ったのは次男を出産した後のことでした。私たちには情報がありませんでした。それゆえ多くの歳月を要し、人生の時間をたくさん遠回りしてきました。ですから、もう誰にも人生の時間を無駄にはして欲しくないのです。繋がれたたった一つのロールモデルがあったこと、その後に情報と繋がれたことをラッキーで済ませたくないのです。


この記事を書いた人:のりちゃん


【参考】

「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」をご存じですか? - 日向市ホームページ - HYUGA CITY

リプロダクティブ・ヘルス/ライツとは?取り組み事例や課題と解決策:朝日新聞SDGs ACTION! (asahi.com)

障害者の権利に関する条約(略称:障害者権利条約)|外務省 (mofa.go.jp)

障害者の権利に関する条約 - Wikipedia


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