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「石に当たると痛む。」

石を民衆の機嫌が済むまで浴びないといけない時も有る。
喩えば、僕は園崎詩音さんと一緒に石を浴びないといけない人種である。
何故、貴方はそう言う現象に成る事自体を拒絶するのか? 人生は待って呉れないと言うのに。

大した事の無い脳味噌で生まれて、大した事の無い技術しか持てず、大した事の無い障害を宿してしまった僕は、意図的な痴呆や安易な共感や無知の邪推に腹を立てる。自分でもビックリするくらい腹を立てる。
そう言う時は決まって、ブベルル酸をポッケに忍ばせて、スカートも履かずに本屋古本屋を巡るのだ。

僕の周りの人は含蓄の有る暴言を言えない。只管、好き嫌いで判断した悪口に思想をコーティングした様に見せかけている言葉ばかりだ。
そう言う人々の集まりを「児童性」と名付けている。其れでちょっと胸の穴が楽に成る。
所謂、僕の違法性と貴方の蓋然性だ。
才能と言う言葉を心の底から憎んでいる。
シン・ゴジラに蹴られてしまえと思う程度には。

世界がSF過ぎてファンタジーの残量が後少しだけに成ってしまった。変化じゃ無い時代なんて無いから。
余り眼を擦ってると白眼が溶けるので、ドンドン眼球が小さく成っている気がしてる。
人が生きている其れ自体がちゃんと綺麗だと佳いのだけど。
願わくば、堕ちてきたシャンゼリヤで頭がグチャグチャに成りません様に。

ヴィル・エヴァンスの「jade visions」を聴いたせいで、心臓を抱えて歩かないといけなく成ってしまった。
低音との調和の美しさと言ったら!
僕には音楽に対する相応しい知識が無いので、チョロい心意気と重い恥ずかしさで音楽を好きに成っている。
其の上で言うと、芸術とは遠回りをする事にこそ意味が有るのだ。
キット其の間に沢山の幻を集めて帰ってくるから。

死んでも赦して呉れないならば、死ぬ事に何の意味が有るのだろうか。
僕は永遠に生き続けたい。貴方にも永遠に生き続けて欲しい。両腕で抱えきれない程、そう言う人達が居る。
そしてモット言えば、今の状況を壊されるのが怖い。
死に達観する事が、キット死ぬまで理解出来ない。
何時だって、死ぬには哀し過ぎるから。

ちゃんとした人間に成りたい。
鬼は殺さないといけない。
咲き誇る花よりも、其の花の花言葉に酷く惹かれてしまうのだ。
僕はパーで、忘れっぽくて、直ぐに間違って、人を傷付けてしまうから、弱虫に成るくらいが丁度佳い。
贅沢な夢の中でだけ、夜空と何時までも旅が出来るくらいの虫に成っていて。

行脚してる基督氏は石投げ防止のスペシャリストだから、もしかしたら詩音さんだけは石から助かるかも知れない。
問題は、基督氏までも石を投げないかどうかだ。
ユダ氏に頼み込んでるが、彼は根が真面目なので、巧くいくかは甚だ疑問である。
でも、もし、上手に、処理出来て、安心して、サヨナラが出来たら、石の雨の中で、僕は、僕で、独りで、往くのだ。

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