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自己意識が身体や言語の産物なのだとしたら、「私」とは「欲望」なのではないか?

自己意識、つまり「この私」という意識の感覚──それは「クオリア(感覚質)」と呼ばれることもある──の概念を今回は検討しよう。

まず、大雑把ではあるが以下の2つの前提をおくことにする。

①「私」という自己意識は、脳という器官の内部で起こる化学反応によって生じている
②「私」という自己意識は、「私」という言葉があって初めて自覚でき、捉えることができる

①確かにホルモンのフィードバックのシステムがあるので「脳だけ」で意識が発生していると断言することはできないだろうが、それでも神経細胞のネットワークが意識の「発生源」だとは言えそうだ。

②もし言葉がなければ様々な知覚がただ生じているだけ、つまり天気が移り変わるのと区別することができない。というか区別する「主体」が存在しないし、「区別」という「虚構の分節」が生まれるのは言葉によってである。

以上のような2つの前提をもとにすれば、結局のところ「私」という「自我」はどうして発生しているのだろうか?...

思考は欲求に駆動される(欲求ドリブン仮説)

「私」とは、「欲求」によって生じているのではないか、というか「欲求そのもの」が「私」なのではないか。
ビジネス系の文章では、よく「〇〇ドリブン」という言葉が用いられる。例えば、「データドリブン」であれば、データを基盤に組織の戦略や行動目標を定めていこう、といったものだ。

この〇〇ドリブンという言葉を借りれば、「私」という存在は「欲求ドリブン」な存在なのではないだろうか。つまり、欲求によって尽き動かれているのが「私」なのである。

というのも、理性の場であるとされる大脳皮質では、様々な「計算」がなされるわけであるが、結局のところ、「どうして計算をするのか」という理由として、「欲求を充足させるためだ」と答えうるからである。

「私」とは、欲求する主体であると同時に、欲求を統制する「主人」である

私たちは、様々な欲求/欲望の「主人」として振舞わなければならないのだ。
寝ている時間以外、私たちは自分の身体を「意識的に」運用しなければならない。つまり、ゲームでたとえるなら、「次はどうする?」という選択肢を、目が覚めている限り選び続ける役目をになっているのだ。
怠けるということも、怠けるという選択を選び続けているのだ。

「私」という自己意識は、どこかから湧いてきた欲求・情動を「どのように対処するか」という「闘牛士」の役割を担っているのだ。

「すぐしたい」動物的情動と、「計算する」機械的理性が、「脳」という舞台でせめぎ合っているのだ。それを「自覚」するのは、言葉による反省(事後的に現象を解釈すること)によってである。

ひとこと

なんかヘーゲルとかレヴィナスとかバタイユとかその他フランス現代思想系の人たちが「欲望」ってあーだこーだ言ってたようなー。というか、哲学の愛がエロースだから「欲望」なんですよね。ただ、それは感覚的欲望ではなくて、”精神的欲望”──デリダの表現では形而上学的欲望──なんですよね。哲学者は「ホンモノ」が見たいんです。

※基本的に僕は、満たされうるのが「欲求」で、満たされることがないのが「欲望」という区別をしています。

思考の材料

私たちは「他者」(自分ではない存在者)を「自分のものにしよう」という欲望を持っている、とレヴィナスは言います。

「哲学とは、エロース(知への強烈な欲望)だ!」というプラトンがノリノリで書いた話

哲学者の抱く「形而学的欲望」をデリダは暴露しちゃいました

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