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うぇいの哲学

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哲学みがある記事のまとめ
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#ハイデガー

理解するとはどういうことか?対象の本質を知識として理解することと、対象の本質を体験を通じて理解することの差異の考察

「私」や「読者のあなた」という「主体」が、言語(論理的推論)を通して「何か(対象)」を理解することと、感覚器官(感官)や体験を通じて「何か(対象)」を理解することの違いについて、簡単な考察を行うこととしよう。 対象を理解するとは、対象との距離を縮めることである人が何かを理解するということを、一体どのように理解すればよいだろうか? 端的に言えば、何かを理解するとは、その何かとの「距離が近くなること(距離を取り去ること)」である。 どういうことか。外国語学習を例に考えよう。

問うことが「自分にとって」何よりも重要である理由

問うことができるという特権人は、問うこと(Fragen)ができます。対して、人間以外の存在者(Seiende)は問うことができません(ここでの存在者とは、事物的存在者=モノだけでなく、人間以外の生命体も含みます)。問うという可能性に開かれているという点で、存在的な優位(ontischer Vorrang)が人間にはあると言えるのです。 問いの経験による変容問う者(die Fragenden)は、問われるもの(問いの対象:das Gefragte)との関係において変容します。

言葉が過剰な時代に、どのように言葉を紡いでいくか

本記事は、僕のnote初期に出した記事のアップデート版になります! 論文として仕上げました😁 1. 言葉と人間の新しい関係 言葉と人間は、相互にその存在を支え合う関係にある。すなわち、言葉があるから私たちは現在のような生活が営める一方で、人間が存在し言葉に関わらなければ言葉は存在しないという関係である(1) 。  ところで、言葉と人間の関係は、従来の関係とは少し変わったものになってきていると言える。というのも、その関係がインターネットの影響を大きく受けているからだ。すなわ

哲学は「答えがない問いについて考えること」なのだろうか?

哲学は「答えがない問いについて考えること」だとしばしば説明されます。けれども、このような説明の仕方に僕は違和感を抱いてしまいます。というのも、「問い」であるならば、なんらかの志向性が認められるはずだからです。ここでの志向性とは――専門的な意味ではなくて――問う際には、問いの対象(問いにおいて求められているもの)が目指されているだろうという意味です。 さらにこの事柄を考えるにあたって、いわゆる「哲学的問い」の言い回しである「そもそも〇〇とは何か」という型の問いを取り上げましょ

「詩」としての哲学——理性ではなく「想像力」重視の哲学

「哲学って、難しいことをゴチャゴチャ言ってるだけじゃないの?」と思っている方もいるかもしれません。まぁ正直そういう側面もあります。「真理探究」の学(Wissenschaft)としての哲学(Philosophie)においては、かなり込み入った議論が行われているからです。 ただ、そのような自分の意思には関係なく定まった対象(例えば客観的真理)を把握しようとする哲学以外にも、哲学の活動領域は拡げられるはずだと僕は思うのです。 本記事は、冨田恭彦『詩としての哲学』を頼りに、「可能

マルティン・ハイデガー『哲学の根本的問い』第1章 日本語訳

どーも、うぇいです。本記事では、マルティン・ハイデガー『哲学の根本的問い』の第1章の日本語訳を載せようと思います。 ハイデガーは、根本気分(Grundstimmung)が哲学を始める上で重要だと言っています。 理性的っぽそうな「哲学的問い」ですが、実はそうした哲学的問いを立てる動機というのは、「漠然とした気分」なのではないでしょうか? みなさんは、どのような気分から哲学的な問いを立てていますか? 僕は、「好奇心」や「違和感」から考え始めますね。「好奇心」とは、なぜ物事が

毎日頑張ろうとするとそれはそれで緩急がなくなり間延びしてしまうから、「休日」を意図的に設けたほうがいいかもしれない

何か大きな目標があるときは、単調な努力を重ねなければならないでしょう。コツコツとか、泥臭くとかそんなふうに形容される行動の積み上げです。例えば、受験勉強とか部活動の大会に向けての練習です。 でも、そうやって必要なことを淡々とこなしていくのは案外難しいものです。これには1つの大きな理由があるように思われます。それは時間(Zeit)の問題です。 目標達成のために毎日淡々と過ごすというのは、昨日と今日と明日がほとんど区別されない等質的な時間を生きることと言えるのです。人は、平均

「とりあえずビール!」を哲学する。また、ドイツビールのおいしさを回顧する。

ビール(Bier)が苦手な若者が最近増えてきているらしい。僕は飲み会で「とりあえずビール!」と頼む人間なのだが、他人も「とりあえず」なのかはきちんとヒアリングする必要がある。 ここから大きく2つの事柄が取り出せるだろう。1つ目は、昔(?)の「最初は絶対にビールを頼む」という暗黙の常識が常識でなくなったということ。2つ目は、自分がビールを好んでいるからといって相手がビールを好んでいるわけではないので、そのことを配慮すべきだということだ。その配慮が新たに常識となりつつある。

Ayase「幽霊東京」から哲学的に思考する

人は自分と向き合い続けることはできない、と僕は思っています。なぜなら、自分について深く考えれば考えるほど「自分」という存在がいかに不確かで不安定であるかが自覚されてしまうからです。 人は、自分の存在の重さ(Last)に耐えられない。 重さに耐えられない人間は、そこから逃避します。どのような仕方で? 一言でいえば、気晴らしです。不定形で掴めない存在から逃れるように、忘れられるように、何か別な物事で置き換えるということ。 僕は、哲学的な思索に耐えられなくなったら、散歩に出か

マルティン・ハイデガーって誰? 「存在の意味への問い」をめぐって

本記事では、ドイツ哲学者マルティン・ハイデガー(1889-1976)について紹介します。 そもそも、なぜ日本で哲学を学ぶのにあたって西洋のエラソーなおじさんの本を読まないといけないのでしょう? 僕は哲学を、「自分で考えるために学ぶもの」だと考えています。したがって、自分に関心のある問題について考え抜いた人物の著作を読めばそれでいいんじゃないかなぁと思うんですよね。自分の思考の質を上げるための材料として、「古典」を読むという態度です。  僕は「なんで生きないといけないの?