『メイキング文化人類学』読書ノート一章
メイキング文化人類学が早速、面白くなってくる。
文化人類学と博物学、の違いがわかり始める章。
そしてカメラおじさんこそ、ダーウィンや荒俣宏に続く、令和の正統な博物学者の後継であることを知る。(^^)
(欧州における)博物学から人類学のながれは、(自文化)社会と(異文化)社会がファーストコンタクトする、人類共通の普遍的な変化な気がする。
第1章 ファーストコンタクト再演
― 博物学と人類学の間[浜本 満]
1ダーウィンの19世紀
・植民地主義の意味は十八世紀末にはすでに、重商主義の原理に基づいた保護主義的な体制から、キプリングの「白人の責務」(未開の兄弟たちを啓蒙するのは白人に負わされた責任であるという考え方)に見られるような倫理性をまとった自由貿易帝国へと変化しつつあった。クックの三回の航海はこの変化の前触れであり、「発見」の目的が、搾取・征服・帝国主義的所有から、征服や領有を表立って含意しない「科学的調査」へとシフトしたことを物語っていた。植民地支配の異なるモードが成立しつつあったのである。
・二十世紀はじめには、フィールドワークの経験は、真に科学的な研究にとって不可欠なものであり、研究者にふさわしい人物であることを証明するためのステップであることすらみなされるようになっていた。
・人間とその社会について研究するのに、博物学的なフィールドワークだけでは何かが足りなかったのだろうか。ダーウィンの『ビーグル号航海記』を手がかりにしながら、この二つの問題について考えることが、この章の課題である。
2博物学の歴史――フィールドワークの地位の確立まで
・ヨーロッパにおける博物学の成立の重要な源流の一つが、とりわけルネサンス期以降に、主として上流の富有階層を中心に広く流行した珍品収集趣味にあったことはしばしば指摘されている。
・十七世紀にいったん下火になった珍奇物に対する関心(博物趣味)は十八世紀には、町のコーヒーハウス(コーヒーの流行そのものが駅ゾティズムの表れであることにも注意しよう)を介して、今度は市民をその重要な担い手として再燃することになる。こうしたコレクションの中身は、あいかわらず美術品や骨董、コインなども含んでいたが、十八世紀の後半になると、自然物とりわけ異国の珍しい自然物の博物標本の占める比率が目立って高くなった。
・博物学はいわば地球がもっている事物の「在庫管理のシステム」として成立した。
・ダーウィンと並んで進化論をうちたてたウォレスは、自分の探検生活を、標本の売買によって支えねばならなかった。野外派は標本採集者として裕福な室内派の博物学者の下働きの地位に長く甘んじなければなかったのである。ダーウィン自身、当初ウォレスをさまざまな事実や標本を集めて自分に供給してくれる者、情報提供者としてしかあつかっていなかった節がある。
・十八世紀の「重商主義的」エキゾティシズムが珍品・奇品すなわち、本来の文脈から切り離され「無文化的読解不可能性」を刻印されたものたち、ヨーロッパの秩序からの逸脱、欠如や過剰、転倒のみを――ヨーロッパ的差異のみを――属性とする孤立したものたち、つまり「場違いに」ヨーロッパのコンテクストに出現したものたちへと向かっていた者に対し、「ロマン主義的」エキゾティシズムは、それらのものたちが属するコンテクストへ、そしてそれを見る者をを包み込んでしまう光景へ、つまりエキゾティックな「世界」に向けられているというのである。
・進化論は、近代生物学へと再編されつつあった博物学の研究対象をを大きくシフトさせた。
・その存在自体に環境との関係性が織り込まれているようなそんな存在として、生物を捉えなければならなくなった。
・研究対象をどう規定するかが変わった結果、方法としてフィールドワークの優位は動かしがたいものとなっていったのである。
3博物学のフィールドワークと人類学のフィールドワーク
・十九世紀の後半に入って博物学におけるフィールドワークの優位が確立するときに、なぜフィールドワークに基礎を置いた人類学も同時に成立しなかったのだろうか。
・前世紀のビュフォンは言うまでもなく、ダーウィンと同時代の多くの博物誌の著者たちは、人間(ヨーロッパ人)中心的な視点を隠そうとしたり、なんらかの客観的・普遍的な視点に見せかける必要すら感じていなかったように見える。
・『航海記』における自然物についての博物誌的記述が、博物学が到達した一つの水準を示しているとすれば、『航海記』における人間についての記述はそれらとは驚くべき対照をなしている。両者の間には大きなギャップがある。
・ダーウィンの観察記述は、ここでは十六世紀以来の、他者に対するヨーロッパ人の想像を反復しているにすぎないことがわかる。まさにコロンブスのファーストコンタクトを再演しているのである。
・自分の目にはろくに食べ物もなく寒々しい荒涼とした島にしか見えないフエゴ島に、満ち足りて快適に暮らす生のシステムがありうるとは、彼には想像できなかった。
4人類学の遠さ
・十六世紀に、みずからの脈絡を欠きヨーロッパ世界からの差異としてのみ「場違いに」存在したエキゾティックな珍奇物は、十九世紀にそのコンテクストを取り戻し、みずからが属する固有の脈絡のなかに捉えられるようになった、それが十九世紀の博物学=生物学において、フィールドワークの地位を確立させた。しかしこのとき、ヨーロッパの外のエキゾティックな人間たちは、まだみずからのコンテクストをもたない、ヨーロッパというシステムからの逸脱、欠如、過剰、としてしか捉えられなかったということがわかる。
・ダーウィンのフエゴ島の経験は、優秀な博物学者である彼が先住民に対しては、彼らをヨーロッパとは別の一つのシステムに属する存在として、一つの別の世界の住民として眺めることができていなかったことをはっきりと示している。この人間存在にとってのふかしのコンテクストに気づくとき、人類学においてフィールドワークは単なる理論家のための情報収集であることをやめるのであるが、それはまだまだ後の話である。
2022/09/20 9:31
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?