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じゃ、次はこの文章を2倍の文字数にしてください。

コクリコ坂の指令は続く。
「じゃ、次はこの文章を2倍の文字数にしてください。」
昨日の原稿、2021/09/30の文字数は 1186 文字。
引用部分は 958文字。
2000-2400文字くらいにすればいいかな?

最初、指令の内容がわからなかった。
二度寝したときに、へんとつくりを分かち書きをする明晰夢をみた。
僕はポメラで けものへん を打ち込んでいた。
質問を返したら
「文章中に解説を入れても、感想を入れても、内容改変をしてもいい。つまりは雑念を文章の中に入れること。注釈を加えるというより、一つの文章にまとめること。」
だそうだ。
台風か来そうな、2021/10/01 8:08、レッツトライ。
心はどこへ消えた? p16 東畑開人、文藝春秋社、を保坂が改変する。
心はどこへ消えた?という題名は、チーズはどこに消えた?というベストセラーのもじりのようだ。

先日、保坂はメディア論を読み“情動”という言葉を知った。
情動とは、怒りや笑いという責任をとることができる主体的な“感情”、の前駆状態のことだ。
クリティカルワード:メディア論では、情動=脊髄反射というネットスラングと同じこと、とまとめていた。
感情は主体的であるので、反省もできるし、その行動も変えやすい。
しかし、情動は非主体的≒無意識的?潜在意識的?であるので、発生に気がつきにくく、自分を裏切りやすい。
カッとしてやらかしてしまった、ことを思い出して欲しい。
あれは怒りという感情ではなく、カッとしたという情動だ。
カッとするは情動的であり、自己決定できる行動でなく、どちらかというと脊髄反射や反応、無意識といった、狭い意味での“自分”ではないとしたら・・・、自分はどこに行った?
面白いとか、楽しいとか、腹が立つ、嫉妬する、すごいな、愛してる、大切にしたい、みたいな自分の心はどこに行った?

 東畑先生は言う。

 みんなが言っていることに納得がいかない。親にも同僚にもパートナーにもわかってもらえない。きわめて個別の、自分しかわからない事情がある。そういう他者とは異なる自分だけの孤独に、心が宿る。
 心とはごくごく個人的で、内面的で、プライベートなものだ。それはあらゆるものを否定した後にそれでも残るものなのだ。心は旅の始まりでなく、終わりに見つかる。p16



多分、自分の心はどこにいったのか?
うすら気づいて、ちょっとぞっとする。
自分は中身はないんじゃないか?
その孤独に、僕は自分の心を見つける。

東畑先生は続ける。

 だから、小さな物語こそが、心の場所になる。物事をシンプルに割り切ろうとする大きな物語を否定したところに心が現れるのだ。p16



コロナは風邪と言った人がいた。
ワクチンを拒否し、感染発症し、亡くなった、と風の噂で聞いた。
彼は、彼なりに、心を取り戻そう、小さな物語りを取り戻そうとしたのではないか?
ナポリ人は壊れたものを愛し修理することで、自分の体の一部分のように、その道具を愛するという。
彼は、コロナという大きな物語りを笑い飛ばし、また小さな物語りの世界を愛そうとしたのではないか?
そういう意味で、もう一度、心を見いだせた彼は幸せに思う。

さて自分の心はどうか?
2020年11月に、東急Bunkamuraミュージアムでの東京画展示が終わったころ、自分の中身のなさ、空虚さに、取るに足りなさ=孤独?に気がついちゃったことを思い出す。
同時に今までの自分の作品や仕事を否定できた感じがして、何か手応えも感じていた。
真空のエネルギーを調べたり、虚像培養芸術論:アートとテレビジョンの想像力と言う本をタイトルだけで、買って読んだりした。
いくつかの新しい作品を作ったりして、コンペにも応募した。
Clubhouseをやり始めた、続けていたのも、そのころでトークの世界を主体的に面白いと感じてた。
僕が心を再度、見つけたのは、そのころかな。
具体的に言うと、情動を知る前かな。

おーセラピーだ。
9/15から10/7、意外な形で心が癒やされていくかも。
とは、石井ゆかりの星読みである。
なるほどなぁ。

最近、人新世を掘っていたのは、ご存じの通り。
なぜ人新世か?これスーパー大きな物語りだからだ。
ブルドーザーのように、近代文明200年?現代アートが?資本主義が?宗教も?が小さな物語りとして、吹き飛ばし、整地してしまい、再考を迫るパワーがある。

全て陰謀論は 大きな物語りへの抵抗 だ。
ぼく知ってるよ、あれは子どもからの大人の会話への抵抗だ。
バイキングの角ヘルメットをかぶったQアノンのシャーマン は心を見つけたろうか?
保坂はいま、彼の孤独と祈りが見える。

最近、お気に入りの文化人類学も同じだ。
スーパー大きな物語りの応答として、マルチスピーシーズ人類学というアプローチがある。
保坂の理解では、人新世を前に文化人類学は人類だけ語ることをやめた。
マルチスピーシーズ=多種族を研究することで、人類学を語り直そうとしている。
アナ・チン著の マツタケ はその代表作だ。
人類を描くのにマツタケを助っ人に頼んでいる。

東畑先生はいう、

物事をシンプルに割り切ろうとする大きな物語を否定したところに心が現れるのだ。



自分の心の存在は、否定しても否定し尽くせない。
ただわからなくなることは、見失うことは、よくある。
保坂は自分の心を感じていたい。
足もとを安定させるため、遠くの景色をみよう。
大きな物語りをみすえ、しかし飲み込まれるわけも、圧倒されるでもなく、見ないことをするわけでもなく、なんで?という小さな疑問と自分の物語りに引き寄せることで抵抗する。
世界と、そう相対したい。

2300文字達成。
どっとはらい。

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