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「かたい/(やわらかい?)」−子供のことば

 二歳半の長男。ひとつの言葉でいろいろなことを言おうとしている。

 最近、よく言うのが「かたい」である。

 ・おもちゃの部品がはずれないのを「かたい」
 ・お菓子のプラ包装が開かないのを「かたい」
 ・カピバラが草を食べているのをみて「かたい」

 このあたりは大人でもそう言うだろう。

 では、これはどうだろう。 

 夜寝る前、歯磨きが終わった後に、冷蔵庫にしまってあるプリンを食べたいという。「だめだよ」といって冷蔵庫を開けないと「れいぞうこ かたい!」と言って怒る。
 あるいは、親がゴロンと横になって眠ってしまい、プラレールの電池を換えてほしいとお願いしても、すぐに動いてくれない時、「かたい!!」と言って怒る。

 まず冷蔵庫の扉は固くない。把手を引けば簡単に開く。ゴロンと寝ている親も別に固まっているわけではない。

 どうやら長男は、「かたい」という言葉で、触覚としての硬さ/柔らかさだけを言っているのではないらしい。

 大人の言葉に翻訳すると、おそらく「本来動くべきモノが、動かない状態」を言っているようである。

 しかも「かたい」と言う場面は、大概怒っているときである。

 当然動くべきものが動かない!得られるべきものが得られない。

 その憤懣遣る方無い「空白」の状況に、言葉を与える。実現されない願望だけが浮遊するところに言葉を充填する。あるべきものが抜けている部分に言葉を充填して、どうにか世界内存在としての自分を再建しようとしているのかもしれない

二状態の区別

 人間の神経系、その絡まりである脳は、2つの状態を区別するよう動く。

 そのプロセスは言語以前の段階で動きはじめており、言語を繰り出す処理自体が、そうした言語以前の区別の操作が次から次へと連鎖したものが、あるパターンを描いて絡まりあったものである、と考えられる。

 人間が無意識のうちに、言葉の手前で行ってしまう区別。

 「かたい」と「かたくない」の区別もまた、そうしうたもののひとつである。下記は山梨正明(2000)著『認知言語学原理』の120ページである。


認知言語学の分野では、これを経験のドメインと呼ぶ。

○空間認知が区別すること
 上/下、前/後、左/右、広/狭、深/浅、高/低、長/短、直/曲、厚/薄、内/外、遠/近 …
○体感が区別すること 
 重/軽、緊/緩、暖/冷、暑/寒 …
○五感が区別すること
 暖/冷、暑/寒、明/暗、甘/辛、苦/渋、騒/静、無臭/臭 …
 赤/青/黄、白/黒/灰色 …
○運動感覚
 動/静、早/遅、安定/動揺 …

 などなどが次々と挙げられる。

二状態の区別1と二状態の区別2を重ねる

 これが身体の感覚器官で始まる区別であるとすれば、この感覚器官からの信号に呼応して、信号を伝達したりしなかったりする神経系ではじまる区別もある。
 例えば視覚が突然、長く、暖色と寒色が混じり合った模様を、周囲の環境から識別したとする。その情報は神経を伝わり、「蛇」という記憶を呼び起こす。そうして考えるより先に全身が緊張し、思わず足が動いて飛び退く。心臓の鼓動も高まっていることだろう。

 感覚器官が取り込んだ外界についての情報は、神経システムというそれ自体もまた「オン・オフ」の二状態を区別する仕掛けの連鎖を引き起こす。その神経の状態は、緊張と弛緩、不快と快適、不安と安心といった、身体反応や感情を引き起こす。

 そうした身体レベル、感情レベルの区別の先に、良いと悪い、善と悪、人間にとって望ましいものとそうでないものいつもと同じものと奇異なもの、といった意識的な言語の素になるような「価値」の区別がはじまる。

究極の区別、のひとつ。望ましいことと望ましくないことの区別

 こうして始まる自分たちにとって望ましいことと、そうでないことの区別。人間にとってプラスの価値のあることと、そうでないことの区別は、他のあらゆる区別を吸い寄せてしまうほどの強力な区別である。

 レヴィ=ストロースは神話の語りで登場する様々なものたちの区別された対立関係を、究極には「文化と自然」の対立に行き着くものであると論じた。
 文化とは、人間にとって人界にとって望ましい価値あるものたちの世界であり、自然とはそれを脅かす荒ぶる何かである。
 人間のあるべき姿、人間関係のあるべき姿を語るとき、さまざまなものが価値の「ある」「なし」、どちらかに吸い寄せられ、価値ありのシリーズと、価値なしのシリーズを繋いでいく

 このつなぎ方、あるなにかを価値ありの方につなぐか、価値なしの方につなぐか、実はどちらでもよいのである。

 井筒俊彦は『意味の構造』において、「記述と価値評価が一体」となって展開する様を捉えている。

記述は価値評価を含み、価値評価は記述する。しかしその両側面は区別できる。記述的には同じ意味でも、その価値がプラスからマイナスへ逆転することがある。

 井筒が挙げる例は「高慢」の価値である。

 「彼は高慢である」

 ある部族ではこれが男性の美徳、プラスの価値とされるが、また別の部族ではこれがマイナスの価値となることがある。

 1)「高慢」と「謙遜」の重ね合わせ対立関係
 2)「プラスの価値」と「マイナスの価値」の対立関係

 このふたつの対立関係が重ね合わさる。

 そして高慢がプラスの価値と同じになり、謙遜がマイナスの価値と同じになる。あるいは、高慢がマイナスの価値と同じになり、謙遜がプラスの価値と同じになる。

おわりに

 価値というのは、「価値がある」と「価値がない」の対立関係にその他の対立関係を重ねたり、価値があるないのどちらかの項と、他所の対立関係から遊離してきたた単立する項を等置する「操作」である。

 この操作が始まる前に、世界そのものが、天地開闢の瞬間から価値あるものとないものに予め別れていたわけではない。価値の有無とは個々人がそれぞれ独自に区別していることに始まるのである。

 とはいえ、人間同士であれば、身体レベル、感覚レベル、神経の反応の仕方の癖は同じようなものになりやすい。

 また、成長するに連れ、言っていいことと悪いことの区別、やっていいこととやっては行けないことの区別など、同じ部族、同じ文化圏で育てられた人々の間では「価値」が共振しやすくなる。何故かといえば、同じようなメディアを共有し、同じような言葉を供給されている人々の間では、その言葉の組み合わせ方が同期しやすい


 私たちは社会の中に産み落とされてしまう以上、どうしても世界はそれ自体が予め、善悪の秩序に区切られているはずだと思いたくもなる。

 ところが、まだ言葉を使い始めたばかりの子供は、この社会の規模での「同期」にほとんどさらされて居ない。そうして独自のやり方で、区別を行い、それに言葉を与えている。そこに言葉の原初の姿を垣間見ることができているように思えてならないのである。

おわり


 


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