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おすすめの【本】‐読書メモ

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仕事柄、日々いろいろな本を読んでいます。幸運にも出会えたおもしろい本をご紹介します。
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#読書

ユング、マンダラ、共時性:ユングの論文「共時性:非因果的連関の原理」を読むーーユングとパウリの共著 『自然現象と心の構造』より

深層心理学で知られるカール・グスタフ・ユングと、「パウリの排他律」で知られる物理学者ヴォルフガング・パウリとの共著『自然現象と心の構造』を読む。 パウリの手による論文「元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響」については下記の記事で論じたので、今回はユングの手による「共時性:非因果的連関の原理」を読んでみよう。 「偶然」の世界・・偶然?必然?「共時性:非因果的連関の原理」の冒頭、ユングは次のように書いている。 因果的なつながりを説明することができないが、しかし、たしか

言葉を不可得モードにずらす読書経験へ -唐澤大輔・石井匠著『南方熊楠と岡本太郎 知の極北を超えて』を読む

共同研究をしている仲間が教えてくださった『南方熊楠と岡本太郎 知の極北を超えて』を読む。 2024年の6月に出版された新しい本である。 この一節から始まる本書は、対立する二極の区別を前提として固めたところから出発する通常の思考とは異なった「極北」の知のあり方というか動き方を探っていく。 言葉、コトバ、ことば、コト-ハその探索が行われる密林のような場所になるのが、熊楠の言葉であり、岡本太郎の言葉である。 例えば、岡本太郎の言葉について、次のようにある。 ひとりの人間の

超-明るい部屋へ/埋蔵経典を”発掘”する神話的思考 -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(7)

中沢新一氏の『精神の考古学』を引き続き読む。 精神の考古学。 私たちの「心」は、いったいどうしてこのようであるのか? 私たちが日常的感覚的に経験している分別心(例えば、好き/嫌いを分別したり、自/他を分別したりすることは当たり前だと思っている心)が、発生してくる深みへと発掘を進める中沢氏の「精神の考古学」。 いよいよ第八部「暗闇の部屋」を読んでみようと思う。 ここで中沢氏は、「まったく光の入ってこない部屋の中で、一週間にわたっておこなう[…]暗黒瞑想」について書く(p

深層の「心」をチューニングして、コトバ(意味)のはじまりと共鳴する -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(64_『神話論理3 食卓作法の起源』-15)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第64回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第三部「カヌーに乗った月と太陽の旅」を読みます。 これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。 これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。 この一連の試みは、レヴィ=ストロース氏による『神話論理』を、レヴィ=ストロース氏がはっきりと明示して書かれていないことまで好き勝手に「ああなんじゃないか」「こうなんじゃないか」と

分別する眼と無分別の眼を共鳴させる -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(4)

中沢新一氏の『精神の考古学』を引き続き読む。今回は、第五部「跳躍(トゥガル)」を読んでみよう。「トゥガル(跳躍)」とは、「青空と太陽を見つめる光のヨーガ」である(p.175)。 「光」を「みる」、視覚のモデルこのヨーガを修することで、あるとても不思議な「光」を「みる」ことができるようになるという。 * 通常、「見る」といえば、感覚器官である「眼」に「外界」からの「光」が「刺激」として入力され、それによって神経系に電気的化学的な変化が生じる。その変化がつまり神経系において

”心”の表層を剥がしていくと -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(2)

ひきつづき中沢新一氏の『精神の考古学』を読みつつ、ふと、松長有慶氏による『理趣経』(中公文庫)を手に取ってみる。かの理趣経、大楽金剛不空真実三摩耶経を、かの松長有慶氏が解説してくださる一冊である。 はじめの方にある松長氏の言葉が印象深い。 苦/楽 大/小 何気なく言葉を発したり思ったりする時、「その」言葉の反対、逆、その言葉”ではない”ことを、一体全体他のどの言葉に置き換えることができるのか、できてしまっているのか、やってしまっているのか、ということをいつもいつも、「頭

詩的言語/サンサーラの言葉とニルヴァーナのコトバの二辺を離れる -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む

しばらく前のことである。 「人間は、死ぬと、どうなるの?」 小学三年生になった上の子が不意に問うてきた。 おお、そういうことを考える年齢になってきたのね〜。と思いつつ。 咄嗟に、すかさず、大真面目に応えてしまう。 生と死の二項対立を四句分別する。 念頭にあるのはもちろん空海の「生まれ生まれ生まれて、生のはじめに暗く 、死に死に死に死んで、死のおわりに冥し」である。 こういうのは子どもには”はやい”、という話もある。 が、はやいもおそいもない、というか、はやからずお

中沢新一氏の新著『精神の考古学』を読み始める

中沢新一氏の新著『精神の考古学』を読んでいる。 私が高専から大学に編入したばかりの頃、学部の卒研の指導教官からなにかの話のついでに中沢氏の『森のバロック』を教えていただき、それ以来中沢氏の書かれたもののファンである。また、後に大学院でお世話になった先生は中沢氏との共訳書を出版されたこともある方だったので、勝手に親近感をもっていたりする。 中沢氏の書かれるものには、いつも「ここに何かがある」と思わされてきて、特に『精霊の王』、『レンマ学』、『アースダイバー神社編』は丸暗記す

マニ教の終末論を深層意味論で読む

前回「マニ教の創世神話を深層意味論で読む」に引き続き、青木健氏の著書『マニ教』を読む。マニ教は「善悪二元論」「光と闇の二元論」として知られる、西暦3世紀の西アジアで生まれた宗教である。 前回の記事では、青木健氏の『マニ教』に描かれた、マニ教の創世神話(世界の始まり、世界の起源についての神話)にあたるものを、深層意味論の手法で読んでみた。 それに対して今回は終末論である。 要するに、この世の終わりである。 * * 一般的には、この世の始まりについて言葉で語ろうとする起

カエルの歌が聞こえてくると -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(56_『神話論理3 食卓作法の起源』-7)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第56回目です。 これまでの記事はこちら↓でまとめて読むことができます。 もちろん、これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。 つなぎ合わされた観念から、 観念をつなぎ合わせる”語り”へレヴィ=ストロース氏は『神話論理』の第一冊目『神話論理1 生のものと火を通したもの』の冒頭に次のように書いている。 この観念をつなぎ合わせた命題というものが、しばしば「理解を曇らせる暗雲

グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学へ』の冒頭に紹介された「 神話 」を精読してみる

これは工業高専から編入学したばかりの大学の授業で聞いて、とても印象に残った恩師の言葉である。 ベイトソン、ベイトソン・・・。 「情報」といえば、工業高専でオシロスコープを使って波形を観測したり、信号伝送関連の数式を駆使して解を導いているときには、ノイズの少ない波形のパターンのことであった。物質の、電子の、動き方のパターンのことを情報を呼ぶ、と。ノイズにうもれて、パターンが見えなくなると、情報が失われる。情報が伝わらなくなる。 それからわずか一年くらいの後、高専から編入し

レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(2) 経験的区別を概念の道具とする

クロード・レヴィ=ストロース著『神話論理I 生のものと火を通したもの』(原題:Mythologiques - Le Cru et le cuit)は、「序曲」と銘打たれた文章から始まる。 この本については以前にも他の記事で取り上げたことがあるが、今回は細かく精読してみようということで、何年かかるかわからないが最初から順番に読んでみよう。 序曲の冒頭、私が個人的にも非常に気に入っており、ほとんど暗唱できるまでに繰り返し読んでいる一節がある。 気軽に読み飛ばそうと思えば読み

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意味分節理論とは(10) 分節と無分節を分節する ー意味分節理論・深層意味論のエッセンス 〜人類学/神話論理/理論物理学/人間が記述をするということを記述する

noteのシステムから当アカウントが「スキ」を7000回いただいているとの通知がありました。みなさま、ありがとうございます! いったいどの記事が一番「スキ」をいただいているのだろうかと調べてみると下記の「難しい本を読む方法」がスキの数一位でした。 二年ほど前に書いた記事ですが、改めて読むとこの記事自体が難しいような気がしないでもないです。 * * この記事の趣旨を煎じ詰めれば「分かる」ということにはいくつかの種類がある、ということです。いや、いくつもの種類に”なる”と

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両義的な言葉をハビトゥスに刻み込む =山内志朗著『湯殿山の哲学 修験と花と存在と』を読む

山内志朗氏の著書『湯殿山の哲学 修験と花と存在と』を読む。 湯殿山というのは、かの出羽三山の湯殿山である。 中世哲学の研究者として知られる山内氏は湯殿山の麓の出身であり、しかも湯殿山の信仰を支えた人々の系譜に連なる方であるという。詳しくは『湯殿山の哲学』を読んでいただければと思う。山内氏の筆が描き出す東北の山の中の雪の世界に誘われることだろう。 西洋と東洋、現在と過去、哲学と修験。 『湯殿山の哲学』には、一見すると全く相容れないかのように思われる二つの事柄の"あわい"