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占うこと。星を見上げる。あなたへ向かって(第2章)

2月。なぜかいつも、2月がいちばん寒い月のように思える。深夜2時。お茶を淹れるために水道の蛇口をあげる。ボイラーを点灯させればもちろん、暖かい(45度ほどの)湯が出るのだけれど、お茶を淹れることにはおそらく、ほとんど凍りつきそうな水を(流れるたびに私は痛みを感じる)100度にまで沸かすその時間や、あるいは水の量によって左右される、そのときごとの時間の推移をこそ知ることに本質があるのではないかと思う。から、多少の余分な電力や火を用いて、それらの分子の振動を発散させていく。ゆるゆると水が沸いていく。湯になる。沸騰する。気体になる。もちろん、ほとんどの人にとってはどうでもいいことだ。どうでもいいことを、それでもあなたは追いかけると決めたはずなのだから、私はそれを受け入れるよ。(あなたはいつでも私で、私はあなたにはいつでも、なりきれない)

***

さて、占うことについて。書いてみようと思いながら(2年前のnoteで少し書いた気もする)、すっかり時間が経ってしまった。ややセンシティブな内容が(奥能登の地震を含め)あるので、後半に関しては有料記事として設定している。紙パックの野菜ジュースを一本買うぐらいの値段です。

占うとき、主語はどこに向かうのか。あなたを占うこともあれば、わたしを占うこともある。巷に多く溢れる「今日の運勢」は、あなたにも、わたしにも、どうにもなれない哀れな「みんな」に向けてだ。星座ごとに区切られた階級がその度ごとに入れ替わり立ち替わり、忙しい。

けれど、本質的に、言葉は「あなた」にもなりきれないし、「わたし」にもなりきれない。ましてや「みんな」を指す言葉はいつも失敗して、分裂してしまう。分裂した一つは、「みんな」を決める言葉になった(憲法)。もう一つのほうは、まさしく実体のない「みんな」という幽霊に向けての、幽霊としての言葉になっている。どこにも所属のない(属格のない)言語として。

だから、おそらく、占いと星、(あるいは未来を予感することと、空)は密接に結びついている。星の光は属格を持たない。この土地と、星の孤独さは完全に切り分けられて、不可触の、不可侵の、絶対領域を作り出している。往々にしてひとは見上げ、孤独さと、それが続いていたところの喧騒——みんなの声——を思い出し、これからの道を予感したりする。予感は性別を持たない。予感は無性生殖する。何かのつがい(ペア)を持たないままに、自在に分裂する。

予感するとき、あなたと、わたし、は、いわゆる一般的な理解での他者と自己ではない。わたしの中にある、あなたとわたし、を指す。わたしは常に可能性をもつ(可動性・潜勢力*)。だから、わたしはわたしと話す。次どうする? こうであり得る? だとしたら?

*潜勢力[potential energy]。潜在性でもあり、それはいつも偽である。可能形はいままだ起こらない。つねにすでに先。ここに「かもしれない」が刻まれるが、刻まれる瞬間はいつも、可能性それ自体にとっては過去でありかつ同時に偽。それが偽であることによって、可能性が可能である。

疑問系が(あるいは悩み)生じるのは、その分裂が「異なる」から。一つひとつの「?」が、相補的な形で生まれてこないから。反転させてみる。つまり「?」は、一つの出どころから発生しない。複数の、わたしではないわたしから投げ込まれる(jet)、投影(projet)。未来はいつも、わたしではないわたし(わたしでありわたしではないもの)から投げ出された:遺棄されたラブレターだ。

***

噛み砕こう。占うとき。あるいは、予感するとき。予感するわたしは、他者と歩むのではない。わたしの中にあるあなたとわたしが、てんでバラバラに投げ出した可能性を精査して、わたしとともに決めるのだ。だから、責任、という。呼びかけに応える(reponder)、責任(responsabilite)。占う責任は、他者になんかない。これ以上限りなく近く遠い、わたしに向けてなのだ。わたしはわたしを占う。わたしの未来を、わたしの限りにおいて掴み切る。わたしが判断できる少し先と少し前と、つまりはこの「今」を、占う。そのうえで、あなたと(他者と)歩めるところを……あなたが影響する、影響しあう余白を残しておく。そうしないと、わたしはわたしの声を聞けないし、あなたの声を聞けない。投げ込まれるその「隙」を作っておくことが、占うことでもある。

呼びかけられるその声が、届く余響を、余白を、捉えておくこと。それが予感することの断片だろうと思う。あなたの声を聞くために、わたしの耳は、目は、皮膚は、感覚は、ひらかれている、ということ。逆に言えば、あなたを拒むとき、この世界を拒むとき、この器官は焼けただれ、閉じていく。

***(星に見えませんか、ひとつの記号が)

星を見上げる。それは、あなた(星)と、わたしの間で、ずっと延長していく余響を確かめること。

絶対に触れられないあなたへ向かって、(つまりは、単純には反射した光のかすかな反応でしかないそれへ向かって)、ずっと確かめ合うこと。

だから極端に言えば、この一つひとつの文字が、星でもある。記号という名の星。記号という名の光。名付けえぬ星。ひとつひとつの言葉は、名前がない。よく考えてみて……すこしだけ、お伽噺をするから。

***

ときが泣いていた。ときの泣く音(tik-tac)。チクタクが泣く(sobbing)おと(sound)。わたしは啜り上げるその子をチクタクと名付けた。もう夜も遅いはずなのだけれど、薬のように濃いココアが広がっていく星空のしたで、ぬるい風が平原を走っていた。

わたしはチクタクに尋ねる。何があったの、と。

「何があったの、なんて、どうでもいいことを聞かないでよ」とチクタクはいう。そんなことを言ったって、わたしが状況を把握するために必要なことよ、とわたしはできる限り丁寧に答える。

「状況なんて! 何の役にも立たない。重要なのは、ぼくがチクタクになったということなのに」

「はじめからあなたは時を刻んでいたんじゃないの? そうじゃないとしたら、詳しく教えて」

「僕はただそこにいただけなんだ、それなのにあの狩人たちときたら……僕を捕まえて切り刻んで、何度も何度も回るように仕向けて、あまつさえ名前までくれてしまった。僕は名前なんてなかったのに」

「でも名前がなかったら、あなたはあなたとして認識できないんじゃない?」

そうチクタクに問いながら、同時にわたしはやや奇妙な質問だな、とも思う。根深い問題だわね、と。本当にここを流れる風は居心地がよい。認識するからだよ、とチクタクは答えた。青磁のような色をした鹿が一匹、遠い草むらのなかを歩いていく。認識と存在を分けて、忘れてしまえばいいんだ、というその声はひとつの祈りのようだった。——でもそうね、わたしにはあなたのいう言葉が祈りのように聞こえるけれど、それはわたしが認識と存在を結びつけてしまうから、そう聞こえるのよね。結局のところ、祈っているのはわたし自身に他ならないのだわ。

遠くから響いてくる鳴き声を、鹿の姿を認めたあとに「ああ、あれは鹿の鳴き声だわ」と思うことが、どんなに愚かしいことなのか。混淆な状況として(もちろん役に立たない!)受け入れること。

わたしはチクタクの言葉をひとつひとつ思い返していた。それはチクタクの状況を説明しているように聞こえるけれど、実のところ、その言葉たちは名前のない孤児なのだ。よりあって、支え合い、どうにかやっとかろうじての星座を生み出しているに過ぎない(それも、わたしが勝手に結びつけた星座なのだ、あくまでも)。

だから、チクタクが次に何をいうのだろうか、ということもまた、わたしが勝手に生み出した星座の運行図に過ぎない。本当は、チクタクはわたしの質問になど、一つも答えていなかったのだ。かろうじて、繋がっているように見える会話にすぎず、それはチクタクのまさに「鳴き声(sobbing)」だった。

ソブソブ。sobbing。ねえソブ、今どこにいる? チクタクの隣。ソブのお話はまた今度。もう遅いからね。

***

どうしてこんなことを書いているのか。色々あったから。その「色々あった」ことは、もうすでにわたしの日記には書き連ねられているけれど、語り出すためにはまだ時間がかかる。だから、せめてもの断片として「占うこと」を書いている。

もっと単純にしてみれば、チクタクとわたしの会話だ。そのことが全てだ。時間の存在と、わたしの間で(つまりは他者と自己の間でかろうじて共有されているリズムとしての時間)、何がつながり、何がつながらないのか。何が予感できて、何が予感できないのか。そのことについて考える必要がある。わたしにも、あなたにも、係留されているのは(位相の違いはあれど、)時間なのだ。文学的な時間と、ビジネス的な時間の間でさえもそうで、つまり、人間が人間として過ごすための時間が、文学とビジネスの双方を引き合う。引かれ合う二つの時間が(もっとたくさんの時間が)、「あなた」を豊かにしていく。「あなた」の中の「わたし」を複数の人格にしていく。時間を多く過ごせば過ごすほど、あなたはあなたになりきれず、わたしは多くのわたしを抱え込むことになる。時間は、一つの時間ではない。5分をどう過ごすのか? たとえばわたしは5分を5分の中で3回繰り返すことができる。きっかり5分で。同時に、5分を1分として取りこぼすこともできる。何度も。

地震。あのとき、1月1日の16時10分。そこから避難するまでの2時間。あの2時間で、わたしは2時間を何度も繰り返した。

わたしがあのとき生きた2時間は、一つの2時間ではなく、複数の2時間で、「わたし」の中にあるこれまで多くの「わたし」が一斉に分裂し、それぞれの時間を占いはじめた。際限なく続くかと思えたあの揺れの、わずかな時間のなかで、わたしはありとあらゆる可能性を計算しつくして、生きることを選び取った。

可能性はいつも偽だと言った。極限環境のなかでは、可能性はゆっくり現れるものではない。一瞬にして全てを転覆していく。そしてその転覆が何度も訪れる。1分のうちに数十回。ひとつひとつの潜在性を計算するうちに、それぞれの偽が滑り落ち、かろうじて残った可能性が、いくつかの後悔を含みながら、過去に収束していく。そして過去はまた何度も読み替えられる。「いま」が過去を書き換えることなんて? ありうる。それぐらい「過去は繊細で、傷つきやすい」ものなのだ(平野啓一郎、「マチネの終わりに」)。だからチクタクは、認識と存在を忘れたらいいのに、という。

避難所で書いていた言葉をここに持ってこようと思う。それは一つの占いとしての結果だ。占いそのものではない。

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