自分らしさ

自分のことなんかよくわかんないし、どんどん変わっていくもんだしって思っている。それなのに、「あなたらしい」と言われて、うれしいときといやなときがあるのは、なんでだろう。うれしいのは、「あなたらしい」と言われたことについて、自分でもそれが自分らしいと思っていて、かつそれを肯定的に捉えているからなのかな。いやなのは、「あなたらしい」と言われたことについて、自分では自分らしいと思えなかったり、もし自分らしいと思えたとしても、肯定的には捉えられない部分だったりするからなのかな。自分のことなんか、よくわかっていないはずなのに?

わたし、けっこう長い間、「あなたらしい」とか言われるのが嫌いだったんだよね。は?おまえにわたしのなにがわかんの?みたいな。あまのじゃくなだけかもしれないけど、「あなたらしい」と言われると、それをどんどんすり抜けていきたくなってた。たぶん、抵抗だったんだよね。たとえそれが肯定的なものだったとしても、「あなたらしい」の背後には、わたしがどういう人間かっていう像がつくられているわけじゃん。でも、それはわたしじゃないじゃん。わたしのことをまるっとわかってくれる人は、わたししかいないんだし。わたしにたいして「あなたらしい」って言ってくる人が持っているわたし像はわたしじゃないのに、さらっと「あなたらしい」って言ってくる。って、わたし、思春期みたいなこと言ってんな。

でも、思春期も終わりかけなのかもしれない。終わることはないよ。たぶん一生思春期。イェーイ。

このまえ、パートナー的なアレといろいろな話をした。もうわたしたちは、今までの人生を振り返ってみても、この先の人生を想像してみても、お互いの存在がふつうの顔をしてそこにあるような関係になってしまったので、定期的にライフプラン的なやつのすりあわせをしている。話し合いましょう!って感じじゃなくて、流れでそういう話をしているだけだけど。パートナー的なアレは、現在、仕事の都合で遠方の地で孤独に暮らしている。一方、わたしはフリーダムに脱サラ的なアレをしちゃって、わが道を突き進んでいる。なんか、思うんだ。もしわたしが、適齢期といわれる年齢に結婚や出産を望む女性だったならば。パートナーのもとに付いていく女性だったならば。いや、ぶっちゃけあんまり考えないけど。もしそうだったら、パートナー的なアレは孤独感を抱かずに済むかもしれない。パートナー的なアレは焦りはないけど結婚願望や子どもがほしいとの気持ちがあるそうなので、その希望によりいっそう寄り添えたかもしれない。だから、「すまんな」って伝えた。きっとそういう女性も世の中には多いだろうに、わたしはこんな感じで、すまんなって。そしたら、「やりたいことやらせてあげたいからいいの。わをんさんらしく、わをんさんでいさせてあげたいから」と言われた。

いや。

惚れてまうやろ~~~~~~~!?!?!?!

このとき、わたしは「あなたらしい」にちっとも引っかからなかったどころか、抵抗を持っていたはずの言い回しを含まれていたことに気づきもしなかった。なんでだろう。自分でもそれが自分らしいと思っていて、かつそれを肯定的に捉えているからなの?なんかちがう気がする。わからないけど、わからないなりに考える限りでは、きっと「あなたらしい」の内容が何かということはたいした問題じゃないんだよね。その言葉が出てくる文脈と、関係性なんだよね。パートナー的なアレだって、たぶんわたしのことをまるっとはわかっていない。でも、それでいいんだわ。それでもいいと思えることが重要なんだわ。

パートナー的なアレだけじゃない。わたしのまわりには、運が良いことに、わたしがわが道を進んでいることや、どうしても変わり者扱いされてしまい、それでひどく苦しむこともあるようなパーソナリティを、ときにはわたし以上に尊重してくれる。ハッピー。他人に対してやさしくなりたいなんて思ったことはないけど(吐くわそんなん)、少なくとも自分のことを尊重してくれる人のことを、同じように尊重できるようになりたいわ。あわよくば、まだわたしのことを尊重してくれているのかよくわからん人のことも、ちょっとは尊重できるようになりたいわ。って思ってたら年が変わってたわ~ウケる~~~。

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