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暗黒末法都市ネオサイタマ⑥

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◆第6節 ニンジャ湛えし虚樹 後編

 朦朧とする意識の中、ドミナントが上階から降り立つ姿をアビゲイルは見た。このままカイシャクするつもりなのだろう。すぐにでも立ち上がろうとするが、いまだ全身に残る激しい痛みのせいでまるで自分の体が他人のもののように動かない。

 ふいに、過去の記憶がよみがえる。厳しくも深い愛情を注いでくれた叔父。妖精のように美しい親友。死を目前としたときに目にするソーマト・リコール現象だ。
 死ねない。死にたくない、ではなく、死ねない。まだ何一つ使命を果たしてはいないからだ。

(ああ、そんな。どうして私はこんなにも弱いのかしら)

 涙でにじむ視界が一瞬で暗転する。
 気がつけば、アビゲイルは光なき深淵のような暗闇の中にいた。

「私が代わりに戦ってあげましょうか?」

 誰かがアビゲイルにささやきかける。
 アビゲイルが振り向くと、そこにアビゲイル自身の姿が見えた。
 鏡があるのではない。アビゲイルがもう一人いるのだ。ただし、そのアビゲイルの肌は異様に白く、魔女の衣を身にまとっていた。

「わ、私がもうひとり?」
「ええそうよ。良い子のアビゲイル。私はあなた。私は魔女のアビゲイル」

 魔女の姿をしたアビゲイルは冒涜的なニンジャスマイルを浮かべながら、善なるアビゲイルの頬に手を当てる。
 ゾッとするほどの冷たさに、善なるアビゲイルは思わず身を引こうとするが、魔女のアビゲイルが絡みつくように抱きついてきた。

「やめて! 離して!」

 善なるアビゲイルは抵抗しようとするが、なぜか力が入らない。

「私はあなたに宿った外なる神の力そのもの。私ならあなたよりもフォーリナーとしてずっと上手に戦えるわ。あのドミナントというニンジャにだって簡単に勝てる」

 パンケーキにかけるシロップめいて甘くドロリとした言葉が鼓膜をくすぐり、善なるアビゲイルの心を穢そうとしてくる。

「あなたの体、私に頂戴。そうしたら、あなたが守りたいと思っている人を守ってあげるわ」
「本当に?」
「ええ、そうよ」

 彼女に何もかもを明け渡せば、ドミナントを倒し立香を守れる。体と心を全て手放せば……

「ならぬ!」

 暗闇に強い光が指す。

「グワーッ!」

 魔女のアビゲイルが苦しみだした。
 善なるアビゲイルが光の方向を見ると、龍の刺繍をあしらったニンジャ装束をまとう老人が立っていた。

「アビゲイルよ。良き心を捨ててはならぬ」

 老人はニンジャであるにもかかわらず邪悪さはなかった。むしろ厳しさの中に慈しみを宿していた。

「強い力は人の中から悪しき心を呼び出す。しかし恐れることなかれ。悪しき心は人そのものであるが、良き心もまた人そのもの」

「邪魔をするな!」

 魔女のアビゲイルが老ニンジャに襲いかかろうとする。

「イヤーッ!」

 老ニンジャがカラテシャウトととも手のひらから光の奔流を生み出す。

「グワーッ! おのれーっ!」

 光に飲まれた魔女のアビゲイルは霧のように消えていった。

「あ、あなたは一体?」
「外なる神に呑まれるなかれ。手綱を握るのはおまえ自身。私からのインストラクションだ、アビゲイルよ」

 老ニンジャが光の中へと消えていく。
 彼がいた場所には大きな鍵が残されていた。銀色の鍵。アビゲイルが持つフォーリナーの力の象徴。
 アビゲイルは鍵を握る。

「ああ、力が!」

 全能感が噴水のように湧き出すが、アビゲイルは胸に手を当ててそれを鎮める。

「ありがとうございます。あなたの教え、決して忘れません」

 アビゲイルの意識は現実へと戻っていく。
 現実ではドミナントがエメイシを振り上げて、アビゲイルの心臓を突き刺そうとするところであった。

「イヤーッ!」
「イヤーッ!」

 アビゲイルは銀の鍵でエメイシを受け止める。精神世界だけでなく物理世界でも彼女は鍵を手にしていたのだ。

「なに!?」

 ドミナントは驚きで目を見開いた。
 アビゲイルは起き上がると同時にサマーソルトキックを繰り出す。

「イヤーッ!」
「グワーッ!」

 アビゲイルのつま先がドミナントのみぞおちを捉え、その体を上の階にまで蹴り上げた!

「イヤーッ!」

 跳躍し、ドミナントを追うアビゲイル! その姿はいつのまにか白い肌の魔女となっていたが、あの魔女のアビゲイルのようなニンジャめいた感情はない。あるのは確固たる良心の光を秘めた瞳!

「イヤーッ!」
「イヤーッ!」

 上階へ戻った瞬間にドミナントの油断無きカラテが襲いかかるも、アビゲイルは銀の鍵を剣のようにふるって凌ぐ!

「イヤーッ!」「イヤーッ!」
「イヤーッ!」「イヤーッ!」
「イヤーッ!」「イヤーッ!」

 熾烈なるカラテ攻防を続けながら、アビゲイルは老ニンジャのインストラクションを心の中で反芻する。

(外なる神に飲まれるなかれ。手綱を握るのは常に自分自身)

 そう、手綱を握るのだ。
 これは外なる神が宿っている自分だけではない。すべての人にとっても同じこと。
 アビゲイルは故郷で起きた魔女裁判を思い返す。村人たちは血に飢えた獣のように、ただ目についたから、ただ気に食わなかったからという理由だけで、罪もない人を悪党に仕立て上げて殺していった。

 なぜ彼らはあのようなことをしたのか? 心を悪魔に支配されたから? それはある意味では正しいだろう。しかし、悪魔は外からやってくるのではない。悪魔は人の心の内側からやってくるのだ。

 人は自らに宿った悪しき力に溺れ、悪徳に手を染めてしまう。しかし、悪しき力さえなければ人は常に善良とは限らない。それはセイレムが証明している。善良である人々が悪徳を重ね、なおかつそれが悪徳だと気づかない。悪徳を行うために道徳を利用することすらある。
 力は悪徳を呼び寄せる無数の切っ掛けの一つに過ぎない。悪しき心は常に人の内にある。

 もしかすると、悪魔とは人そのものであり。人は悪事をなすために生まれてきたのかもしれない。
 しかし、父なる神は人を見捨てずに愛してくださった。人がただ悪事をなすための生き物にならぬよう、心の手綱である良心を授けてくださったとアビゲイルは思う。
 きっとあの老ニンジャは、悪しき心に負けそうになったアビゲイルに良き心の大切さを教えるため、父なる神が遣わした天使なのだろう。

「イヤーッ!」
「グワーッ!」

 ついにアビゲイルのカラテがドミナントを上回った! 銀の鍵の強打をうけたドミナントは壁に叩きつけられる。

「父なる神よ、あなたの御心に感謝いたします」

 感謝の祈りとともにアビゲイルは自らの宝具を発動させる。

「イグナ、イグナ、トゥフルトゥクンガ、主よ、そしてニンジャの天使様、どうかお見守りください。我が手に銀の鍵。我、良き心をもって手綱を握りし者とならん。薔薇の眠りを越え、いざ窮極の門へと至らん! 光殻湛えし虚樹<クリフォー・ライゾォム>!」

 空間に裂け目が開き、ドミナントが深淵へと吸い込まれる。深淵の奥底にはアビゲイルに宿っている外なる神が待ち構えており、無数のタコめいた触手がドミナントを絡め取る。

「アイエエエエエエ!」

 ドミナントは悲鳴を上げた。ニンジャといえど、外なる神の力に直接さらされれば正気を失う。

「サヨナラ!」

 狂気に陥ったドミナントは自我崩壊して爆発四散する。
 アビゲイルは深淵につながる空間の裂け目に銀の鍵を差し込み、そしてひねると裂け目は閉じられた。

『愚かな子ねアビゲイル』

 まるで奈落の底から聞こえてくるような嗤い声は魔女のアビゲイルだ。

『あの老ニンジャ天使の力を借りて上手くいった気になっているようだけど、それは大きな過ちよ。どうあがこうと私はあなたの一部なのだから、いつか必ず私はあなたになる』

「いいえ、私はあなたに乗っ取られたりしない」

『どうして? もしかして、私をあなたから切り離す方法があるとでも思っているの? 無理よ。だって私は……』

 魔女のアビゲイルの言葉を遮るようにしてアビゲイルは言った。

「そう、あなたは私自身。私の悪い心そのもの」

『……』

 魔女のアビゲイルは黙ってアビゲイルの言葉に耳を傾ける。

「外なる神の力に飲み込まれた私は、故郷の人々を罪から救済するために、苦痛という報いを与えることで救おうとした。でも、もしかしたら違うのかもしれない。救済はただの言い訳で、自業自得だ、いい気味だと、正義という凶器をつかって人を傷つける愉悦に浸りたかったのかもしれない」

『へえ』

 魔女のアビゲイルからかすかな歓喜の情念が伝わってくる。
 しかしアビゲイルは魔女の自分を喜ばすつもりはない。

「私は認めるわ。自分自身に悪い心があるということを。その悪い心は紛れもなく私の一部であることを」

 しかし。

「だからこそ、私はあなたに乗っ取られない。悪い心は常にあると認めるからこそ、私はあなたから目を背けずに良心という手綱を握り続ける」

 悪しき心を直視すると同時に、しかし決して悪しき心には体を明け渡さない。それが老ニンジャ天使から得たアビゲイルの答えであった。

『そう。せいぜいがんばりなさい』

 クスクスと侮蔑的な笑い声を残して、魔女のアビゲイルの気配は消えていった。
 何れにせよ、すべての人は悪しき心を抱えており、それと共に生きていかねばならぬのだ。そのために必要なものは父なる主から授かっている。
 アビゲイルは立香と合流するために駆け出した。


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