Tinderで結婚した元東大生が半生を振り返る Pt.1 (生後〜幼稚園)

記憶を遡ってふと思い出した幼少期の記憶は,歩道橋の上で母に顔を叩かれ「付き合う友達は選びなさい」と怒られたことである.

私は東京大学を卒業し,妻と結婚して現在とある会社で研究職をしている.
不真面目な学生であったがその肩書のおかげか自分のやりたいことを仕事にさせてもらっている.側から見たら順風満帆な人生であるだろう.
激動の人生で無いことは自覚しているが,ふと自身の人生を振り返りたくなった.

西澤裕二(仮名).平成n年m月誕生.
当時母親は36歳,父はその10前後上なのでおそらく45歳.
11だか9だか離れた兄がおり,三男末っ子として人生を過ごす.
性欲が全く無いように見えた両親が,高齢で私を産んだことに対しては意識する度に新鮮な感動を覚える.

私の家はおそらく裕福に分類される.
東京の大根が生茂る片田舎で生まれ,父はどこそこのお偉いさんだったと聞く.
兄弟3人とも私立高校.客観的には恵まれた家なのだろう.

幼稚園以前の記憶はないので省かせていただく.
よく笑う人誑しであったと聞くが母親の願望であり事実と異なるかもしれない.
幼稚園時代についてはちらほらと覚えている記憶がある.
近所のお兄さんに騙されて爆竹を飲まされた話,母に自転車で轢かれた話などあるが長く,面白くもないので割愛する.

幼稚園時代について.
当時の私はお調子者である一方,正義感が強くルールを遵守する子であった.
○○レンジャーごっこにおいて,主役である赤レンジャーの役が回ってこない日が続くと不平等性を主張した.
「鈴木くん(仮名)は『今度やらせてあげる』と言っていたけれど,今日もまた鈴木くんが赤レンジャーではないか,僕にとって『今度』はいつくるんだ」
などと泣き喚いた記憶がある.

幼稚園に入園すると教育に熱心な家庭であり様々な習い事をさせてもらった.
中でも,最も母が力を入れていた習い事が幼児教育である.
私の母親は教育熱心で,兄二人を育てるにおいて培った経験値を所有していた.
母はそれらを遺憾無く私につぎ込んだので,当時の私にわからない物はなかった.
何をやっても褒めてくれる先生がおり,周りの友達も私を称賛する.
これほど承認欲求が満たされる場はなかったであろう.

塾において席が固定されていたのか必然的に隣の子と仲良くなった.
この子を仮に佐藤くんと呼ぶ.
佐藤くんはどんな授業でもふざけている子で,よく笑う男の子であった.
いつでも楽しそうな様子に子供ながら惹かれたことを覚えている.
佐藤くんは成績が悪く,母は佐藤くんと遊んでいる私をよく思っていなかった.
私が佐藤くんと授業中に楽しく遊んでいると,「あまり授業中にふざけちゃダメよ」と注意することが増えた.

幼児教育といえども塾なので評価基軸の一つとしてテストが存在する.
子供は無邪気なのでいつも通りワイワイと賑やかにテストを受験するのだが,
親にとっては勝負の場であったのだろう,テスト前の母は決まって苛立っていた.
ある日のテストのことである.私はいつも通り問題を解き終わり暇をしていた.
このような時に便利なのが佐藤くんなのだ.彼はいつでも構ってくれる.
暇な私は佐藤くんにこそこそと話しかけた.彼は嬉しそうにこそこそと反応した.
子供のやることだ,こそこそ話の音量は次第に大きくなる.
終いには先生に注意され,優しく二人は叱られることになる.

幼児教育のテストの評価項目の一つには「テスト中の態度」というものがある.
テスト中に騒いでいた私と佐藤くんは当然減点され,私はその時初めて芳しくない成績を取ることとなった.
当時の私は成績などまるで興味がなく,今日も佐藤くんと楽しく遊べたことに満足し,今度また遊ぶ約束をして塾から帰った.母は険しい顔をしていた.
塾から少し外れた歩道橋で急に母は私の頬を叩いた.
「あんた,なんで騒いでるのよ.付き合う友達は選びなさいよ」
6歳児にとって40代の母の平手は強く,なぜ叩かれたのかもわからず泣いていた.おそらくその後も罵声を浴びせられたのだと思うが記憶にはない.

以降「佐藤くんと遊ぶと怒られる」という恐怖から佐藤くんと話さなくなった.
いつも通り無邪気に話しかけてくる佐藤くんと,母の平手を恐れ無視する私.
佐藤くんの冗談は教室の中で行き場を無くし,虚しく響いた.
佐藤くんと私との間に「今度」は無かったのである.
母の教育のおかげで私は無事母の第一志望の学校へと入学することになる.
今となっては佐藤くんの名前も顔も声も何一つ思い出すことはできない.

Tinderで結婚した元東大生が半生を振り返る Pt.2
https://note.com/waveformant/n/n7a50ac79e7f8




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