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泉毅一郎「綱切神楽を見る」

泉毅一郎『延岡雑談』延岡新聞社、昭和6年(1931)

綱切は龍切である、素戔嗚尊が八岐大蛇を切られし故事に依るもので龍は藁で作る。耳枇杷のひげは蘇鉄の葉などを用ひ、胴体の切る所は長さ約一メートル毎に、切るに適当に作つてある。
その綱の直径は、八サンチ(ママ)位で二疋作る、それで神主が、五十人集まるとすると、半分の二十五人で一疋を切るから、一疋の長さは頭と尾と余分を加へるから二十八メートル以上に作、長いのは別に差支へはない。神楽堂は南面又は東面にしてその左右に龍を置き、前日より神楽を始めて夜を通し夜の漸く明ける頃より一疋の龍を神楽堂の前面に横に渡し神主が一人一人、次ぎ次ぎに切る、次に又一疋を持ち出して切るのです、斯くしてその費用が多く掛かるので、神社では百年に一度あるかなしとの話です。しかしその地方に神社が四五ヶ所はある、次ぎ次ぎ(記号)に廻り番にあるとすると、その地方では二三十年目に一度あることになる、それで一生の内に一度や二度は綱切神楽を見ることが出来る。
明治十三年頃であつた、秋の刈入れが終つて恒富本村で綱切神楽をする事になつた、しかし前に云ふた通り春日神社てば綱切は出来ないので愛宕神社でする事となつた、その神殿の前の泉水の北に田地がある、刈入れも終つて、空地になつてゐる、そこに東向に仮神楽堂が出来た、前日から神楽が始まり神主は四五十人集つて代り代り(記号)に神楽がある、かゞり火の光りに、夜の神楽の神々しく荘厳になることは、子供であつた吾々にも深く感じたのです、その日の午前二時に参拝したが、もう人が一ぱいで近寄とも出来ぬ、併し私は十一歳位の少年時代であつたのでそうして二時間後の午前四時頃には前列に進んで居つた。それで充分にみる事が出来た。夜明け前に神楽堂の前に一疋の龍は横に運ばれて、三十サンチ(ママ)高さの藁づとの上に置き、両側に一人づゝ神官が坐して其龍を押へてゐると、切る順番の神官は太刀を高くふり上げて、正面より龍の外方に跨り掛声と共に龍を切る、美事に切るれば見物人はヤンヤとはやす、切り損じなばワアと笑ふ次に一メートル位ひ龍の胴体をづらして次番が前の通りにして切る、そうして一時間位もかゝつて、集りし全部の神官が二疋の龍を切り終り、それで神楽は終りとなりました。

泉毅一郎『延岡雑談』延岡新聞社、昭和6年(1931)

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