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『七折村郷土誌』1

一、郷土教育が、教育の本質、並に人間教育の眞髓より出でた、近代的要求である點から、郷土資料蒐集の必要 なることは言を俟たない處である

二、本誌は、高等科の郷土學習資材、及び國民学校・青年團員・その他一般志あるものの、郷土参考資料とし、 又本村将来改善發達の一助とする目的を以ている。

三、本村の沿革に就いては、その獨立の節を設くるまでに、完全な調査を遂げ得なかったので、「第五章第二節 七折村史」としてその意を兼ねて編入した。是は将来、ウンと研究して是非とも完成を期したい覺悟である。

四、本誌内容の編輯の方針は、及ぶ限り過去現在に亘って、詳細を極め、尚讀者の今後に於ける調査研究と併せ て、更に續編を編輯することによって、その完璧を期するつもりである。

五、本誌の編輯に當って、村當局(村長)福田今生氏を始め各吏員諸氏特に工藤一二氏、植野弘氏等の諸氏の援 助と、村内教育関係者の資料提供に対して、心から感謝の意を表する。


第五章 七折村の神話伝説・史蹟・名勝・天然記念物

第一節 神話伝説

 吾が村に口碑神話として、古くから語り継がれたことは、ただ御毛入沼命に関してのもののみで、その他には、余り有しないのであるが、これによって高千穂としての、命の御功績が如何に大であったかが、想像される。
 又、遺蹟・遺物として、現に太古のものが、多く発見せらるる以上、きっと神代文化が、吾が村にも洽ねく、高千穂を中心とした、神々の御在居も到る処にあったことは否まれない。

一、御毛入沼命・鬼八征伐にちなめる伝説

 鬼八は又の名を走建と言って、上古この地方に於ける夷族の首魁であった。非常に健脚で、巧みに山川を疾走、登 するを以て、「走建」の名がある。
「蘭郷」(あららぎのさと)によって、地方の良民を苦しめ、田園を廃していた。
 曩に、御毛入沼命は、御弟神武天皇と御一緒に、大和地方の御平定にお出でになったのであるが、海上風波のため、遂にお離れになって、再び故郷に、御還啓遊ばされた。時に高千穂の鬼八は、非常に神の古都を荒らしていたので、あらゆる御困難を冐して遂にこれを誅戮遊ばされた。その御還啓の際の御道筋を七折村内に、おとり遊ばされ、今だに各地に、命にちなめる伝説を存している。

1.綱の瀬
御道順を今の綱の瀬までお出でになると、河水氾濫して、御渡渉遊ばされることが出来なかった。そこで、里人にその川の浅瀬を聞き、綱を張り渡し之にとりつきてやうやく御渡川遊ばされたといふ。これによって、この川を綱の瀬川といひ、この土地を綱の瀬と呼ぶやうになった。

2.御泊
新町校区の阿下にある。三毛入沼命、此の地御通過の節、此所に御泊りになられたもので、同地に座敷のもとと云う岩があり、これに旅衣をかけさせ給ふたと言ひ伝ふ。

3.俵石
新町校区舟の尾にある。命、御通過の際、食糧を蔵した俵を積み重ね給ひし所なりと言ひ伝ふ。

4.日の影
命がこの地までお出でになると、神通力を有する鬼八は、俄かに大雨を降らせ川水を増させて、御進路を絶とうとした。命は非常にお怒りになって、「未だ雨は止まないか。」と空を仰いで天つ神にお祈りになると、不思議にも今まで車軸を流すように降っていた雨も、はたと止んで日の影がさし始めた。川水も見る見る減って、やすやすと川をお渡り遊ばされた。その時呼びなされた名を今だにのこして、この地を日の影と  いふ。

5.雨社(アマヤシロ) 
宮水校区森下にある。命御通過の折、俄雨に遭はれて、折から路傍の樟の大本の洞にて御休憩になった。雨が止んで、御出発の際記念にと自然石二個を、安置された。里人はこの神石を御神体として、命を奉祀し、崇敬しつつあったが、凡そ七十年前、この洞に乞食宿泊して、焚火をなしたが、その火の後始末悪きより火災を起こし、神代よりの樟、をしくも焼失したと云ふ。二三十年前までは、其の樟の古株が残って、およそ十畳敷程もあったそうだか、その周囲を荒らすときは、たたりがありとて立ち寄らなかった。明治初年になって、宮水神社に合祀して、前記、御神体の自然石が存しているといふ。

6.袴谷
宮水校区内袴谷にある。命は宮水にて大雨に遭はれ、袴の裾に泥が付着していたのを里人の汲みつつあった水にて、御濯ぎ遊ばされた。それによって、この地を袴谷と云ひ始めたといふ。この地に樟を植えて、大山祗神を奉祀してあったが、安政二年十一月五日に宮水神社に合祀した。

7.腰掛石
宮水校区波瀬神社境内にある。命御通過の折、此所にて御休息遊ばされた腰掛の石と云ふ。御腰の掛かりたる部分と思しきところ少しく凹みて、降雨の節は、凡そ二合程の雨水溜まる。里人この石に粗末あれば腹痛急におこるとて近寄らず、七五三縄を張って崇敬している。

8.一の水
宮水校区一の水にある。命は此所に来られし折、喝を覚えられ、路傍の清水を掬し、召し上がり給うてその余りにも美味なるに、感ぜられ「一水じゃ。」と言はれたとて、この地を一の水と、云ひ初めたと云ふ。

二、口碑伝説

1.日之影
上古天照大神が、天の磐戸に御隠れになった時、諸神その御跡を慕いつつ当所までこられたけれども、日暮れとなったので、止むなくこの地に、御宿営になり大神の御所早く発見するようにと、御祈願があった。里人にこの所に祠を立て、猿田彦大神を奉祀し、舟霊大明神ともいふ。宮水代官所時代は、内藤家より代官に命じ、例祭は参拝せしめられた。

2.影待
宮水校区内にある。神武天皇、御東征、御発足の砌、御同勢を待ち合はせられた所といふ。

三、逆巻の神鏡と龍の駒の足跡
日の影、影待間にある逆巻淵は、昔は深淵があって、五ヶ瀬の水流奔騰の余勢上流に向かって、逆に渦を巻いて流るる様、実に壮厳の極みであった。そのあたりに二十畳敷程の大石があって、石上所々に馬蹄形の凹みがある。里人これを龍の駒の足跡といひ、石上に龍神を祀る。県道更生前までは、森林中にあって、近寄ることが出来なかったために、里近き絶壁上に遥拝所を立て、御霊代として神鏡を祭っていた。然るにこの鏡数人一度に参詣して数えるに、或ものは七枚といひ、或者は十二枚といひ、一致せないので参詣者奇異と称せない ものはないといふ。

四、龍宮渕
宮水校区内徳富にある。凡そ七米程の高所より落下飛沫を上げている。里人は呼んで「トドロ渕」とも云っている。現存者甲斐重太郎なる者の祖先が膳碗等の器具を所要数だけをいひ、借用を願って翌朝参詣すれば必ず借与えられたといふ。然るに或時不足しているのを心付かず返した所、それ以来貸与されないようになったと云ふ。

五、石神
宮水区内竹ノ原にある。村社竹ノ原神社の祭神で三米程の巖二個両立し、二三十年前までは、大人が神楽を舞いつつ、両石の間を自由に通り得ていたけれど、近年は子供すらも両石の間を通ることが出来ないほど双方より太り合いつつあるといふ。里人はこれを奇跡としている。

六、血色のきび
平清水にある。平清水付近にてきびをを作れば、血の色を呈すといふ。里人多くこれを作らず。昔、三田井家の一族が延岡城主高橋元種に攻められ同所の畑に於いて黍に躓いて、遂に無念の最期を遂げたといふ。それより此の付近にて黍を作れば血色を呈すといふ。

七、逆巻大明神の由来
宮水校区先の原にある。宮水小学校西方約二粁の所にある、現在は宮水小学校林のある所で縣道の道上、その下は逆巻渕である。昔はここに異郷の者が来ると家鳴振動して暫時も居ることが出来なかったと里人は云い伝えている。この大明神の由来について左の如き伝説がある。
尾村に某といふものがあった。此所で籔切をはじめ、大木の洞内に大蛇住居し、今や産にかかっていたのを知らず、一心に大木の枝を切下ろしていた。その時、大蛇はその人を木より振り落とそうとしたけれどもその人の歌う唄声にききほれて、振り落とすことが出来なかった。その夜、大蛇は枕神に立っていふには、「今一 週間またれよ。その中に立ちのくから。若し我が願をかなえてくれたら汝の家に永久の幸福を授けよう。」と、その男はこれを信ぜずして、遂にその翌日火をその籔中に入れた。雄蛇は三田井の神橋に産の薬を求めに行って宮水舟が原に来たり、逆巻の焼けるを見つけ大いにおどろき帰り来たり狂い廻った。
雌蛇は子蛇の愛に引かされ其所を逃げ得ず、遂に焼死した。その夜、其の家は巻倒され、その家には代々不幸が続き男児は出産せなかったといふ。余りにも大蛇の崇りがはげしいので、小祠を立て、逆巻大明神と称して祀った。現に宮水神社の祭典には仝所より代参することになっている。
  
八、鍛冶屋の傑作
寛永十五年三月天草の陣に大勝利を得て、凱陣あたりたる有馬左衛門直純公は一昼夜波瀬に御滞在の上名字 大明神へ御願成就のため一夜建立の御宮を寄進さるることとなり、大活動のもとにお宮が建立さるることとなった。所がお宮が出来てから大工が釘を打ち込もうとすると不思議に釘はボンボンと向こうへ打ち抜けるだけで、どうしても打ち込むことが出来ないので、止むを得ず打ち込むことを止めて指で押し込んでようやく止まった。そこでこのことを鍛冶屋へ話すと「それは神様の御用なので、一心こめて鍛えたから自分で予期しない傑作が出来たのであろう。鍛冶一台に一度は傑作が出来るものだと師匠からきいている。」と答えたとの事である。大正九年三月二十二日に、その内宮が焼失したのでその伝説のために、氏子一同その釘を探し求めたが遂にわからなかった。鍛冶屋は現今宮水工藤今朝一氏の先祖であって、同家では旧暦十二月六日を「繭祭」といって、毎年祭典を行っている。仝家及びその近傍を「カヂャ」といふ地名として呼んでいる。

九、嘉治平の早業
工藤嘉治平が内藤家七万石の城下を歩いていると、剣道の指南所があるので、武者窓より覗いていると門弟 共が知って、無理矢理道場内に引っ張り込まれ、試合をさせられたので相手となったが、手に立つ者は一人もなかった。道場の主は、「拙者が御相手。」と眞槍の仕度にかかろうとするので、事面倒と思いヒラリと身を飜して堀をこえると、此の時遅く彼の時早く掛声と共に主人が突出した槍のケラ首切り取って、事もなかったように悠々と後をも見ずに立ち去った。その槍の穂先は、嘉治平の末孫工藤茂太郎氏宅に今尚伝えている。
嘉治平は一流の奥義をきわめた達人であった。彼が所持せる樫の棒を拇指で地中に押し込み、腰掛の程度としてこれにあぐらをかいて見せる位の事は容易な事であったといふ。

一〇、甲斐重吉の弓
新刀流小野善右衛門先生の高弟に甲斐重吉と言ふ人がいて弓術をよくした(長谷川甲斐周市氏の先祖なり)波瀬神社の奉納的に出たときのことである。射た矢を抜きに行った坂本弥平といふ男が、標的の辺りに愚図 愚図しているのに業を煮やし、重吉は「何を愚図愚図しているか早く退かぬと射るぞ。」と戯談半分に云った。所が向かう男も之に報いて「射得るなら見事射て見よ。」と四つ這いになった。「ヨーシそこ動くな」と弓に矢をつがえて満月の如く引きしぼった。並居る人々はハラハラした。何たる事ぞ。大胆不敵なる向かう男は 相変わらず、四つ這いになっている。矢は風を切って、弓をはなれた。尻をはぐった男の睾丸をすれすれに矢は飛んでいって立った。又、矢をつがえ、今度は右の足元、今度は左の足元と前置しながら続様に矢はとんだ。
見物はたまりかねてもう止めてくれと止めた。ワッと時の声があがった。「よくも射たものだ、射させたものだ」としばしどよめきが止まなかったといふ。

一一、からもり窟-戸川岳東麓にある鍾乳洞
古来より戸川部落飲料水の水源地である。奇石怪岩よりなって、清水流出し神秘を添えている。太古瀬織津姫、住み給いし地と伝ふ。洞窟の深さ不明、昔旧暦元旦には白色の水流れ出でて、その水を飲むときは如何なる病気・災難も免ると云ひ伝えていた。然るに或とき葬式に使用した種々の器物を洗いたる為、翌年よりは白水湧出せないようになったといふ。


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