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青島の愛宕神社について

30年前に調査した宮崎市の折生迫、青島の愛宕神社、及び長友清市について記しておく。

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この男性は祈祷師であるが、シャマン的要素を多分に持ち合わせ、宮崎市を中心に厚い信望を得ていた。まず、『郷土誌青島』から長友清市の紹介をする。

長友清市  明治二年三月十日生。先祖の神楽の開祖の清蔵の名で呼ばれた。昭和十八年正式に祈祷師の免許を得た。昭和三十六年死亡九十六歳。

愛宕八幡神社 所在地 折生迫生田山
代々長友家の氏神で、旧暦十一月十六日には氏神祭りを行なう。
祭神は人皇第十五代応神天皇である。現社は約二百年前の建造物と伝えられている。昭和六年ごろ、長友清市が祈祷師として、立てこもってから、県内一円はもちろん、遠く大阪付近まで宣伝されて参拝客が絶えなかった。

ただし、『郷土誌 青島』には、愛宕神社の記載もあり、愛宕山と生田山の二か所が紹介されている。

愛宕神社 所在地 折生迫愛宕山 頂上
古老の伝えるところによると、旧幕時代の元治のころ、折生迫の市街に大火があってから、火の神「賀久奴知之命(かぐぬちのみこと)」を祀ったと言われている。自来(ママ)折生迫では再び家事を起こさぬよう「火祈祷」をするようになったということである。
賀久奴知之命=イザナギ、イザナミの両神をお生みになった火の神と伝えられる。
元治年間=1864~1865

この場所の違いは、現在、折生迫デジタルテレビ中継局がある場所が生田山とあることからその西の山奥が愛宕神社ということになる。元々、愛宕山山頂に愛宕神社があり、その裾野の生田山に長友清市が愛宕八幡神社を建立したと考えられる。

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令和3年現在、愛宕神社は管理する者が居らず、廃墟となっているようである。現地の写真がgoogleマップに掲載されているが、リンクがうまく貼れないので画像を掲載しておく。

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当時は確認していなかったが、石碑が建っているようである。この碑文からすると当時話を聞けなかったが、冒頭に引用した「昭和十八年正式に祈祷師の免許を得た」とは、神理教の教師であったことが分かる。

2022年1月14日、佐伯健治さんの情報によると、石碑は倒れていたとのこと、その状況をご報告いただいた。

愛宕神社正面
愛宕神社南面
長友清一の碑
碑の建立者
碑の説明文

碑文は以下の通り

昭和二年より昭和三十八年四月十九日迄今の地に於て神道により人々のため尽し九十五才にて没す
生前の人徳を忍び碑を建てこれに記す

平成2年(1990)に調査した、長友清市の孫で、愛宕神社二代目神主である長友茂清氏による話を以下に記しておく。

清市は農業に従事していたが、孫娘が小学一年の頃、脳膜炎にかかり、県病院に入院したが、一年経っても治らず、医者も見放した。そこで神様に頼んで、なんとか治したいとの一心で、農家をやめ、折生迫の奥にある岩山という山で、滝に打たれたり、現在の愛宕神社のある山に篭もって修行を始めた。岩山にはその当時多くの行者が修行に来ていたそうで、それを知って修行を始めたのではないかと孫さんはさんはいう。特に師匠につくといったことはなかったようである。山に篭もる際は、五穀を断ち、肉魚も食べず、塩と梅干しだけを持って、木の実などのみを食べ、好きな煙草も止め、御託宣を受けられなければ死んでもよいという覚悟で行なったという。そして二十一日目に神懸りになった。
そうしているうちに山で蔓(かずら)が出てきた。神の啓示でその蔓を刻んで煎じ飲ませたらよいということで、孫娘に飲ませると日に日に病状は良くなり、二十日もすると重湯が飲めるようになって、二三ヵ月すると頭もはっきりし始めて寝起きできるようになり、一年で完治した。
 それから自宅に戻って暮らしていたが、いろいろなことが当たるという評判が広がり、方々から多くの依頼が来るようになったため、家業の農業に支障が出てくるので、現在の愛宕山に家を設け、そこで巫業を始めた。それまでそこは長友家の氏神であったが、それから愛宕神社と名付けたともいう。県内はもとより九州四国からも拝みにくる人が多かったという。
 巫術としては、まず平静でも人が何を考えているかという読心術のようなものができ、一度清市の実力を試してやろうという二人組がやってきたのを「おまえたちは試しに来ているだろう」と指摘し追い払ったという。依頼者の要望にはほとんど答えていたそうである。
 ある時、祖父を一人青島に残して他へ引っ越した家族が心配になって戻ってくると祖父がいないので、清市さんを訪ねると、「あぁしもたね、五分遅れたが、五分前に死んだが。」といって、その祖父が自殺したという山に登ってみると、まだ温かいその人の死体が猟銃を口にくわえて死んでいたという。
 また事業で失敗し借金を抱え、家を売った方がいいかを訪ねてきた人がいた。それに対しては、昔の井戸の土を持ってきなさいといわれ、持っていくと、仏様の向きが悪いが、それを直せば、そのうちに大きな金が入るので家は売るなといわれた。お金は無かったが、気紛れで買っておいた宝くじが忘れた頃に当たって、それで借金を返したという。
 他の巫術としては憑きもの落としも行なっていた。清市が「不動のからすばり」という祝詞を唱えると、依頼者が恐い恐いといい始め、そして次に清市が狂いだし、お宮を飛びだし、お宮の下の方まで駆け降りて倒れこんだ。するとすぐに起き上がり、やってきて、「おまえには憑きものがついちょった。」といった。普段は愛宕様の祝詞と高天原の祝詞の二つしか使わなかったという。憑きものの落とし方は幾つかあったそうであるが、まず依頼者の背中に向かって、祝詞を唱え、九字を切り、不動の逆字を書き肩をぽんとたたくと憑きものが退散したという。

付記)川越幸男さんが祖父から聞いた話によると、現在は水が涸れているが、明治時代は水が豊富な滝があったそうである。滝の近くの湯ノ山という場所に、断食道場があったという。冷泉が湧き出し、その水だけで断食をしていたという。現在は、建物は残っていないそうであるが、どうも長友清市さんが神がかりした場所、修行と関係がありそうである。

付記)この冷泉について『日向地誌』「折生迫村」に「冷泉」の項が立てられ、次のように説明されている

冷泉 本村市街ヨリ西ニ離ル七八町字轟ト云所ニアリ泉質硫黄瘡疾痍ニ宜シ初メ土人其緑白色アルヲ見テ其常泉ニ非ルヲ知リ燂シテ浴シケルニ能ク疥癬ノ類ヲ治ス故ニ近郡ノ人往テ浴スル者多カリケレハ天保ノ末藩治ノ時官費ヲ以テ浴室ヲ設ケ戸主ヲ置キ浴客ヲ待ツ浴客ヲ待ツ浴客モ一時甚多ク一歳大凡四百人ニ下ラスト雖モ今ハ大ニ減シタリト云

調査当時の写真が出て来たので、下記にアップする。


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