楢木範行年譜21 『はやひと』第2巻第1号 昭和13年4月20日
目次
野間吉夫「カンダラ その他」
野村伝四「白土のことども」
〔動物雑譚〕
「犬を喰ふ 犬肉を喰べると冬中身体がヌクモリ(あったまり)精力がつくといつてゐる。又心臓病などに特効があるとも云ひ伝へてゐる。犬肉の味は、その毛色によつて上下があり、これについて「一白二赤三黒食はんよつかブチ(班)」といふ言葉がある。即ち白犬を最上とし、次に赤犬黒犬の順となり、班犬は最も不味いものらしく、まあ食べないより食べた方がよいと云つた程度のものらしい。又犬を食用とする時期は晩秋から早春までの間を選ぶ。これはハシカ犬(恐水病に罹つた犬)を誤つて食ふことを防ぐためだといふ。」
基道広「「人持ち」のはなし」
野田千尋「夜具を縫ひ上げの祝儀」
川崎初江「贈答と民俗」
〔故楢木さんの頁〕
楢木範行氏訃
本会々員鹿児島県立商船学校教諭楢木範行氏が、郷里に帰省中病にて、四月一日午後零時二十分逝去された。氏は明治三十七年宮崎県西諸県郡真幸村に生れ、加治木中学を経て、大正十五年國學院大學高等師範部卒業、長野県立上伊那農学校教諭を振り出しに、昭和三年八月本県立商船学校教諭に来任し、今日に及んだもので、其の間同校国語科主任として兼ねて公民科を担当し、職員生徒間の信望厚きものがあり、更に教授の傍ら民俗学の研究と資料蒐集に専念し、本会の創立委員の一人として、斯界の為に尽した貢献亦甚大なるものがあつた。尚昨年は中等教員研究会に於いて「鹿児島に於ける交易の研究」を発表し、更に最近「日向馬関田の伝承」を本会より上梓したことは周知のところで、有能の少壮学徒として嘱望されてゐたゞけに、今回の急逝は各方面より惜しまれて居る。氏には道子夫人との間に、本年二月出生の長男茂行君があり、尚ほ葬儀は二日午後郷里真幸に於いて執行されたが、盛葬であつた。
〔追悼之辞〕
私共の敬愛する楢木さんが三十有五才の若さをもつてぽつくり永久の眠りに就かれた 御遺族の悲しみはもとよりであるが 私共の悲しみも決してそれに劣らぬものがある 鹿児島県民俗研究会にとつて あなたの長逝は殆んど致命傷的な恨事でなければならぬ 暗夜に灯を失ふたやうに真つ暗な気持である
顧れば昭和十一年秋この会を創めて、僅かに一年有半の浅い月日ではあつたが 私共は今あなたの学問上の検討或ひは茶談の中に於ける風貌を偲び 尽きせぬ思ひ出に涙の滂沱たるものがある 今かうしてあなたの面影をとらへて話しかけようなことは夢にも思つて居なかつた どうかすると今日もあなたが亡くなつたなどは信ぜられないで 未だあなたがどこかを旅行でもしてゐる位にしか思へない しかしかうして今あなたの御位牌を前にして見れば これを疑ふわけに行かない 誠に残念千万である 此様に急になくなるのであつたら もう少し伺つて置きたかつたことも皆が沢山持つて居つた。あなたのこの研究は県下の誰よりも古く 豊富な資料をもつて 常に暗示と刺激とに富んだ労作を示してくれた全く他人の追随を許さぬものがあつた 鹿児島県の民俗研究に対する眼と心を開いてくれたのは 実にあなたであつた 蓋し今あなたを失つて あなたの空席は何人を以てしても これを埋めることは出来ないであらう しかしあなたが蒔いた種はやがて生長し皆花をつけ 数限りなく実を結ぶ日が来ることであらう それを育てゝ行くのが 私共の第一の務であることを一同深く決心してゐる それを今日あなたの御魂の御前に謹しみ惶みて申し上げたい
私共は縁あつてあなたと交を結び得たことは無上の幸福に相違なかつたが この幸福を更に今後十年二十年を重ね得なかつたことを憾みとする 惜別の感はいくら申しても尽きない 今はたゞ安らけく神静まりまさん事を祈るばかりである 最後にあなたの御魂が今後とも幽界から私共の研究の道しるべとなり 御鞭撻下されんことを尚ふ
昭和十三年四月
鹿児島民俗研究会
楢木範行「覚書(遺稿)」
第十四回例会
二月二十六日夜高野山に開く。川畑、町田、西郷、佐多、坂口、野間、川崎の諸氏参集。会員安藤佳翠氏の「洗骨の話」を拝聴した。
第十五回例会
三月十九日夜兒玉氏の送別会を兼ねて明治製菓樓上に開く。先づ野間氏の惜別の辞があり、これに対して兒玉氏の鄭重なる挨拶あつて、当夜の講演楢木範行氏の「女性と民間伝承」を拝聴する。「由来戦争の裏には、農民と女性を中心としたものが見られ中にもその間にあつて平和を望むものは女性であつた」と冒頭に置き、家庭生活と女性、芸術と女性、経済生活と女性等に亘つて説き、民間伝承の採集上の特に女性の担当すべき部門を述べた。たゞ予定した婦人の聴講者の少なかつたのは残念であつたが、当夜は前記の他、宮武、藤澤、藤澤(御子息)、町田、宇都野、西郷、兒玉(哲)、野田、川崎、川畑の諸氏が参集、近頃の中で盛会であつた。
〔消息〕
兒玉幸多氏 第七高等学校造士館教授より学習院教授となつて栄転された。
宮武省三氏 大阪商船会社支店長であつた氏は、今回大阪本社に帰社を命ぜられ、鹿児島の地を去られた。
〔小規〕
〔編輯後記〕
◇春暖清和の候となつた。この時いくつかの事故がわれわれをさびしがらせた。宮武兒玉両氏の転任、果ては楢木氏の楢木氏の訃報、一時は再び起ち上れないまでにうちのめされたことであつた。この大きな打撃の中で、晴れて第二巻第一号の編輯をしたことも、やがて歴史になることであらう。此際私は全力を挙げて会の今後に当る決心であるがどうか皆さんの御発奮を祈る次第である。
◇前号で発表した通り、今号から所期の躍進を遂げることにし、序に「はやと」を「はやひと」と改題した。これについては創刊号の折口博士の一文に依つたもので、又一つには自他共に発奮を期する記念ともしたいのである。題字は出発前の宮武氏に御無理を申上げて書いて戴いた。たゞそれらの為め今後普通会員を廿銭に引上げねがならなくなつたが、御諒承を得たい。
◇最後に寄稿には、野村氏の「白土のことども」をはじめ、特輯「故楢木さんの頁」その他短信乍ら会員諸氏の貴重な資料を得た。多少でも更生産婆役の労を認めていたゞければ幸ひである。(魚吉生)
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