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日之影町の焼畑

以下に『日之影町史 民俗』の執筆分の草稿をアップする。


一、焼畑の歴史

 焼畑は最も古い農法の一つであるが、山村では近年まで穀物を得る方法として盛んに行われてきた。水田の少なかった山村において、焼畑で得られる雑穀は、主食として欠かせないものであった。長年にわたって続けられてきた焼畑は、その土地の年中行事・民間信仰・民俗芸能などに反映され、山村の独自の文化が形成されてきた。宮崎県では、椎葉村や西米良村において古くからの焼畑文化が引き継がれ、民俗学的に注目されてきている。
 一方、日之影町においては、そうした伝統的な焼畑文化に関する伝承は希薄であるといえよう。近代的な焼畑農耕に関する伝承が中心である。近代に入ってから植林の推進によって、山は切り開かれていくことになるが、その際に焼畑が盛んに行われるようになった。開墾のための焼畑は、それまでの伝統的な焼畑耕作と違い、一過性の土地利用であったため、焼畑に関する信仰や習俗が伴わなかったと考えられる。

★明治期の土地利用
 近世の焼畑の利用を知る資史料は少ないが、『日向地誌』に土地利用のデータがある。ここに出てくる「切替畑」あるいは「藪」が焼畑に関すると考えられる。藪を焼いたものが切換畑と考えれば、七折村の焼畑の面積が最も大きくなる。もちろん総面積自体が広いので、それに比例したものと考えられるが、一方見立地方(山裏村)は比較的焼畑は行われなかったようである。
【表3-1 明治初期の土地利用面積(『日向地誌』)】※縦の列を揃えて下さい。

明治期から大正期にかけて、大規模に植林事業を押し進められ、それに付随した焼畑が多く行われていたが、戦後は焼畑もあまり行われなくなった。表3ー2は、昭和二十八年の農業基本調査資料(『宮崎県古公文書』)をもとに作成したものであるが、昭和二十八年で、一〇〇戸の家が一八町歩のみ焼畑を行っていることが分かる。
 日之影町での焼畑は、戦前から戦後にかけて急激に減少する。それは前述のように、新たな植林に伴う焼畑であったため、その開拓が終了すると共に焼畑も行われなくなったと考えられる。各集落の事例は次のようである。
 昭和十二年頃が最後の焼畑で、戦後はしたことがない(興地)。戦後二十二年頃までは焼いた経験がある(仲組)。終戦後まで作った(大平)。昭和三十五年頃までは焼畑をやっていた(波瀬)。平成三年頃に小豆を少し五畝くらい焼いていた(下小原)。平成六年ごろまでダイコンヤボを作った(煤市)。
 このように焼畑の衰退の時期も地域によってかなりの差があったようである。

【表3-2 戦後の土地利用面積(昭和28年農業基本調査資料『宮崎県古公文書』をもとに作成)】※縦の列を揃えて下さい。

★作物の変遷
 大正から昭和にかけての作物に関する資料が「県古公文書」にある。直接焼畑に関するデータではないので、正確な判断はできないが、アワ・ヒエに関しては焼畑による収穫と考えられよう。ソバや大豆・アズキなどは常畑でも作られていたので、焼畑で収穫されたものかは不明である。
【表3-3 食用農産物(『県古公文書』)】※横書きの表にして一頁に収めて下さい。

二、焼畑の作物

★焼畑の名称
 焼畑のことはヤボといった。木降ろしのことをヤボキリ、火入れのことをヤボヤキ、焼畑で作物を作ることをヤボサクといった。作物によってソマヤボ・アワヤボ・ダイコンヤボ・アズキヤボなどといった。作物を作らなくなった土地をアガリヤボ。ノイネを植えるときにトウガで溝を掘ることをヤボホリといった。輪作を終えた後に放置する土地をステヤボという。
★焼畑の用語
 カマデ(右、カマを持つ方向)、カマサキ(左、カマを持っていない方向)。ギッチョ(左利き)の人にとっては逆になる。山の高い方をクチモト、低い方をシリモトという。畑をクワで打つ場合に、ヨコジリから打つと土が下に下がってしまうので、クチモトから打ち上げた方がいいと言われるものであった。オバネ(山頂)、サコ(谷間)といった。
★輪作形態
 焼畑で重要なのは年毎に作物を替えることで、同じ土地を数年にわたって使用することができることである。同じ作物では、同様の栄養素を必要とするため、次の年の作物は育たない。作物を替えることで土地の有効活用ができる。高巣野では、「やんだやり、作付けしたっちゃ、出来が悪い(連作すると出来が悪い)」という。
 日之影町で最も一般的なのが、アワ~アズキの輪作であった。アワは、収量も味もよく、白米と混ぜて食べられたようである。アズキは、アンコの材料として重宝され、余剰分は売ることもあって、換金率が高かった。しかし、ほとんどの家が食用として自家で消費した。
【表3-4 集落別輪作種類】

★アワ
 日之影町内で、最も多く作られた作物がアワであった。アワはヒエよりも美味で、米の代用穀物として重宝された作物であった。アワは六月下旬から七月上旬に蒔く。半夏の頃にアワをばらまきに蒔いた。(大平)アワは、麻おを刈った後、旧暦の六月土用に蒔くものであった。土用にウナギを捕りに行く人がいるものだった。米の後に収穫した。(大菅)
★ソバ
 日之影町では、ソバのことをソマという。ソバは「七五日の晩には喰わるる」と言われていた。ソバは杉山か檜山の後に植えるものであった。ソバは盆頃に種を蒔いて、七五日目の夕飯に間に合うと言われていた。十日くらい掛け干しにして、乾いた頃にメグリボウでたたいた。ソバはアエイが良かったが、アワはアエイが悪く、骨を折る作業であった。(大平)ソマ(ソバ)は「三月十日(みつきとおか)で夕飯に間に合う■」といった。アワの後に七月頃に種を蒔く。(波瀬)二百十日前、八月に入ってから、火入れして種を蒔いた。ソバは忙しい作物であった。霜が降ったら駄目になるので、霜がかからないうちに刈り取らないといけなかった。実が多く入っていないときでも霜がかかりそうなときには刈り取ってしまう。(下小原)タケヤボ(竹が生えた場所)では、ソバを一番先に植える。焼畑には春ソバを植えるもので、三月に種を蒔いて、五、六月に収穫した。畑には秋ソバを植えるものであった。(大菅)
 ソマゲといい、ソマの粉にお湯をかけて練って固めて、しょうゆ味で食べるのが格別であった。小豆は、赤飯や餅のあんこにした。アワは、米と一緒に炊いた。
【写真3-58 ソバの花(追川)】
★ヒエ
 ヒエは祖父の世代が作っていた。ヒエと雑草を見分けるのは専門家でないと難しい。今の若い者は見分けられない。大きくなれば分かるが、小さい時には分からない。ヒエは畑作には向かない。焼畑には雑草が生えないので、ヒエは焼畑に向いている。ヒエをヤボ作に作る場合には、標高の高い土地を選ぶ。気候の関係であろう。ヒエを植えなくなったのは味が悪いからであった。田が少なかったときには、焼畑で雑穀を作る必要があったので、ヒエや粟を作ることが多かった。ヒエは標高が高い場所に植えるのが普通なので、日之影ではアワは最後まで作ったが、ヒエは早くから作らなくなった。(大菅)
【写真3-59 ヒエ(樅木尾)】
★ダイコン
 ダイコンは秋ダイコンであった。田植えが終わってからヤボ伐りをして、旧盆前頃に種蒔きをした。有る程度育てば、少しずつくける(間引きする)。寒くなってから干しダイコンにするために収穫した。寒くなると全部丸干しにしていた。食べたいときには「くけち喰えばよかった」。目的はたくわんであった。朝鮮漬けは新しい、昭和になってから流行りはじめた。(大菅)
 土用の頃(八月二〇日頃)に山を切って一週間くらい山を干して大根を蒔いた。荒れ山の木を切ってカズラを切って一週間くらい干してから焼いた。残りの木株などを寄せて焼いた。灰が多い方が作物はできた。大根は種をバラマキで蒔いた。トウガで土を被せていく。焼畑の大根はあまくておいしかったが、獣害で作っても食べられてしまう。(煤市)
 大根は、八月末から九月にかけて種を蒔く。大根は「霜が降ってもまだ太る」といわれ、宮水の祭りの頃、十一月末頃、に収穫する。大根は確実に収穫でき、焼畑でできたものは特に柔くおいしい。ショウゴイン大根などヤボダイコンは本当においしかった(波瀬)。
 大根は煮染め、大根すりにした。大根ヤボはあまり広くはしなかった。大根の保存は、土に埋めておいたり、切り干し大根にして保存した。提灯のように大根に刻みを入れて、つり下げて乾燥していた。かりぼしにするときは、エビラを使ったり、椎茸の乾燥機で乾燥させた。
★ノイネ(陸稲)
 平らな、土ばかりの所では、ノイネ(陸稲)作りが楽しみであった。傾斜の急な土地では、陸稲は倒れてしまってうまく育たなかった。陸稲であっても米が食べられるのは嬉しかった。五月の八十八夜の頃に蒔いた。ノイネは、五月初旬から下旬にかけて種を蒔き、十月に収穫した。ノイネには、キジがつくものであった。ノイネの種を蒔く後をキジが付いてきたこともあった。キジやウサギは罠で捕って食べていた。ミニギリ(三握り)くらいをテガリよった。テガルとは結ぶこと。ワラは牛に食べさせた。水稲のワラよりも陸稲のワラの方を喜んで食べるものであった。ワラ細工には使えなかった。陸稲の餅米も作っていた。(大平)煤市では、陸稲は作らなかった。
 三年目にノイネを作った。刈り取った後、竹を組んで、十日ほど掛け干しにして、乾いたものを一日に十回ほどで運んだ。焼畑の土地は家から遠いところだったので、運搬も大変な労働であった。良い土地に限って家から遠いところであった。土地が良くないとノイネはできなかった。春焼くだけで、秋に焼くことはなかった。(大平)
 ノイネは土地がよいところでしか作れない。土地がよいとは、日当たりがよく、できるだけ平らな土地がよい。畝を立てて、肥料をまいて育てた。肥料には、過リン酸石灰を使用した。産業組合から購入してきた。他の作物には肥料は要らなかった。(樅木尾)
★ヤボホリ
 種を蒔いて、トウガで掘る。ヒエはホウキ撒きでよいというが、私たちはすべての種はトウガで掘っていた。掘るのは手間がかかるが、昔から掘ることになっていた。バラマキに蒔いて、その後に、トウガで掘った。ノイネは、最初、掘ってやわめて、溝作りをする。畑と同じようにする。(下小原)
★アズキ・ブンズ・大豆
マメは大豆・小豆で、六月末に蒔く。豆類の後にはスズタケが生えるものであった。(大平)小豆は、メンボウという、五〇センチくらい長さ、直径五センチくらいの野球のバットのようなもので、片手で叩く。アワの方が重労働。小豆は女性達が喜んで作るものだった。小豆はできにくい作物だった。虫が付いたら全く実が入らなかった。小豆はドンゴロス(麻袋)に入れて保管した。土用の時期の太陽で乾燥させる必要があった。(高巣野)
小豆は、七月の土用までに蒔けば、土用枕といった。(高巣野)小豆は、七月十五日に種蒔き、アワの後に霜が降ってから十一月過ぎに収穫。小豆は、収穫が遅れるとハシってしまい、収穫は半減してしまう。ハシルとは、実った小豆が十分に乾燥するとひとりでにはじけて実が飛び出してしまうことをいう。そのため、まだ、かすかに青いくらいのときに収穫する。(波瀬)アズキは、数年経って草も高く生えているので、土を掘りながら草を引く。草がよい肥料になる。(樅木尾)
 アズキ・ブンズは、「コカの木(ネムノキ)の花盛りに種を蒔け」という。六月の下旬から七月の上旬に種を蒔く。アワと同じ頃である。ブンズよりもアズキの方が時期が早く収穫した。収穫もアワと同じ。ブンズは収量は良いが、味が良くなかった。アズキは育てるのが難しかった。買うことはなかった。もらった饅頭を食べたところおいしくなかったので、ブンズを作らなかった。種蒔きは、薄く蒔け、「一日に三粒見ればよい」といった。(大菅)
【写真3-60 アズキ 乾燥させたものをメグリボウで叩いて脱粒する(■)】
★その他の作物
 焼畑にもトイモ(甘藷)を作ることもあった。トイモが主食であった。ノイネの後に、杉やナバギの苗の脇にトイモを作ったりした。焼畑のトイモは畑のものよりも身が詰まっておいしかった。量は作らなかった。アガリヤボに作る程度であった。里芋を焼畑で作ることはなかった。里芋は盆と正月に食べるくらいであった。焼畑に作ったトウキビは畑に作ったものよりも、収穫は少なかったが、甘みがあっておいしかった(大平)。
★杉の植林
 ヤボを焼いた初年には、アワを蒔くが、その時に杉の苗も植える。アワの収穫の頃には、まだ杉苗はアワよりも低いので支障はない。三年目のノイネの頃には杉苗もかなり大きくなってくるため、収穫には邪魔になったという。杉は湿気の多い、迫の両脇に植える。湿気があるかどうかで、杉の生長は一〇年ぐらい違ってくるものである。杉は実生で、山にある苗を取ってきて、川の水に浸けておいて挿し木(ジキザシ)にした。杉の株は、掘り出すことはせずにほったらかしにする。(大平)
★ナバギ(椎茸原木)
 台を伐った後に生えてくる若芽をデエベ(台生え)という。デエベは腰が弱く、風に倒されたり、椎茸が生える率が低かったりして、苗から育てる方が良かった。ナバギはズダゴロ(ドングリ)を植えていた。ナバギには、クヌギ・ナラノキ(コナラ)・ソヤノキを使った。クヌギ・ナラノキは五、六年椎茸が獲れた。ソヤノキの椎茸は質が良かったが、二、三年しか椎茸が獲れなかった。秋の頃、九月頃になったら、椎茸の原木の下のスズタケをずっと切っていく。ナバギを倒す。五反、一町歩を焼いていた。原木を倒した後に春になって焼く(大平)。
 ナバギは、植林するものである。二〇年くらいかかる。秋のうちに、ドングリを拾っておいて、畑に蒔いて、苗を作り、二年たったものを焼畑の後に植える。ボウガの場合には、一〇年くらいで伐採できるようになる。ボウガとは、切り株から新しい芽が出て育つことをいう。(樅木尾)下小原ではナバギの下払いのことをヤボキリという。ヤボはしないのにヤボキリというのは昔の名残であるという。
★植林
 ナバギでも杉でも焼畑をしてから植林した方が木の育ちはよかった。植林は、当時、焼畑との連作ではナバギ(クヌギが主)の方が杉よりも多かった。(下小原)杉・ナバギを植林した。その時々の値段で、杉・檜・ナバギのどれを植林するか決めていた。杉は水気の多い土地に植えていた。杉の後にはナバギ、ナバギの後には杉と、種類を変える傾向はあった。(大平)ヤボの後に植林をする場合、杉が九〇パーセントであった。(煤市)
大平での植林一年目二年目三年目四年目杉林ソバマメ(大豆・小豆)ノイネ(陸稲)ナバギ植林・杉植林雑木アワ マメノイネナバギ植林・杉植林・雑木★炭焼き
 大平では、焼畑の後に雑木を植えることはなく、放置したら雑木は生えるものであった。雑木が生えた山を炭山といい、炭山には樫山が一番値が良かった。炭山を購入すると、迫に炭窯を作った。一度の炭焼きで五〇俵(一俵一五キロ)が標準であった。炭窯は古いものでも二〇~三〇年は持つので、焼畑の後、雑木が次に育ったときにも使用できた。炭窯は大抵水の便のいいところに作ったが、懸樋で水を引いてくることもあった。戦後は新たに窯を作ることは少なく、以前作られた窯のクウをたたきしめて作り直した。シンツチ(新土)とヤキツチ(焼土)を混ぜたものを使った。炭山といっても樫ばかりではない。炭窯の内部でも炭の出来不出来が場所によってあった。左右の両端をドーイといい、樫を置いた。樫が多いときには真ん中奥にも置いた。一週間焚く。半分も樫のある山は上等な山で、高く売れた。焚き口の穴付近に入れる木をテーギといい、焚き付けにした。一週間くらいすると青い煙が出るようになった。そしてネラシ(蒸し焼き)をした。シイ(コジ)は、ぱちぱちとはじいて、黒炭には向くが、白炭には向かない。シイ・コウカノキ・クリなどは、良い炭ができないのでテーギにしていた。前口(中央部)には、カバザクラなどの固い木を入れた。前口には、奥に堅木、手前に柔木を置いた。
ダツをカヤやススキで作った。一五キロ入る規格で作った。昔の規格は二〇~三〇キロだったという。集落の共有地には、諸塚村の七ツ山あたりから来て、炭を焼いた後は、焼畑にしてマメやノイネを作っていた。ダキヤマとは、岩が多く、崖のような急斜面のことをいい、炭山にし、焼畑はできなかった。自分の山で、よい樫が育っているような山を選び、水の便がよさそうな土地に炭焼窯を作った。炭材は、鋸とヨキ(斧)で切り倒した。できた木炭は唐人ガルイ(二~三俵)で運んで降りた。馬車道まで運んだ。商人(三富士産業工業?)が来ていたので、売った。(波瀬)

三、焼畑の作業

1、土地の選定

★土地の選定
 焼畑に適した土地は、ドヤッポといい、黒土の土地が適していた。「ドヤッポじゃかい、ノイネがでくるわ」などといった。ダキヤマでないかぎり焼畑を作っていた。ジャレワラ(小石の多い土地)にはトウキビやアワができよった(以上大平)。日当たりがよく、土が肥えたところを焼いた。石が多いところは駄目。(煤市)
 日向のいい、風の当たらないところが焼畑に適した土地である。大根は土の深い土地がよい。傾斜地かどうかは関係ない。木の大きな山は焼畑には向いていなかった。炭焼きをした後の山が三、四年したとき、一番焼畑に向いていた。それが一番手がいらない。タキモンヤマの薪を伐った後の山も焼畑をした。(波瀬)
杉林を切り出した後や炭材を伐りだした後の山を焼くことが多かった。残されている木枝を横に並べていった。中川まで作りに行くこともあった。土地選びは、雨の多い年はオバネがよく、雨の少ないときにはサコの方がよかった。(上下顔)山が古いところのほうが土地が肥えて作がよい。(下小原)
 焼畑をする土地の選定は、傾斜のない土地であった。サガヘレするところ(急傾斜地)は適していない。ヒナタ(南側)がよい。普通は自分土地を焼くが、自分の土地を持たない人が土地を借りて焼いていた。共有地などは、植林する必要があるときに希望者が焼くことがあった。収穫物はすべて自分のものになった。二、三軒の共有地と、集落の共有地の二種類がある。二人持ちとか三人持ちとかいう山がある。山を分けるときに、個人に分けるときと、大きく分けるときとあった。明治の初め頃であろうか、近くの山は個人の土地として分け、川の向こうは二人持ち、三人持ちに分け、ずっと上の尾根の方に部落の共有地がある。たいがい個人持ちの山を持っていた。近くの山は個人持ちであるが狭く、遠い山は共有地であるが広かった。(下小原)土地選びには、岩のない、集落から上の方が多かった。イシワラ(石の多い土地)などはよくなかった。アワ・ヒエ・ソバはイシワラの方ができた。イシワラのことを昔はザレワラと言った。(興地)
 作物は、ヒナタとヒゾエで育ちが違うものである。ヒナタの方がどうしても先に熟れる。そこでヒゾエの方に先に種を蒔いて、ヒナタには後に蒔いた。それでも生長はヒナタの方が早かった。ヤボヤキの土地選び。個人持ちの山を焼いた。団体でやるのは杉を伐採した後の山。これはかなりの面積になるために共同でやることになる。共同といっても兄弟か身内でやる。(大菅)日当たりの悪い土地は出し目が少ないという。竹のあるところは土地が肥えている。(高巣野)
★スズタケ
 スズタケは筆の軸に使うこともあった。スズタケができる土地は作物もできるようであった。豆類の後にはスズタケが生えるものであった。火を付けるテーギは、スズタケ五、六本をカズラで結んでその場で作った。二年目の後にはスズタケが生えるので、竹を払って、根を掘り上げて、乾燥させて焼く。(大平)
★小作による焼畑
 地主から土地を借りた場合、ブイチといい、三分の一の収穫物を地主に渡すという契約をしていた。毎年できる作物を渡していた。ナバギは地主の物。地主に頭を下げて、土地を借りたが、条件は地主の方が良かった。スズタケで荒れた土地を整備してもらって、作物ももらえる。(大平)
 大平のある方は小原の地主から土地を借りていた。地主から「今年はあそこのナバギを伐ろうと思っているが、ヤボを切ってくれんか」と頼みに来ることもあった。なかにはブイチは要らないという人もいた。ソウニタという地は作が良かった。戦後は、米よりもマメ(小豆・大豆)を欲しがっていたので、一、二斗を地主に持っていった。こうした契約は文書にすることなく、口約束であった。自分の持ち山を焼いた(煤市)。
 ブイッ(分一)とは、借地料のこと。この集落ではブイチが三分の一であった。収穫物の内、三分の一は地主へ渡す。五~一〇俵はソバが獲れていた。焼畑もばかにはできなかった。(上下顔)山を持っている人が他の人に焼畑をしてもらうものだった。焼かせてくださいと頼まれるものだった。ブイチで収穫物をもらうものだった。アワ大豆をもらうものだった。サンブイチは三俵であれば一俵もらっていた。ノイネで十数俵などもらっていた。山を持っている人にとっては焼いてもらうのがよかった。(興地)他の人の土地を借りて、焼くことが多い。一、二年焼畑をした後は草場になるので、地主は牛馬を養うには都合がよかった。(波瀬)

2、火入れ

 焼畑の下準備として木降ろしが必要であるが、現在木降ろし作業に関しては余り話を聞くことができなくなっている。その理由は、近代に入ってからの焼畑は、植林やナバギ伐採の副次的な作業のためである。一部では、土が流れ出さないように、木を伐ったら、こぎって横に並べていく。(波瀬)
★火入れ作業
 ナタとカマで木を伐って、横に倒していく。下から上に向かって作業。少し伐っては、木を横にして整地する。木を縦に並べてしまうと、燃え残りができてしまうが、横に並べていくと、完全に灰になるまで燃える。燃え残りがない。地面から木が浮かないように、できるだけ小さく伐って、横に並べていくのがコツである。この作業は手間がかかるが、後の燃え残りを少なくするためには重要な作業である。親子でするときには、幅二〇メートル、縦四〇メートルくらいの面積を焼いた。その焼く土地の周囲にはカボウセンを作った。火が移らないように二、三メートル幅で土を掘り起こしていく。一番上の横は特に広くカボウセンを作った。火は上から入れていく。じわじわ上から燃えていくと、燃え残りが少ない。(波瀬)
 火入れをする土地の周囲(クロという)にはカボウセン(防火地帯)を六~八尺の幅をつくり、その中央部分の一尺幅をトウガで生土を掘り起こした。人が多いときにはカボウセンを作りながら火を入れていった。人数が少ないときには事前に作っておいた。火入れの道具は、ナタ・トウガを持っていく。火を付けるテーギは、スズタケ五、六本をカズラで結んでその場で作った。火を入れる前には、「今から火を入るるから、焼けち悪い者は早よ出れ~」とおらびよった。火を付けて下って一段落したら御神酒あげをした。ジモエがおさまるまで、世間話をして過ごした。燃え残りがないかを確認して家に帰った。帰りは夜八時頃になっているので、テーギで火を点して帰った。家では頼んでいた人たちを呼んで飲み直した。火を入れる際に起こった危なかった話などをしながら、イワシなどを肴にした。昔は、ヤボを焼かない土地でも火を入れることが多かった。ナバギの手入れなどは火を入れた方がしやすかったが、最近は山に火を入れることがなくなって、山の管理がしにくくなった。(以上大平)
【写真3-61 火入れ作業(樅木尾) ①木を集める ②カダチをあける ③火入れは斜面の下から ④トウガでカダチをあける ⑤テギで次々と火を入れる ⑥いくつもの塊で燃やす ⑦燃え残りは寄せ焼きする ⑧火のまわりを確認しながら焼く】※①~④、⑤~⑧をそれぞれ組写真にして、見開きにレイアウトして下さい。
★下顔の火入れ
 火入れは六人くらいで行った。ヤボヤキをやるには、家の者だけではできないので、必ず人を頼むものであった。ヤボヤキは危険で、焼き込むこともあったが、多くの人数であれば消すことができた。ヤボサクのなかでも、ヤボヤキが一番苦労した。一年中の仕事の中で、ヤボヤキが終わらないとおてつかんかった。火が消えるまで気が気でなかった。カダチアケが重要。五尺から一間くらいの幅で、ゴソをかく?。そこの中央をトウガで掘っていく。火を付けて、進んでいくごとに生土を掘り進んでいく。あまり早く掘っておくと乾いてしまい、ジモエ(地燃え)が広がってしまう。火が広がらないように防火線のために掘っていく。風の反対側から火を付けていく。風の方向から火を付けてしまうと、火は風にのり、大きく燃えて危険であり、また、燃え残りが多くなってしまう。風の方向からの火は遅れ気味につけていく。雨の降る前にはイレカゼ。火よりのいいときには北風という。火を付けると風が激しくなる。風の向きは変わらない。二反を焼くのに三〇分くらいで焼けていた。日が下がってから焼いた。しかし、今は消防団が厳しいので、五時までには焼き終わるようにとの指導がある。日が沈んでから焼くものだった。日が沈むと、風がおさまってきて、山が少し湿ってくるので、日が沈んでからの方が焼きやすかった。昔は夜に焼いても役場は何ともいわなかったので、安心だった。火が燃えるので、明るかった。一通り燃えてしまったら、何も燃えるものはないのでその日は見張りなどはなかった。明くる朝には、一応、火の燃え残りがないか見回りにいった。数日後、カナヤキ(カネヤキ)といい、燃え残りをナギ集めて焼いた。(上下顔)
★興地の火入れ
 火入れには、防火線を作った。このことをカダチをあけるといい、ナタ・カマで払って、落ち葉の多いところは竹ボウキで、払った。焼く土地の面積によって五人から一〇人で火入れをした。三~四メートルの幅のカダチをあけるものであった。トウガで掘ることはなかった。ヤボヤキで焼き込んで騒動したことも多かった。昔、子どもの頃に、カヤ場を焼きこんで、警察沙汰になったことがあった。火の扱いが雑だった。高千穂警察に呼ばれた。昔の人は火を怖がらなかった。二~三人で火を入れていた。火は、上から付けていく。これをヒゾリ焼きという。火が強くならないようにしながら、少しずつ焼くのがコツである。燃えてしまえば終わり。どうしても燃え残りはできるものであった。(興地)
★高巣野の火入れ
 朝九時頃から焼きはじめて、夕方の四時までかかった山があった。杉山を伐採した後の六千石という木が立っていた山であった。岩井川の上栃の木の奥、今立山という字名。火入れ願いは届けた。町有林であったが、処分するために杉を伐採したために焼畑にした。飯干官氏が中心になって焼いた。オバネ越しに声を掛けても聞こえないほど広い土地であった。谷底まで焼いて下った。
 向こうに三人、こっちに三人という具合に六人で手分けして焼いた。焼くためには前日に段取りのため一日かかる。杉を伐採した後の枝などが散在しているので、それをある程度数カ所に寄せ集めて、固めておく必要があった。周囲がボヤ火で燃えて、次第に中央に向かうに連れて本火(ほんび)になるように焼かないと、直ぐに隣の山に火が燃え移ってしまう。頂上の方から並んで、一間下がっては、声を掛けして、火が「オギランゴト」ゆっくりと火を入れていった。クロの方(焼く範囲の隅)を早く焼いていく。いったん火を入れてしまうと、最後の始末するまでは戻ることができなかった。目の前の火の様子は見えないので、離れた人が火の様子を伝えながら火入れをする。飯干氏は何十箇所か焼いたが、火災が起こることはなかった。どうしても危ないというときには、事前にクロの方に出してあった立木で火が止まるようになっていた。
 火を入れる場合には、先ず風向きを見る。西風か北風か、下から吹き上げているか、吹き下ろしているかをみる。吹き下ろしの時にはクロの方を早く火をつける。中央が先に焼けてしまうと点けて降りることができなくなる。下からの風が一番焼きやすい。あまり強いときには日を延ばす(延期する)。焼いていると必ず風は起こるものである。その辺はあらかじめ考えておく。みんなで話し合いながら風の様子で作業を決める。
 風のアンポ(塩梅)がいいとか、悪いとかいった。西風のことを北風といい、クンダリカゼと言った。東から南にかけての風はイレカゼという。イレカゼの時には二、三日うちに雨が降る。
 幅五〇~六〇メートルを、三〇〇メートル下った。朝一〇時に火を入れて、夕方四時頃に火の始末が終わった。ボヤンボヤンしたようなくすぶった火には生土をかけて火を消した。
★大菅の火入れ
 一人で焼くこともあった。自信があるので大丈夫だった。防火線のことをクロといった。生土を出してから。すべて山の形で幅は決まる。一メートルから二メートルの幅をかざる(クロを作る)。傾斜地は広めにカザル。たいがいの所は一メートルあれば十分である。木や草を中央に寄せて、生土を掘り起こしておく。火を入れながら土を掘り起こしておく。上の横だけは事前にかざっておく。
 風を見られるものが焼畑の名人である。火を入れるとかならず風が起こる。天候を見てから焼くことが重要である。雨が降る前が一番よい。雨が降ってしまうと燃えない。火を付けながらひぞっていく(あとずさりしていく)。杉山の後は、面積が広く、杉山の後は火の勢いが強く、何十メートルも炎が上がってしまう。竜巻のように火柱が上がった。雑木林はそうでもない。クロを必ず燃やしておけば、大きな木に火がくすぶって残っていても大丈夫。両脇のクロをずっと先に焼いておくと確実である。
 ヤボきりからの準備が大切であった。大きな木は中に投げ込む。大きな木は枝をきれいにさらえておく。大きな木の廻りに寄せておくと、時間を掛けて焼かれる。木を倒したら縦横無尽に置いておいても焼けてしまうと思ったら間違い。燃え残りができてしまう。仕事をした後を見れば、その人がどういう準備でヤボヤキをしたかが一目瞭然である。そういう心得は代々受け継がれるものであった。父親から習うものであった。
 真ん中から火を付けて、あわや大火事になることがあった。
 火を入れた後には、燃え残りを寄せ焼きにした。たいがい燃え残りがないようにうまく焼いた。燃え残りを焼くのは二度手間になる。
★風の見方
 イレカゼとは、延岡から高千穂の方に吹いてくる風をいう。逆をダシカゼという。南側の土地を焼くときにはダシカゼの時に焼く。火入れには、風のない日を選ぶ。火を入れると風が出てしまう。東風は、オキカゼ、オキノカゼ。他は、同じ。オロシとは、東風が吹いて、山に当たって、吹く風。戻し風のことである。(興地)
★天候
 春の時期に天気が続く頃をハルオーキ(■ハルゴーキ)といい、ハルオーキを過ぎてから四月頃にヤボヤキをした。(大平)ヤボサクというものは、収穫高がよいときと悪いときが極端であった。シケ(台風)には弱かった。箱庭のような土地ではシケがかからなかった。大根はシケに強かった。小豆・ソマはシケに弱い。(波瀬)ヤボ作はシケ(台風)の影響は受けなかった。(高巣野)
★焼畑の一日
 朝飯が六時頃、牛の世話をして、七、八時頃に山へ出かける。昼飯が十時、コブリが午後三時、夕飯が九時頃であった。アワ飯・麦飯、たまに岩塩の鯖の塩物、味噌と漬け物がおかずであった。(大平)
 二、三人くらいで焼いていたが、火は怖かった。以前は水を準備することはなかったが、五、六年前に焼いたときは、水を用意した。(煤市)
★火入れの火の管理
 春になると、日よりの良いときには、あちこちで山に火を入れるものであった。
夕方になると風が止み、暗くなるとジモエ(地燃え)が分かるので、消し忘れが分かるので、火入れは夕方にするものだった。午後三時頃から夕方にかけておこなった。火を入れると不思議と風が起こるものだった。竜巻のように風が起こったこともあった。火入れは、少なくとも五、六人で行った。多いときで七、八人。自分で飲む水はヨギリに入れて持っていったが、火を消すための水は必要なかった。夜になっても火を焚いていて、役場に届出をしておらず、十円の罰金を取られた。日没までに焼かなければならなかった。それからは許可証を取るようになった。(以上大平)
★防火祈願
 火入れをするときには、オバネで、御神酒(焼酎)を山の神にかけ流しであげ、「火が荒れんごっ、怪我のねえごつ、守って下さい」と唱えた。(波瀬)山の神に祈ることはなく、御神酒も上げることはなかった(下小原)。鳥屋の平の若森キイイチロウさんは、焼畑の時に、どうしても宇納間のお札を立てる人であった。まだ、焼畑をするらしい。宇納間への代参は、昔は一月二十四日、六月二十四日、九月二十四日に行っていたが、現在は一月と六月のみである。一二戸が持ち回りで、三人が代参した(現在二人)。山の神に御神酒を上げた。昔は、日本酒をやっていた。戦前は焼酎は飲まなかった。(興地)火を入れるときには、山の神に断りを入れる。(煤市)火入れをするときには山の神に御神酒を持って上がって「今日は火入れしますが、火がオギランゴツ(山に焼き込まないよう)無事に焼かせて下さい」とお祈りを捧げた。焼く場所に御神酒を上げた。ヤマネコは密造酒で、キビ・アワ・トウキビ、麹は米と麦を持っていった。カケグリを作って御神酒を上げた。(高巣野)火入れの時に、山の神にお願いする。ニガシダケを切って、カケグリに日本酒を入れ、山の神様に供えた。昔は、日本酒が普段の飲み物で、焼酎は貴重品であった。火入れの時には山の神様に頼るものであった。「あんまり火が暴れんように見ちょってください。」と、人間にいうようにしゃべった。ヤボにはいる前に、入り口のところで、必ず伐った木にカケグリをかけて拝みなさいと父から教わった。生木(生えている木)に掛けてしまうとその木が神様になってしまうからという。火を付けるときには、「火があまらんように、よく燃えて、燃え残りがないように、お守り下さい」とお願いした。「こん山に火をいるるど、ヒビ、ワクド、ムシケラども、ひぞれ」と言って、火を付けた。お札を立てることはなかった。(大菅)

3、草引き

★草ひき
 ノイネの場合には、盆過ぎてから草を取った。スズタケの芽、ハナガラ(マメの頃に抜く)、ホトクリ(ススキのような)、ギラ(ホトクリに似た)などがあった。草は引いて、木の枝に掛けたりしていた。草をちゃんと取っておかないと刈り取りに手間取る。草取りは一回で十分であったが、多いときには二回した。ハナガラがあるところをヤボにしたら倍手がかかったという話があった。(大平)一年目に、ホトクリ・ハナガラなどの雑草が生え、二年目には、ニガヤ・アザミ・イゲ・ナラなどが生える(煤市)。三〇日たつと一〇センチくらい伸びてくると草取りをした。引ける草は引いて、引けない草は小鎌で切る。シリモトから取って上がった。取った草はシキグサ(肥料)になる。草取りは、二回した。一番草は一〇センチくらいで、二番草は腰の高さくらいになる。(高巣野)スズヤマではスズの草をとった(大平)。

4、種蒔き

★種蒔き
 種まきのことをタネヒネリといった(煤市)。焼いた後、火が鎮まってから種蒔きをする。二、三日後、種を蒔く。雨が降ったときには明くる日でも良い。日和(天気のいい日)が続くとヤボサクは「付きが悪い」といっていた。種蒔きは種蒔きと言った。種蒔きの分量は勘であった。広いヤボサクでも一升の種は蒔ききらなかった。(高巣野)
 アワサクの時には木の枝を束ねたホウキではわいてさるく。下からノンボリ(山頂)を見ながら作業する方が作業がしやすい。アワの種蒔きは、「半夏までに目をきっちょっごたればヤボサクはあてたもんじゃい。」といわれた。半夏までに種をまっこめば作は当てたもんじゃ。」半夏は七月二日頃。(高巣野)
 アワ・マメ・ソバはバラマキ。陸稲はすじ蒔き。一尺幅くらいで、クワですじを掘る。下からクァガク(耕す)して、その後を種蒔きの人が種を蒔いていく。上の段をすじを作るために耕した土を、種を蒔いた下の段に被せていった。種蒔きをする利き手が替わるので大変だった。(大平)
 焼いてから、土地が冷めてから種蒔きをした。二、三日してから種を蒔いた。種蒔きがうまくないと、後で、くける必要が出てくるが、これは無駄な作業なので、できるだけくける必要がないように種を蒔く。種を蒔いたら、適当にトーガで、土を被せていく。ホウキを使うことはなく、どんな作物でもトーガを使った。特別に、根の張る草はくけるが、特にクサヒキには苦労しない。(大菅)
【写真3-62 ヒエヤボ 様々な雑草も生えるが、ヒエの方が背が高い。(樅木尾)】
★虫害対策
 アワに虫が付くことがあったが、昌竜寺で経文を唱えてもらったお札を数カ所に立てると、一週間もしない内に虫がいなくなったことがあって驚いたことがあった。アワンムシはめったに付くことはなかった。ノイネにはウンガが付いていた。(以上大平)
 以前はヤボに猪が出てくることはなかったが、今は庭先までやってくるようになった。大根を植えたが、猪・鹿・猿が荒らした。鹿はナバを食べて大変である。(煤市)

5、収穫と保存

★収穫
 収穫は、アワ・ソマはカマで刈る。長木を渡して、それに掛けて乾燥させる。ソバを刈り取ることをソマキリといった。アワ刈り・麦刈りとソマ伐りといった。ソマだけは、ワラでてがって掛けた。ソマは、七~一〇日間乾燥させる。ソマは不思議なもので、刈ったその時からあやすことができる。乾燥させてからでもあやすことができる。焼畑では運ぶのが大変なので、乾燥させてから持ち帰ってあやした。秋ソマと春ソマは種が違ったため、味も違った。秋ソマの方がうまかった。味が良かった。アワは四、五日掛けていた。アズキ・ブンズは根引きで、土を落として、二、三日乾燥させる。その辺に置いて乾燥させる。乾燥しないと持ち帰るのに重い。(大菅)
 大豆の場合は、根こぎで引いて、てがって持って帰る。乾燥させて、根を切ってからメグリボウで叩く。少しの場合はテンコロのような棒で叩くこともあった。三畳くらいのネコブクを敷いた。干すときにはムシロを使った。小豆・ソバ・大豆・アワに使った。アワは最もアエにくく、骨がいった。ヒエはアエがいかった。昔からトウミで選別した。(下小原)
 アワの収穫は、十一月頃、霜が降る頃になってアワも根から刈り取ってテガッテいた。アワのワラも牛の餌にするために、長めに刈って、テガったものは長いので竿に掛けずに、直置きにして乾燥させた。(大平)刈り取りの時には、メンパ・ヨギリ・二号半瓶(ヤマネコ)をもって、「収穫できました、ありがとうございました。」といって、御神酒を上げ、食事をする。(高巣野)
 稲束くらいにテガッテ(結んで)、材のあるような所では掛けたり、ないところでは地干しにしたりした。根っこから小鎌で刈っていく。乾燥したら脱穀機で脱穀した。昔は、地べたに置いてメグリボウで叩いた。そのために庭には赤土を張って、雨が降ったら子どもが滑るほど綺麗に整地していた。筵も敷くことはなかった。二人が向かい合って、二度だたきした。残った殻は牛の餌になった。脱穀には大きなヤボになったら二、三日かかるものであった。一番収穫があったときに、四斗俵で八俵とった。カマゲに保存した。アワはヒエと同じで虫が付かなかった。庭であやしたら地干しで乾燥させてカマゲに入れ、物置に入れておく。(高巣野)
★調整
 家に持って帰り、乾燥したものをネコブクの上に乗せメグリ(ボウ)でたたいて脱粒した。アワたたきは一週間くらいかかった。たたいたものをフリイ(フルイ)でゴソ(葉くず)を取り除いた。それをトーミで選別した。実だけを選別し、カマゲに入れて保存した。食べるときには、カラウスで皮を取って、テミでサビった。(大平)
 あやすのには、メグリボを使った。庭には特別な土を入れて、ムシロを敷く必要がないくらいに綺麗にした。あやすときに土が混じらないように綺麗にした。庭をとても大事に扱ったものである。舗装道路のように綺麗にしていた。ナガシの頃にはよくひっくり返っていた。それが農家の自慢であった。庭が綺麗な人は、収穫・収量もよかったし、庭が綺麗でない人は、農業に熱心でないことが分かった。普通ヨッタリ(四人)で、向かい合って、メグリボウを叩いた。それがうまくいかないと向かいの人のメグリボウに当たってしまう。餅つきの要領である。子どもも参加するものだったが、大人が調子を合わせてやるものだった。ネコブクを持っている者もいたが、庭一杯の大きさだったので、邪魔になった。ムシロはワラで編むが、ネコブクは縄で編んだもので、大変重く、運び出すのに苦労して、しまうのにも苦労した。乾燥させておかないと重かった。それよりも庭を綺麗にしておく方がよかった。ネコブクを持っている家は二、三軒あった。選別は、トウミでした。掃き集めたものをテミでさびった。あやしたものをムシロ干しで十分に乾燥させて、カマゲに入れて、物置に保存した。母屋の天井裏には、コンニャクの種芋ぐらいしか保存しなかった。家の庭で、戸板を立てて、ムシロを敷いて、穀物が飛び散らないようにしてから、メグリボウで叩いた。両脇に飛び散るものである。「四回叩けば一庭(ヒトニハ)」。収穫物の穂先を向かい合わせに並べて、叩く。十分に叩いたところで、上の殻を取り除き、新しいものを並べる。それを四回繰り返したのを一庭といった。畑の麦でいった。(大菅)
【写真3-63 ネコブク(樅木尾)】
【写真3-64 メグリボウ(■)】
【写真3-65 スデボウ(樅木尾)】
【写真3-66 カラウス(■)】
★保存
 脱穀したものをカマゲ(四斗)に入れた。馬屋に保管したり、イエンツチという座敷の屋根裏に保管していた。イエンツチには土間からカケミチで上がれるようになっていた。(下小原)
★焼畑の道具
 焼畑には一升瓶に二、三本カルイに入れて持って上がった。ヨギリも持っていった。孟宗竹で作った水筒。竹の皮を剥ぐと割れにくかった。カルイには、ナタ・カマ・ヨギリ・メンパ・ミソメンパを入れて持っていくものであった。道具としては、トウガ。丈夫な作りをしている。ヤボサクで大根を蒔くとき、小豆・大豆を蒔くときに使う。(高巣野)
 ヤボキリして、アワはすぐに種を蒔いた。アワを蒔くとジャベラ、あるいはベーラというホウキのような道具で上から下に向けて、かかじる。そうすれば十分である。ジャベラとは、木の枝を束ねて作ったものである。(波瀬)
 収穫には、テガマを使った。畑のものはテコギで引いたが、焼畑のものはカマで刈って、竹に掛けていた。メグリ(メグリボウ)を使った。量が極端に少ないときにはテンコロですませることもあった。ネコブク(四~六畳)を引いて、メグリを使った。米は千歯を使った。麦には麦ズリを使った。アワ叩きはにぎやかであった。(興地)

四、各地の事例

 焼畑については、現在ほとんど行われなくなったが、人々の記憶にはまだ残っている。『日之影町史 村の歴史』には、そうした思い出話が掲載されているので参照して欲しい。ここでは、上記に掲載できなかった話を集落別に紹介する。
★煤市の事例(佐保チヨ子・昭和四年生)
 ヤボといって、大根ヤボが中心だった。昔(四代くらい前)は食糧をすべて焼畑で作っていた。粟・小豆・ヒエ・大根・蕎麦。陸稲は作らなかった。二、三年位の経験がある。焼畑は嫁ぐ前、岩戸にいるときに実父から習った。遠いところでもヤボをやっていた。大根ー小豆ー杉あるいはナバ木。二〇年前から雑木林を売っていた。岩戸では、祖母が山に独りで隠居のように住んでいて、ヤボに行ったときにはそこに泊まったものである。牛を養ったり、畑を作ったりして生活していた。種まきのことをタネヒネリといった。一日に二、三粒見つかるくらいがよい種の蒔き方だと爺さんに教わった。昔は、田畑がなかったときには、獣と焼畑しかなかった。植林をしようとしたら、山にいくらでもあるじゃないかといわれた。青年団の二〇人くらいで、共有地を焼畑にして、収穫物を分けていた記憶がある。共同体の共有地でのヤボヤキ。次男三男に分配するために。
★波瀬の事例(佐藤長三郎・大正七年生、馬飼栄市・大正十三年生)
 アワは、田植えの後、七月頃に種蒔き、十一月に収穫。アワ・ソマは、木を組んだ台に掛けて干す。乾いたものを持って帰り、ムシロ干しをし、メグリボウを使って、脱粒した。脱穀した後は、土用干ししてからカマゲに入れて保存した。小豆はむしてから保存すると虫が付かないといわれた。
小豆より小さく似たものにブンズというマメがあった。小豆より味は落ちたが、収量はよかった。焼畑で獲れた作物は、ほとんどが自家用の食糧で、売ることはなかった。アワが一番広かった。次がソマが広かった。草取りのことはクサヒキといった。一番草くらいであった。小豆は種を蒔いた後にクワで土を被せた。アワの次の年に小豆を作った。
★興地の事例(戸高伝・大正二年)
 アワ・キビ・小豆が主であった。ノイネを作ることもあった。伐採した土地にヤボ作を作った。アワの次は小豆、次には土地のよいところには掘ってノイネを植えた。最後は、植林をした。植林のために焼畑をするものだった。植林は、戦前はクヌギが多く、戦後は杉が多くなった。クヌギはナバ木(椎茸の原木)にした。
 小豆は、種を蒔いてから掘っていく必要があった。掘り返すことによって、前年から生えていた草が掘り返すことによって肥料になる。ソマは、盆前に種を蒔き、十月の末、霜が降りないうちに収穫する。アワは、春先、三、四月に種を蒔いて、秋に十月頃に収穫した。ヒエはあまり作ったことはないが、祖父の時代にはヒエの方が多かったという。ヒエはアワと同じであった。小豆は、田植えがすんでから、六月末から七月にかけて、種を蒔く。コウカの木の二番花が咲いてから種を蒔くものだといった。収穫は十月。ノイネは、田植えの前、四、五月ごろから、シイの木の花が咲く頃から種を蒔いた。秋に収穫。秋、十月に入ると忙しかった。昭和初期から開田が流行った。モッコを使って土を運んだ。種蒔きは、焼いた後、一〇日間前後で行った。草取りは二回した。貯蔵は、カマゲ(四斗)に入れて貯蔵した。うまやや納屋に貯蔵した。アワは、カラウス(踏臼)は、各家にあった。水車で動かす臼も昔はあった。精米して、米と一緒に食べた。ソバは、麺やソバガキにして食べた。小豆は、あんこや赤飯に使った。小豆の栽培は難しかった。小豆には、わせとおくてがあった。わせはお盆には収穫できた。畑に作った。

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