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成人式発祥の地、諸塚村説について再検証

以前、NHKのバラエティ番組「チコちゃんに叱られる」で成人式の発祥について、埼玉県蕨市と宮崎県諸塚村の考証があった。以前、当時、諸塚村長だった藤井長治郎について原稿を書いたことがあったため、興味を持って番組を見たが、その結論は、「白黒つけないのも大人ですよね」という國學院大學の新谷尚紀教授のコメントで、終わってしまった。

番組後に、取り急ぎ、wikipediaを調べてみたところ、「1946年(昭和21年)11月22日、埼玉県北足立郡蕨町(現:蕨市)において実施された「青年祭」がルーツとなっているのが定説である」とあった。

さらに室井 康成「現代民俗の形成と批判 : 「成人式」問題をめぐる一考察」という論文を見返してみた。

そこには成人式の発祥について、次のようにあったため、とりあえず、蕨市説が正しいのだろうと思っていた。

現在各地の自治体で主催されている成人式は、埼玉県北足立郡蕨町(現在の蕨市)で、戦後間もない1946年(昭和21)11月22日から3日間にわたり行なわれた「青年祭」が、その後各地に普及したものであるとされる
(蕨市編1995:775)。ただし、蕨町と同じ年に「成人祭」と称したイベントを行なった宮崎県東臼杵郡諸塚村も、成人式発祥の地として名乗りを上げているが、起源については蕨説がほぼ定説化している(田村1999
230)。

今回、ある問い合わせがきっかけで、ここで引用されている田村和彦(1999)「「成人式」の誕生」『妖怪変化』(ちくま新書198、筑摩書房)を確認したところ、特に諸塚村などの事例は検証されていなかった。

さらに諸塚村のホームページでは、「本村では昭和22年4月に第1回「成人祭」が開催されています。」と紹介されていた。

https://www.vill.morotsuka.miyazaki.jp/seizinshikihassho/

ところが、昭和37年の『諸塚村史』には、「昭和21年4月、戦後始めて成人祭を開くこととした」とある。この文章からすると、蕨市の成年祭よりも早く実施したことになる。これが第一回成人祭となるはずだが、諸塚村では、その翌年を第1回と認識していることになる。

成人祭の目的は次のようにある。

戦前は徴兵制度があつて、満20才に達した成年男子はすべて検査を受け、これを境にして成人したと云う自覚が各人に出来ていたが、終戦後は、ポツダム宣言等により、これがなくなつたゝめに、青年は成人者としての自覚を失いつゝあつた。この自覚を取りもどし、郷土復興への精神を涵養するために「成人祭」を行う様にした。

昭和21年の成人祭を整理すると以下のようになる。
開催期間:昭和21年3月27日~4月3日
対象年齢:満20歳に達した青年男子と満18歳に青年女子
内容:
・成人式の前約10日間、宿泊訓練を行う。
・宮崎県から講師を招いて成人教育を行う。
・最終日4月3日に成人祭(式)を実施。
・弁論大会などを実施
講師:藤寺非宝、香春健一、中島歌子、吉田覚、その他宮崎県の技師
※藤寺非宝は高千穂町の住職であり、郷土史家である。その他人物の情報を一部引用しておく。

中島歌子 宮崎女子自由学園園長 ※以下88コマ目参照

この十日間の公民教育は、翌年以降、分割して行うようになったという。更に国が「成人の日」を制定したことから、この日に成人式を行うようになった、とある。

冒頭の『みやざきの101人』を執筆の際にどの資料を参考にしたか失念したが、当時の参考文献は以下の通りである。
『諸塚村史』諸塚村役場、昭和三七年
『ことぶきー藤井長治郎先生を偲ぶ号ー』諸塚村寿会連合会、昭和六三年
『諸塚村史』諸塚村、平成元年
『藤井長治郎画集 ふる里の心』諸塚村教育委員会、平成二年

何故、昭和21年4月に挙行された成人祭が、昭和22年4月と表記されるようになったのか?もしかしたら筆者の誤記がその後の情報をミスリードしてしまったのではないか・・・

責任を感じつつ、手元の平成元年版の『諸塚村史』を確認した。653頁に「(2)成人式の始まりと文化会」「イ 文化会の発足」という項目の冒頭に「諸塚村では昭和二十二年四月三日、初めての「成人祭」が開催された。」という文章がある。ところがこの項目の文章が時系列になっておらず、大変解りにくい。おそらく筆者もこの冒頭の文章で短い解説を書いたと思われる。

こうなると、二次資料の『諸塚村史』ではなく、昭和21年3月27日~4月3日に開催された「成人祭」の一次資料を当たりたいところである。宮崎県から講師を招いていたのであれば、宮崎県文書センターに依頼文書が残されている可能性がある。

今後、調査結果を報告したい。

<追記1>

宮崎県文書センターに関連資料がないか調査依頼していたが、所蔵は無いとの回答があった。ただし、諸塚村に問い合わせ頂いたとのことで昭和が解った。

昭和37年『諸塚村史』の文章は、「昭和21年4月、戦後始めて(昭和22年に第1回)成人祭を開くことと(決定)した」という意味であり、諸塚村としては、「諸塚村では昭和二十二年四月三日、初めての「成人祭」が開催された。」との理解でいるとのことであった。

再度、昭和37年『諸塚村史』を見返してみる。

『諸塚村史』_ページ_3 (2)

「成人の日」の公布・施行は、昭和23年(1948)であり、「それから二年後、国家が「成人の日」を設けて、一月十五日を国民の祝日としたので、この日に成人式を行うようになった。」とある。これが公布の昭和23年のことか、実施の昭和24年1月のことか判然としない。

<追記2>

再度、資料を振り返ってみると、記事トップの石碑の写真の文字興しがあった。

成人式発祥の地碑文
昭和20年8月,日本は第2次世界大戦に敗れ,満20才の男子を対象に実施されていた徴兵制度も廃止された。国民は未曾有の敗戦により希望を失い,道徳は廃れ,郷土の将来を背負うべき若者から成人としての自覚が喪失されつつあった。これを憂えた先輩たちは郷土の復興を願い諸塚村文化会を結成して教育に力を注いだ。
 当初は昭和21年から男子20才,女子18才の男女を対象に,約10日間の宿泊訓練(成人講座)を行い,最終日を成人祭と称して証書を授与したのが成人式の始まりで,第1回は昭和22年4月3日である。2年後の昭和24年には国でも成人の日が制定された。特に当時の藤井村長は社会教育による村おこしを力説し,成人式を村の行事として定着させた。
 この史実を後世に伝え,先人の遺徳を顕彰すべく自治公民館連絡協議会が発起し,各自治公民館長,村三役,村議会議員各位の浄財寄進により,記念碑建立の資金としたものである。
平成元年10月6日 諸塚村自治公民館連絡協議会

ここでも、表記に混乱がある。
本人の記憶違いであるならば、どこかで修正している可能性もあろう。継続して確認を続けていきたい。

<追記3>

今回、ある取材がきっかけで調べることになったのだが、その記者から『もろつか村報』(昭和32年2月10日)に藤井長治郎が「本村の成人祭はどうして生まれたか」という記事があることをご教示頂いた。これで、昭和21年が間違いであることが解った。大変お騒がせしました。

次に『諸塚村史』(平成元年)をもとに成人祭及び成人式について具体的に紹介していきたい。


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