見出し画像

藤井長治郎「本村の成人祭はどうして生まれたか」

『もろつか村報』昭和32年2月10日

終戦と同時に、時の村長谷君が追放になって、その後任として、私が村長に選任せられたのは、昭和二十一年十月二十六日の事であった。
当時を思い起すと、インフレは非常な勢いで昂進して、物価は毎日のように、鰻のぼりに騰がって止まる処を知らなかった。昭和二十一年度の予算は六十七万円余であったが、予算執行には少なからぬ苦痛を覚えた。おまけに、日用物資は不足し、食糧は欠乏して、統制下にあって、配給は受けていたが、配給だけでは最低の生活さへ困難であった。それで買い出しや、闇売りが到る処に横行して、そのためには新興成金なる者も出来た。その新興成金はいろいろ珍らしい物を手に入れて贅沢な生活をしていたが、一方正直者や、貧乏人や、サラリーマンは栄養失調すれすれの生活で我慢しなければならなかった当時は宮崎や延岡に出張するにも、米を持って行かなければ、旅館が泊めて呉れなかった。その米を捜すのにも一苦労であった。それに汽車は切符が制限してあったので、駅で長蛇の列を作って永い事待たされた上に乗れない事さへあった。駅の切符にも闇売りがあった。汽車はいっも超満員で硝子窓と言う硝子窓は全部打ち破られて、乗客は先を争うて、その窓から飛び乗り、飛び降りした。実に強い者勝ちであった。かような世相であるから、道義観念は全く地を払うて、帝銀事件のような悪質な犯罪事件が毎日のように新聞を賑わしていた。
これからの先の日本は一体どうなる事か、底なしの泥沼に沈んで行くような気がして、不安でたまらなかった。日本の復興は果して何時出来るか、百年かゝるか、千年かゝるか、見当もつかず、お先まつ暗らであった。
私はかような、混沌たる情勢の中で村長に就任した私が村長に就任して、最初に考えた問題は、諸塚村を復興するには何から手をつくればよいか、諸塚村復興の基本的な問題は何か、と言う事であった。そして私はいろいろ考えた。その結果、青年の教養と、産業の開発と、民主団体の組織、育成とこの三つの問題から始むべきであるとの結論に達した。この三つの問題を具体化して計画したのが、成人講座と成人祭、文化祭之を村の年中行事とし、更に村及び部落の自治を推進する文化会の組織と育成とであった。各部落に民主団体を組織することは、部落及び村の自治を振興する基本的な問題であるが、当時進駐軍は既成の団体を解散して、類似団体の結成を厳禁した。そこで私は別個の民主団体を作りたいと考えて、昭和二十二年一月、村民大会を開いて、之を誇った処が村民の賛同を得て文化会を組織した。その文化会は二度ばかり総会を開いて、省営バス運行陳情問題無電灯部落解消問題、その他重要問題を協議実行に移して、相当実績を挙げたが何分組織を諸塚村全地域にしたために、部落振興には不向き民主団体であったので、之を解散して、各部落公民館を設置することとしたのであった。当時、公民舘は文部省が奨励していたが、文部省の指示している公民舘は本村の自治振興とは縁遠いもので、私が意図している民主団体とも違っていたから、私は日本でも珍らしい新しいケースである公民館を全部落に組織したのであった。この公民館が公民館自体の自主的活動によって、部落振興に大きな役割を果たしておることは皆さんご存じの通りである。
それから、成人祭と文化祭とは本村の年中行事として決定して、毎年行うことにしたが、文化祭は村のいろいろな事情で行わない年もあったので、■年は第六回目の文化祭であった。文化祭の当初の計画は産業に関する品評会、産業開発に関する展覧会、村の奨励方針を指示する農家及団体の表彰、村民が一堂に会して親交を温むる芸能祭の開催等を目標としたものであった。成人祭にしても、成人講座にしても、青年教養と産業奨励の足がゝりにしたものであった文化祭と公民舘については他日機会を得て述べることにして、こゝでは何にヒントを得て成人祭を始むるようになったか成人祭誕生の動機について述べて見たいと思う。
現在の青年は経験がないから知らないであろうが、戦前の青年は満二十才に達すると徴兵検査を受けたものである。諸塚村は三田井で検査を受けたが、当時の青年にとって徴兵検査は楽しみの一つであって、未成年から大人に解放された気持ちになって、公然と巻煙草を吸い初める、酒を飲み初める、遊郭と言う処にも初めて行って、村に帰るとすっかり若者気取りになったものである。徴兵検査の結果が発表になり、合格者が決って、いよいよ入営することになると、各部落と部落民が全部神社に集まり、告別式が行われて「祝〇〇君之入営」と言う旗を押し立てゝ、村はづれまで盛んに送ったものである。一ヶ年半乃至二ヶ年の軍隊教育を受けて帰ると、また盛んに神前で奉告祭が行われて、区長さんから「諸君は立派な軍隊教育を受けて帰ったのであるから、これからは村のために、よい指導者になって頂きたい」と言う祝辞を受けたものである。
戦前の本村は、交通不便であった関係から、文化に接する機会が少なかったので、田舎者であったのが、一旦軍隊に入隊すると、規律ある軍隊訓練と、常識教育を受け、いろいろ地方の人達に伍してゆく内に、すっかり常識も出来、体も立派になり、入営の時とは、丸で見違えるような人間になって帰還したものである 帰ると在郷軍人会や消防団や、壮年会の部落幹部になって、自治のために働らいたものである。当時の軍隊では普通の入隊者では上等兵になるのが、最高の階級であった。それで当時の入営者は上等兵になるのが、神社で送る時からの念願で、三ツ星の上等兵になろう者なら、鬼の首でも取った時のように意気揚々と故郷に錦を飾ったものである村の人達も上等兵になる事を名誉として、賞讃の言葉を惜しまなかった。ある部落では上等兵になった者に銀時計を贈って、上等兵になる事を奨励した部落もあった。全村かような雰囲気にあったので、入営者も上等兵になるまでは気が気でなかったようである。
人生に於て、いづれの時期が一番大切であるかと言うに、幼年期も、少年期も未成年期も、それぞれ大切であるが、成人期は一応心身共に成人して、これから妻帯もし、独立した生活を営んで、ほんとうの人間としての生活をスタートしようとする極めて、大切な時期である。昔でもこの大切な時期を自覚せしむるために、男子十八歳に達すると元服祝と称して、もとゞりを上げ、衣服を改め、帯刀を許して、成人のお祝いをしたものである。戦前は徴兵検査と入営とが、丁度元服祝いの役目をして、公民教育を施し、成人した事を自覚せしめたものである。然るに終戦と共に、軍備を撤廃することになったので成人期に達したことを自覚せしむる、人生の大切な行事がなくなることになる。何時成人したかも分らない人生の区切りも分らないようなことになると大変である。これをこのまゝ放置したならば、青年の前途にも村の復興にも、大きな影響があると憂慮したので之に代るべき何か、よい施設はないかと、考えた末、思いついたのが成人講座と成人祭であった。私の計画では男満二十歳、女満十八歳を成人期として、この男女青年に十日間の公民講座を開いて、その終了式を成人祭とすることであった。
成人祭には青年団員、村有志が参列して、成人を祝福する計画をたてた。
かくして第一回の成人講座は昭和二十二年三月二十七日から一週間開講して、四月三日を終了式と共に成人祭を挙行した。成人祭の前夜はよど祭として、少量酒を乾杯し、歓を尽して成人の前途を祝福した。前にも申し述べたように昭和二十一年度は総予算六十七万余円であって極めて貧弱な財政であったので、有志の寄附によって、四千三百円を収入して、経費にあてた。講師には内田長平先生、中島歌子先生、藤寺非宝先生を招へいした。受講生の中には古本克磨君や甲斐忠重君などがおられる。
その後二ヶ年を経た昭和二十四年に成人の日と文化の日が制定になって、全国成人祭や文化祭が行わるゝようになった。本村の成人祭や文化祭は全国に先つこと二ヶ年である。かように輝かしい歴史を持つておる、成人祭、文化祭であるから益々盛んにして、所期の目的を達成せらるゝよう念願してやみません。
郷土誌編纂資料として書いておきました

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?