橘通のデパート、百貨店、市場
バスが人々の足であった時代には駅前よりも橘通が人々の集う場所であった。
明治十三年(一八八〇)に完成した橘橋が祝詞に由来しての命名で、この橋にかかる街道を橘通と呼んだのが始まりで、正式には明治二十一年(一八八八)宮崎町の誕生してからである。
昭和27年に後藤良則が創業。昭和47年にイズミヤ、その後、寿屋、ユニード、ダイエーが開業し、苦戦するようになった。昭和49年に後藤は76歳で逝去、昭和50年に倒産した。映画館であった橘会館はMRT宮崎放送に引き継がれた。
宮崎山形屋は、昭和十一年十二月、当初朝日通に開業した。現在地に四階建てに新築移転したのは昭和三十一年、更に昭和四十一年、六階建てに増改築を行った。
橘百貨店は、昭和二十七年七月に創業した。昭和三十年に一階から三階までエスカレーター二台を加え、五階地下一階建となった。ホールは一三〇坪、屋上には館R何社、回転ボートチェア、木馬、展望台、観光望遠鏡などがあった。昭和五十年に倒産した。映画館であった橘会館はMRT宮崎放送に引き継がれた。
昭和三十四年に宮崎スーパーマーケット(丸山町)、三十九年にフクエー大丸(上野町)、四十年にショッピングセンターマルショク(中央通)、四十七年にいずみや宮崎店(京塚町)、四十八年に寿屋宮崎店(橘通東)、宮交シティ(大淀)、四十九年に宮崎ショッピングバザール・ユニード(橘通東)が開業した。
一方、終戦直後の闇市の名残が現在まで引き続いている地域がある。昭和二十年八月十日以降の空襲に続いて、相次ぐ大きな風水害により商店街の被害は大きく、復興が進まないまま、二十一年江平一の鳥居付近、橘通の戦災跡地、大成座前、帝国館横などに青空市場、バラックマーケットがあらわれた。二十三年頃から警察の取締も厳しくなったが、絶えることは無かった。戦災復興事業の一環としての区画整理事業では、上野町通から西橘通に道路を設けるのに、昭和二十六、七年頃に三角地が残された。この周辺一帯は、遊興娯楽地域としてにぎわい、露天商が多かった。それらの集団によってできたマーケットに、青空・中央・ライオン市場などの青空ショッピングセンター、ニコニコ市場などがあった。昭和三十二年十月、陳情書を提出し、青空市場として存続することとなった。昭和三十七年一月現在四四人であったが、四十一年七月は二六人となり、五十年一月の調査では一九人と激減した。これら露天商の販売品目は、野菜類、果物、切り花、しじみなどであった。
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