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細島の民俗 渡辺一弘

※『日向市史』の草稿です。引用の際は原本をご確認下さい。


一、細島の概要

 古くから細島は、日向国あるいは薩摩への文化の流入口であり続けてきた。
 細島が、代々、南九州の玄関口として反映してきた理由として、自然の良好である点があげられるが、米ノ山、牧島山、その背後に控えた尾鈴山という港の目印となる山があったこと、日向灘(赤江灘)が、きわめて遠浅で、危険な荒れる海として有名だったため、その手前の細島や美々津で、上陸し、陸路で南下する方法がとられたためである。
 古代には、神武天皇東征の伝説が伝えられ、中世には、上井覚兼・島津義弘・島津義久・新納忠元らに関する資料にも重要港としての記述が散見される。江戸時代に入ってからは、はじめ延岡藩領であったが、元禄五年から幕府領となり日田代官支配地となり、元文二年までは細島町内に日田代官所の陣屋が置かれていた。港口には、遠見御番所が設置され、番人二人が詰め、外国船の漂着や毎日出入りする船の監視に当たっていた。また、諸藩の参勤交代の際の出入港としても利用され、高鍋屋・飫肥屋・薩摩屋などがあった。
慶応年間から明治、大正へかけて漁業の盛んな港として、また、昭和から大正時代の帆船による木炭はじめ各種資材の積出港としても栄えた港町であった。大正の初期、内務省より重要港に指定されてより、色々と規制があり、漁港としての設備はなされなかった。沖合は、水深三〇~八〇メートルくらいは、赤物(タイ・甘ダイ・ニベ・ハモ)などの資源豊かな漁場で、大正初期、四国八幡浜の底曳漁船の密漁の格好の漁場となり、細島と都農の漁民が結束して監視にあたり、小型で襲撃し、乗組員を相当痛めて問題となり、かなりの人数が警察に留置されたこともあったという。
 明治期に入ってからは、漁港としてのみならず、一気に商業港としての価値が高まり、大阪商船の行き来が頻繁になり、大正十年臨港線鉄道が開通し細島駅ができ、大正十二年に日豊線の全通により、細島港の輸出入量は激増した。昭和四十年頃から工業港から商業港へと移行し、その後、貿易港としての地位は衰え、日向市駅と細島駅を結んだ国鉄細島線の旅客部門は昭和四十七年に廃止された。
 簡単に細島の歴史を振り返ってきたが、時代の変化に変わり続けてきた都市的な町としての細島と、その隣にはその変化をすぐには受けない、常民の暮らしがあった。細島という町は、近代化と伝統、その二つの文化が常にせめぎ合い、影響を与え合ってきた町である。

★細島という地名

 細島という地名は、時代やその名称を使用する人々によって、微妙にその意味が違っている。細島半島とは、別名「ひょうたん島」とも呼ばれるように、日向灘に向かって約五キロメートル突出した半島で、米ノ山(一九二メートル)、牧島山(牧山、一一〇メートル)、櫛ノ山(九六メートル)がある。半島の北側、米ノ山と牧島山とに挟まれた奥行約二・五キロメートルの狭長な入江の奥に細島漁港(商業港)があり、古くは「うすき」の港として知られた。牧島山の西方には尾末湾に面して細島工業港がある。そのうち、細島町、および大字細島の地域は、入江の南側の地域を指している。
 細島町内は東西に分かれ、東は、宮之上、高々谷、伊勢、庄手向の四地区で漁師が多く、八坂と八幡は商人が多かった。西は、地蔵、吉野川、清正の三地区で、ほとんどが商人だった。

★地名の由来

 細島という地名の由来については、鉾島神社の縁起に次のような伝説が記されているという。
自ら水軍を率いて美々津をご進発になられた神武天皇(カムヤマトイワレヒコノミコト)が、細島の沖にさしかかられたとき、その付近の小さな島に鳥がたくさん群がっているのをご覧になった。そのとき「ここは鳥辺島か?」とおっしゃったので、それからその島をトベ島(飛島)と言うようになった。また、ビロウ島の付近で、大きな鯨が泳いでいたので、天皇が鉾で突こうとすると、その鯨は美しい女に姿を変えて、「私はこのあたりに棲んでいるものですが、今から子どもを生もうとしているところです。なにとぞ、その間だけは命を助けてください」と申した。天皇が大変憐れに思われ、許してやると、その美女はまた元の大鯨になって海に帰っていきました。天皇は「この島は美女が島か?」と申したのでビロウ島と名付けられた。この後、風向きが悪くなったので、天皇は一時船を細島の方に帰しました。この時、小舟を浮かべて釣りをしていた漁師たちが、急いで帰ろうとしたので、不審に思い、天皇は「なぜ急いで帰るのか?」と尋ねた。すると漁師たちは「いつも昼頃になると大きな魚がやってくるのでそれが恐ろしくて帰ります」と申し上げた。天皇は「それでは、釣りをする暇がない。自由に漁をすることもできないではないか。私が、その大魚が来ないようにしてやろう。この鉾をこの地に置き、これを三鉾神として祀れ」とおっしゃって、前に鯨を突いた鉾を与えました。そして「ここは鉾島じゃ」とおっしゃった。漁師たちは大いに喜び、「ありがたいことじゃ、これは鉾島の鉾神様じゃ」といった。これから後、漁師たちはこの地のことを鉾島と言うようになった。ずっと後になってこの鉾の字が細になったという。   (『日向市の歴史』)
 このように美々津とともに、神話に彩られた地域であり、様々な面で、神話的な説明がなされる地域である。このような伝承も戦前の紀元二六〇〇年記念式典の影響で作られた伝承も多く、今後腑分けされる必要があろう。

★『日向地誌』に見える細島

 近世期の細島の人々の生活については、歴史担当に譲るとして、ここでは近代以降の細島の人々の生活ぶりを見ていくこととする。『日向地誌』を通しては、幕末から明治初年にかけての人々の生活をうかがい知ることができるが、「日知屋村」の項目に「細島町」の記述が見える。
「細島町 本村の東南海浜にあり人家七〇一戸」とある。ちなみにその他、平野(三四戸)、曽根(七五,六戸)、幡浦(七五戸)、江良(七〇戸)、原町(七〇戸)、亀崎(八〇戸)、正手(四〇戸)、梶木(六〇戸)とあることから、細島町の大きさが分かる。海沿いの集落に関する統計としては、「日本形船 一五八艘」とあり、そのうち「二〇〇石未満五〇石以上運船四艘、五〇石未満運船五艘、漁船一四九艘」と、ほとんどが漁船であった。「細島港」の記述では「日向にては外ノ浦港と並び称する名港なり、一ヶ年出入船数大約千余艘出入貨物多しと雖も定数を算し難し」とある。
 漁獲されたものについては、鰹・六万尾、羽鰹・一万七千尾、鮪・三〇〇尾、小鮪・一万七千尾、鰤・一万七千尾、鱶・三〇〇尾、梶木通(グンバ)・二六〇尾、万引(マビキ)・二万八千尾、鰛・一五五万尾、小鯛六〇万尾、鯖・八〇万尾、■鱒ノ類・四〇〇尾、小鱶■鯛ノ類・二五〇〇尾、烏賊・三万尾、尾蛤・七二〇〇殻とある。万引とは、方言でマンビキ、標準語はシイラである。
 民業について、「村中、農を業とする者五〇〇戸、商を業とする者三五〇戸、漁を業とする者三五〇戸、農商の暇工を業とする者三七戸、紙を製する者八戸、瓦を製する者二戸、医四戸、牛馬売買二戸」とある。

★『細島町是』に見える細島

 明治四十四年に刊行された『宮崎県東臼杵郡細島町是』に、その時代の細島の実態が記録されている。まず、細島の当時の現況について次のように記されている。
 交通については、「道路は国道筋富高新町より分岐して市街中央部まで県道にして海陸運送接続し、港内には朝夕汽船の出入ありて、旅客を呑吐し、貨物は大阪・神戸・四国・九州より、陸は数十里外より山産物等の集散地にして市街はすこぶる殷盛を極む。日豊線鉄路開通して海陸運輸完備するに至っては人口の増加経済状態の改善著しく発展を見るは疑を容れざるところなり。」とあり、日豊本線開通以後の物流の増加が指摘されている。
 知性については、「土質は真土にして結塊に富み、田畑は狭隘にして、耕作を云々する価値なし。元来本町は水源に乏しく市街飲料水はわずかに付近の山間より筧を布き飲用す。」とあり、漁村中心のこの町では、土地も狭く、水も少ないため、田畑は少なかったが、その状況は今も変わっていない。
 田畑の少ない細島では、「物産は米穀にあらず蔬菜にあらず本町の富源は海産物にして就中漁業は県下第一位におるというも過言にあらざるべし。その主なるものはスルメ・甲烏賊・鰺・鮪・旗魚・鱶・鯛・鰛・白川小鯛にして、豊後・四国・神阪地方に輸出す。」とあり、流通の面では発達していたため、漁獲した魚貝類を販売するルートは整備されていたようである。
 人々の気質については、「人情風俗は二様に見るの穏当なるを信ずその一部の階級は社会の風潮を顧み進取の気象を有し理想を実現するの風あり。一部過半はこれに反し質朴にして進取の気風なくその懸隔霄壊の差あり、開港地の通弊して常に多数の旅客に接すれば人情浮薄に傾くもまた免がれざるところなり。」とあり、進取の気鋭に富む都市的な住民と伝統的な漁民を中心にした人々を対比させているが、漁民の中にも積極的に最新の漁具・漁法を取り入れ、新しい漁場を求める人々もおり、その一部が都農や通浜に移住したと考えられよう。
 この時期の人口は、在籍戸数(六四四戸・四〇一六人)に対し、現在戸数(六六四戸・三三七七人)である。戸数が二〇戸増えているにもかかわらず、人口が六三九人少ないのは、戸籍を残したまま、高鍋町・川南村・都農村へ漁業のため出稼ぎ、その他へ商業の出稼ぎ、入営軍人、遊学などの結果であると注記されている。細島漁民の移住についてはまた別項で述べることにするが、初期の段階では本籍を残したままであったことは注目される。
 農産物の生産高については、粳米が最も多く、次いで畑の裸麦が突出している。工産雑類として、醤油・傘・畳・竹細工・木綿織物があげられている。漁業部の統計には、「魚貝類」と「水産製造物」に分けられているが、魚貝類では鮪・鰛・鯖・鱶が生産額・価格ともに上位を占めており、鱶は鱶鰭に、鰹は鰹節に、烏賊はスルメにし、青物の魚は、干物や塩漬けにしている。
 「商業部」としては、「会社」「居商」「雑商」が紹介され、「雑業部」としては「職工」「労働」「勤労」があげられているが、記されているすべてを表で紹介しておいた。漁村ということもあり、生魚振売が六〇戸と群を抜いている。また、酒小売商・二二戸と別に泡盛商・一〇戸とあるのは南島との関係が伺われる。

【戸数・人口】
業別 主業 専業 兼業 計
農業・戸 12戸 6戸 11戸 29戸
農業・口 67人 27人 13人 107人
工業・戸 1戸 1戸 1戸 3戸
工業・口 8人 6人 2人 16人
商業・戸 29戸 168戸 37戸 234戸
商業・口 174人 854人 37人 1065人
漁業・戸 8戸 250戸 15戸 273戸
漁業・口 38人 1440人 16人 1494人
雑業・戸 26戸 163戸 22戸 211戸
雑業・口 125人 638人 28人 791人
計・戸 76戸 588戸 86戸 750戸
計・口 412人 2965人 96人 3473人

【生産高】
種目 生産高
粳米 104石8斗1升
糯米 20石5斗
小麦・畑 9石
裸麦・田 30石4斗
裸麦・畑 92石
陸稲 2石7斗
芋 1000貫
大根 2500貫
牛蒡 150貫
葉菜 600貫
茄子 500個
胡瓜 300個
筍子 700把
梨 320個
柑類 5700個
桃類 10000個
枇杷 2730房
梅 1石5斗

【工産雑類】
種目 戸数 生産額 単価 価額
醤油 3戸 502石3斗5合 石・14円50銭 7281円97銭2厘
傘 1戸 1100本 本・35銭 385円
畳 1戸 300枚 枚・1円30銭 390円
竹細工 2戸 - - 700円
木綿織物 6戸 360反 反・1円50銭 540円

【魚貝類】
種目 戸数 生産額 単価 価格
鰹・カツオ 260戸 2638貫200目 1貫・60銭 1582円92銭
鮪・マグロ 260戸 17158貫900目 1貫・80銭 13727円12銭
鰛・イワシ 44戸 46440貫800目 1貫・20銭 9288円16銭
鱶・フカ 85戸 22726貫 1貫・40銭 9090円40銭
鯖・サバ 260戸 20237貫700目 1貫・30銭 6071円31銭
鰺・アジ 260戸 11480貫400目 1貫・25銭 2870円10銭
鯛・タイ 260戸 2162貫400目 1貫・80銭 1729円92銭
鱰・シイラ 85戸 12883貫200目 1貫・25銭 3220円80銭
鰆・サワラ 260戸 751貫900目 1貫・1円 751円90銭
柔魚 260戸 6620貫500目 1貫・20銭 132円70銭
烏賊・イカ 260戸 8345貫200目 1貫・50銭 4172円60銭
魣・ 260戸 293貫 1貫・40銭 117円20銭
鰘・ムロアジ 35戸 875貫 1貫・30銭 262円50銭
ユラ 85戸 1253貫600目 1貫・80銭 1002円88銭
ゲンバ 85戸 1431貫800目 1貫・80銭 1145円44銭
雑魚 260戸 - - 8922円50銭
貝類 - 199貫200目 1貫・60銭 119円52銭

【水産製造物】
種目 生産高 単価 価額
鰹節 313貫 10貫・30円 990円
甲付鯣 800貫 10貫・15円 1200円
水鯣 100貫 10貫・31円 310円
二番鯣 1000貫 10貫・15円 1500円
鱶鰭 2000貫 10貫・25円 5000円
干鰛 1500貫 10貫・10円 1500円
干魣 1000貫 10貫・10円 1000円
干鯖 500貫 10貫・8円 400円
干鰺 2500貫 10貫・8円 2000円
塩鰛 15000貫 10貫・3円 4500円
塩鯖 4000貫 10貫・5円 2000円
塩鮪 1000貫 10貫・6円50銭 650円
其他 600円

【商業部】
会社 日州銀行細島支店、朝屋銀行細島支店
居商 椎茸商(12戸)、生魚商(17戸)、生魚振売(60戸)、醤油製造業(3戸)、漆器商(1戸)、呉服太物商(6戸)、金物商(2戸)、履物商(6戸)、陶器商(3戸)、紡績糸商(2戸)、煙草小売商(16戸)、砂糖商(20戸)、白砂糖商(8戸)、石油商(6戸)、乾物商(4戸)、肥料商(6戸)、穀物商(6戸)、薬種商(3戸)、洋酒商(6戸)、醤油商(7戸)、味噌商(20戸)、酢商(6戸)、古着商(4戸)、呉座商(5戸)、茶商(3戸)、時計商(1戸)、硝子商(3戸)、種油商(5戸)、文具商(6戸)、酒卸売商(10戸)、荒物商(5戸)、小間物商(3戸)、泡盛商(10戸)、傘商(3戸)、板商(7戸)、塩商(16戸)、度量商(1戸)、竹細工商(2戸)、紙商(5戸)、足袋商(6戸)、売薬商(3戸)、菓子商(7戸)、饅頭商(3戸)、帽子商(6戸)、素麺商(10戸)、酒小売商(22戸)、木炭小売商(6戸)、山産物商(38戸)、木炭商(14戸)、石油小売商(25戸)
雑商 飲食店(7戸)、仲立業(2戸)、回送業(3戸)、質屋商(5戸)、木賃宿(6戸)、旅人宿(8戸)、料理屋(4戸)、賃座敷(3戸)、牛馬売買(2人)、湯屋業(2戸)、豆腐屋(15戸)、菓物商(25戸)、切手・印紙商(2戸)、氷商(2戸)、テグス小売商(2戸)、麻苧商(3戸)、網商(2戸)、周旋業(7戸)

【雑業部】
職工 大工(10人)、左官(2人)、裁縫職(10人)、時計師(1人)、畳職(2人)、桶職(2人)、仲仕(21人)、下駄職(2人)、女髪結(4人)、錻力細工職(3人)、理髪職(5人)、提灯職(1人)、船大工(3人)、石工(1人)、自転車職工(1人)、紺屋職(5人)、織物工女(6人)、傘職(2人)。
労働 他町村より送金(50人)、港湾浚■船夫(9人)、土方人夫(7人)、人力車夫(4人)、按摩(4人)、鍼灸術(1人)、配達人(3人)、荷馬車(3人)、通船夫(2人)、日雇人(30人)、舟乗業(5人)。
勤労 恩給扶助者(24人)、諸給報酬(497人)、医者(2人)、僧侶(6人)、銀行(8人)、会社(3人)、日高代理店(6人)、産婆(2人)、神官(3人)、小使(13人)

二、伝説を生みだす土地

 細島は、神武東征伝説に始まり、古くから様々な伝説の生まれる場所となっている。それは、交通の要所であり、この細島を起点に南島および九州各地へ、また四国・大阪へと様々な人々が行き来する都市的な地域であったためであろう。
 細島を起点として伝説の話が展開するものとして、平家の落人伝説があげられよう。壇ノ浦から逃れた安徳天皇一行が硫黄島へ行かれる途中、細島に滞在したという伝説や、平家残党を討つために工藤祐経・那須与市らが上陸したという伝説、那須与市の弟大八郎宗高が平家残党追討のために上陸し椎葉へ進んだという伝説などに細島があらわれる。
 壇の浦合戦の前、元暦二年三月十五日に、平家の一門が打ち合わせて、安徳天皇を落とし参らすべしというので、十五日の暮れ方に壇の浦を出て、翌十六日に伊予の高島に着き、その翌日に細島に着いた。そして、しばらく潮掛かりして、福原相模守季長が手下の者二十人を山伏に仕立てて諸方の情報を探ったところが、豊前、豊後の者どもは続々と源氏方についているから油断がならないということで、三月二十九日に細島港をたって、志布志を経て、硫黄島へ行かれたという。(『日向ものしり帳』)
 富高の八幡神社に伝えられる由緒記には次のように記されている。元暦年間平家の一族が安徳天皇を守護して、豊後国平家山にたてこもった。これを聞いた源義経は早速、工藤祐経、那須与市を征討軍として、日向へ下向させた。二人は幡浦(細島町の対岸の集落)から上陸し、臼杵の庄に到着してこの地に築城した。(『宮崎県神社誌』)
 この他、鹿児島県の種子島にも細島を舞台にした伝説が伝えられている。

○馬立の岩屋にまつわる話

 太平洋の荒波が作り上げた自然の洞穴が犬城海岸の北端にあり、ロマンを秘めた景勝地として知られている。この洞穴で消息を絶ってしまった島主、種子島幡時。幡時の愛馬が主人の帰りをずっと待っていたことからこの名称がついた。そこにはこんな話がある。
 十代目島主、幡時は本妻の子供がおらず、日向(宮崎)の細島に妾(愛人)の子供しかいなかった。そのため天犬の術((犬神使いの呪術で犬神にとりつかせて、奇妙な病気で呪い殺す))という兵法修行をこの岩屋でしていた。しかし、十一代島主の決定を見ないまま天犬修行中岩屋の中で行方不明になった。主人の帰りを待つ馬だけがいつまでも立っていたことから馬立の岩屋と呼ばれるが、またの名称を魔立の岩屋とも呼ばれる。それから数日後、幡時のすげ笠茎永の宝満の池に浮かび、池が血の染まったという伝説もある。行方不明になった背景には十一代目島主時氏に反対する者によって殺害されたとも伝えられている。
 細島町内に伝えられている最も有名な祟り話は「祐邑の亡霊と日要上人」であろう。

○祐邑の亡霊と日要上人

 文明の頃、伊東氏は都於郡(児湯郡)城主として威を日州に振っていた。城主祐国は飫肥のほとりで島津氏と戦って陣没した。祐国に尹祐という子があり、祐邑という弟があった。祐邑は日知屋城におり、尹祐は都於郡の本城にいた。尹祐は叔父の祐邑が野心を抱いていると疑い、刺客をして祐邑を殺さしめた。祐邑は凡人でなかったのか、その祟りが甚だしかった。彼の霊は武人の姿となり、白馬に跨って、夜々出没した。細島の町内には病死者が多くなった。
 この時、細島の日要上人というのがこの祟りから衆民を救おうとし、三秘密の大法を修し、自ら題目を石に書いてこれを海に沈め、法華経を読誦し、町民伊太郎、伊次郎の二人に命じ、鬼面の的を作って、これを射させなさった。これは正月十五日のことで、以後この日には八幡神社に詣でて大的を射る例となり、最初にいる二人を太郎次郎と称することになっている。かの伊太郎は、今の関本保太郎の先祖で、この祭の日には同家より玄米一升を神前に捧げ、且つ祭(祈念祭という)の主事者となるのである。(鈴木健一郎著『日向の伝説』)
 この祟り話は現在でも的祈念の由来譚として語り伝えられている。
 また、京都や大阪との文化の流入地点として、物語の舞台となる例も多い。

○織田大明神伝説

 延岡藩主有馬氏の時代に織田信長の弟の孫といわれる杢之丞と半平の兄弟が客分■として城内にいた。織田を名乗るだけあり、気位の高い性格だった。
 ある日、殿様が杢之丞の履物を踏んだところ、くっついて離れなくなった。杢之丞が「許す」と言うと離れた。これを見た家老が、「殿様に ″許す″とは失礼な」と捕らえ、半平と共に日之影に送り、杢之丞は平底、半平は深角の牢に入れた。織田兄弟は、馬に乗って立派な直垂姿で送られてきた。深角の牢には平家の落人の子孫という娘がいて、親しく世話をし子供まで生まれる仲となっていた。学識があり予言の能力を持っていて「からすの鳴き声が、いつもとかわっている。平底の杢之丞が毒を飲まされ、死にかかっているからだ」というと、そのとおりであった。
 藩主からの「罪を許す、帰城せよ」という知らせを代官の西与兵衛がにぎりつぶし、ある夜「火事だ」と村人が言うのを聞いた半平が窓から顔を出したところを、絞殺した。
 息を引きとるときに、「罪なくして殺害されることを恨む。七代の孫まで災難を与えるぞ」と云い残した。京都にいた織田兄弟の母は、二人が許されて出牢すると聞き、迎えに来て細島港に着いたとき、「殺害された」という知らせを受けたので引きかえした。「火事だ」と嘘を云って殺したので、深角地区には火事が多く発生した。「織田様のたたりだ」というので、大般若経を一字ずつ石に書いて埋め、舟の尾の昌龍寺で三日問の祈りを捧げてもらったら、火事は起こらなくなった。(『出典■』)
 さて、ここで、地元細島では全く知られていないが、鹿児島県では有名な「細島婆伝説」という話がある。前に紹介した「織田大明神伝説」の「罪なくして殺害されることを恨む。七代の孫まで災難を与えるぞ」という共通点があり、大変興味深い。

○細島婆伝説

 伝説の舞台となる木ノ氏集落は、鹿児島県大口市の市街地から北に約四キロメートルの所で、高熊山の南麓にあたり、水之手川を上流に行くとすぐに人吉市である。西南の役の古戦場である高熊山からは木ノ氏集落が一望でき、この山は釈迦段を中心とした信仰の対象ともなってきた。
 現在の木ノ氏集落は、東側の川筋には田園が広がり、西側の台地には畑地が広がる比較的開けた印象の土地であるが、永禄十二年(一五六九)、新納忠元が領地を与えられたときには、大口一の悪地で不毛の荒地であったという。忠元は木ノ氏川西岸の地の開墾に着手し、慶長五年(一六〇〇)迄の約三〇年間に五〇町歩余りの水田を開かせている。現在の木ノ氏の田が約七〇町歩であることから比すれば、その大部分をそのころ開田したことになる。
 「細島婆伝説」の元になる事件が起こったとされるのはまさにこの時代である。関ヶ原の合戦が西軍の敗戦となり、島津義弘が僅かな兵力で敵家康の本陣を突いて退路を求めた話はよく知られた話であろうが、その後日談として、細島婆の話は続く。以下は、「細島婆の経歴について」『郷土史蹟調査』(謄写版。牛尾校(牛尾小学校)編、昭和九年三月)より引用する。
 新納弥太右衛門忠増は関ヶ原にて敵味方乱戦の際、義弘公と別れて長寿院戦死後味方にも離れて、主従七人敵中に斬入に、大坂に忍出た處、落人の捜索が甚だ厳しかったから、彦左衛門と云ふ人の家に至って頼った處、彦左衛門快く請合ひ、仏壇の下に隠し置いた。
 新納弥太右衛門忠増は彦左衛門に曰く、「吾等一行を九州地まで送り届くれば高禄を与へる」と。
 丁度其の時、日州表に綿荷積船の必要おこりたるため、彦左衛門一策を講じ、商品と共に荷内に隠れしめ、かくして船中に積み載せて日州細島(耳津川)に着船した。
 然るに、船頭即ち彦左衛門親子に、新納氏禄を与へる資格なく、且つ事面倒になるのを慮り、一思ひに殺害せんと決心した。そして、木ノ氏の士、川畑某(何人なるか不明)四人の船頭を殺す。そして、陸路小林を経て十一月十二日大窪村に一宿して帰着した。
 上陸した時には銭千貫どころか、乱軍の末、遠路の逃避行の末とて、路銀も全く使い果たし、与えるべきものとては無いのだった。これに加えて、その時までは東軍の追捕の虞れがないわけではなく船頭を通して漏洩の心配もあり、仕方なく忠増は従者木之氏の川畑某に命じて、彦左衛門父子を切らしてしまった。
 後に残った妻は、夫と一人息子の便りを待てどないので、不思議がり、且つ新納氏の仰せの如く、或は高禄を賜り楽しき生活を営んで居るだらうと、一面希望を持ちながら、大坂を出発して日州に向か った。そして細島に着いて、事の由を仔細に聞き尋ねてみるに「上陸するや四人の船頭は殺された」と・・・
 ばあさんは事の意外に倒れんばかりに驚き、且つは其の無慈悲怨恨に報仇せんと決心し、身を清め、心を鬼となし、仏像を逆につり下げ、七日七夜松葉にて燻し、先方に怨が達し祈願成就するよう心霊をこめて祀りて死す。
 幾ばくなくして、其の念、鹿児島市の新納家に祟る。即ち、屋敷内に時々白髪のばば現る。其の際、其を見た者は直に其場に気絶し死に至る。
 事の不思議なるに新納氏あやぶみ、山坊主にうらない見るに、彦左衛門の妻(細島にて怨死せし為め細島ばばといふ)の祟りなること判明した。
 そこで新納氏は、神仏にかけ、殺害せしは吾にあらず、木ノ氏士であった。木ノ氏へ行って祟られたしと、山法師に頼みて請願した。
 それ以来、新納家は事無きも、木ノ氏川畑家は勿論、近所近辺の人、牛馬に祟り、災難続く故に、木ノ氏一同の士相はかりて易者に検するに、細島ばばの祟りなること解る。
 故に、日向の細島に行き、細島ばばの墓に参り、交代に毎年参詣することに決す。
 一度此の風に逢ふと病人は船頭のまね(ギッギッギッ、エンシンエンシン)を言ふて神経になって死すとの事である。(以下略)
 木ノ氏集落から美々津正覚寺への代参は明治の中ごろまで行なわれたが、明治二十四年、牛尾の山坊主中村亀吉のすすめで、「戸数宛壱銭、人ひとりに付壱銭宛徴集」し、一大法要を営み、木ノ氏墓地に供養墓を建て、代参は中止されることとなる。その後、この伝説のことは地元でも知る人はいなくなった。

三、細島漁民の歴史

 1、細島漁民の移住

  ★移住のはじまり

『本藩実録』には、細島の漁船の都農沖での密漁のことが記されている。■同年十二月、都農沖で密漁をしている細島漁船を発見し、地元漁船が近づき中止を求めたが、幕府代官所の許可印をもらっていると拒絶し、なおも漁を続けようとしたので、さらに、許可印を見せることを迫ると、持参していないことが判り、追い返した。ところが、翌日も密漁している。今度は釣具など箱一二個を取り上げて、追い返す。だが、細島には帰らず美々津に乗り入れて、道具を取り上げた証明をくれるよう、強く求めて来た。ことは複雑になったが、天領と藩の役人同士の話で何とか治まった。(『都農町史』)
 近世期から細島の漁師は、良い漁場を求めて積極的に船を出していたことが分かる。
 江戸時代、都農の海岸沿いの地区の人々の本業は農業であったが、地引網・建網など網漁を行う漁業も行っていた。そこに、明治維新の少し前一本釣の技術を持つ専業漁民が細島から移住して来た。この人たちは福原の海岸下浜に定住し、人数が増え地区を作って、明治の末にはすでに魚市場の実権を握るほどになる。その後、その人たちの子孫の手で都農の漁業のすべてが仕切られるようになった。
 本格的移住は、都農町部当緒方安兵衛の力により、慶応三年(一八六七)の細島漁民の移住から始まったという。明治元年(一八六八)高鍋藩提出の書類によると、毎年春、秋には細島・尾末(門川町)・外浦(南郷町)から多くの鰹船が来て漁をしているが、都農の漁民は道具を新規に買い与えても釣ることができない。一方、高鍋藩では鰹をよく食い、他藩から買ってもまだ足りない状態で、細島の漁民の高い釣り技術でカツオを漁獲するために移住をすすめたという。しかし、明治二十四年、緒方安平(安兵衛)が漁民の移住の功績で児湯郡長から表彰を受けた際には、移住目的はタイ釣りを盛んにするためであったと書いているという(県古文書「褒賞明治二五年」)。
 細島から移住が始まって、下浜地区の世帯数は増えて、明治二十四年に四〇数世帯、平成四年(一九九二) には二四七世帯となり、三日月原とともに町内での最大世帯数の地区となった。

  ★昭和における細島からの移住

 昭和四~五年頃、細島の漁師が移住してきた。黒川利助・一政万次郎・大橋庄市・橋本市次朗等であった。彼らの船は、三尋余りの小さな漁船だが、スイシ帆帆走で、強風の中にあって安心のできる帆走であった。当初、地元漁師はしばらくなじめず、いろいろ難点もあったが、一人二人と角帆を改造して、スイシ帆に仕立てるようになると、大変便利であり、次々に改造するものが多くなって、この安全性を見て、スイシ帆の漁船は増えてきた。この帆の形は、中央部に二本の竹製の桁を、表とウラに抱き合わせて固定し、上下に二ケ所に固定したもので、角帆のように小道具はいらない。この帆走によって漁獲が一段とたやすくなった。カツオ・ヨコワ・サワラ・サゴシなどのマギリ釣りには最適のものであった。この意味で移住民の漁獲が増え、地区外からの移住も増えた。
 一七~一八才の頃になると、三尋余りの漁船を建造し、または中古船を買い入れて、沖箱(釣道具入れ)とガエをもらって、独立自営するもので、当時は小学校を卒業し、二~三年父親より仕込まれ独立したものでああった。彼等若者たちは、小さいながらも船に一人乗りで、大灘(デナン)に乗り出して、黒潮本流付近まで出漁し、曵縄をさげて走る。カツオ・ヨコワ主体に釣っていた。
 強風下にあって、風波に高く荒れ狂う海上を、巧みに操業し、油断なく勇敢に頑張って働いたものである。スイシ帆帆走によって海難事故はなくなった。明治・大正・昭和(戦前)にかけて漁撈法の移り変わりは急速に変ってきた。(山本健治『都農の漁船の歴史』)

 2、昭和初期の漁業

 昭和初期、細島の経済状態は一部木炭、椎茸類を扱う商家や海運間屋などが盛んであったが、ほとんどは漁師の水揚げが大きく町の経済を左右していた。大正二年頃、商業港として重要港湾に指定されたために、その頃の漁民の要望であった漁業の基地としての設備は何ら聞き入れられず、住民の上申は補償どころか一方的に決められていた。
明治から大正へかけての細島漁民の生活基盤としての漁業は、アマダイ、ニベ、カレイなどの高級魚の手釣り一本釣りに九〇パーセントは従事していたが、その後、底曳網に昼夜となく荒らされ放題で数隻しか操業していない。
 細島港の昭和六年頃の水揚高は一四万円、漁船一六〇隻、加工高二万五〇〇〇円、鰹六万尾、ハガツオ一万七〇〇〇尾、キハダマグロ三〇〇尾、カジキ二六〇尾、小シビ一万七〇〇〇尾、ブリ一万七〇〇〇尾、マンビキ八〇〇〇尾、フカ三〇〇尾、アジイカ三万三〇〇〇尾などと当時としては県北一の水揚げを誇っていた。
 重要商業港に指定されてから、岸壁や物揚場等に計画はあったが、財政事情により実現されず、しかし漁港としての機能も認められず、新産業都市に指定された後、はじめて漁船の船溜りが補償の肩代わりに築かれたのみであった。
 昭和二十六年、市政が敷かれて、漁業振興のため、市より一〇万円の補助を受け、中古大型帆船を購入し、築磯として設置していたが、それも現在では近隣の小型底曳船の操業に影響ありと横槍が入り、一本釣り業者のささやかな希望すら断たれている。
 昭和三十年から四十年にかけて東九州沖でアジの活餌で相当水揚げのあったマグロ延縄漁は、昭和四十八年のオイルショック頃からアジが釣れなくなり中断されていたが、その後、ヒラゴ鰯の豊漁で細島の青年が開発したナイロンマグロ縄で十年前以上に水揚げされた。従来のマグロ縄(綿糸のタール染)から一大変革をきたし、その優れた漁法は全国的に大きな反響を呼び、近くの漁業関係者は勿論、遠く和歌山、千葉方面からも視察が後を断たない。ナイロン製造の企業にもおおきなブームを呼んだ。
【写真1】細島港 富島漁協に水揚げされる。

 3、伝統的な漁法

  ①近藤宗八さんの話

 近藤宗八(そうはち)さんは、大正八年に細島高々谷で生まれた。明治時代、高々谷・伊勢町・宮ノ上からは通浜に移住し、庄手向から下浜に細島の漁民は移住したので、近藤家は、通浜に親戚が多く、祝い事で行き来していたという。
 近藤さんは、尋常小学校を卒業してから漁の修業をした。まず、三丁櫓の帆船の櫓の扱い方を習った。波が高いときには櫓をこまめに扱わなければいけない。そうしないとハヤオが切れてしまう。櫓がくびってある(結んである)ところが切れたり、櫓が折れたりすることもあった。櫓はイチイガシを材に船大工に作ってもらった。帆は、スイシボとカクボを使い分けていた。最初は家にいても沖でゴーゴーと波の音がするだけで酔うものだったが、そのうち舟に乗っても櫓をこぐと酔いを忘れるようになった。戦前の漁は、帆船でのマンビキ(シイラ)・ドーマン(アマダイ)などの延縄が中心であった。
 父親は厳しくなかったが、漁については見様見真似で覚えた。海は恐くはなかったが、ある日、フカを捕っているときに、突然竜巻が起こり、やっと逃げ出したと思ったら、別な竜巻が追いかけてきたことがあった。言い伝えでは「竜巻は、雲の流れる方向に進むので、雲の流れと反対方向に逃げるとよい」と聞いていたが、年寄りの言うことも当たるのだとそのときに感じたという。風については、ハエカゼ(南風)、アラハエ(雨を含んだ風)、マジノカゼ(南風、ハエカゼと同じ?)、アオキタ(八月から十月の北風)、タカワタシ(鷹が渡る風。十月から十一月の北風)、ハマニシ(十一月頃西に吹く風)、タカマジ(南東風)などの呼び方があった。衣服は、戦前は刺し子でできたドンザを来ていた。寒いときには綿の入ったノノコを着ていた。服は母親が手縫いで作ってくれた。
 学校卒業後、二〇歳で徴兵検査を受け、二一歳で軍隊に入ったが、昭和二十年十二月二十八日に細島へ戻ってきた。戦後は電気チャッカーの船が普及し、父親と宗八さんと二人で舟に乗り、たまに舟を持たない人を乗せることもあった。船霊様は船大工が作り、ご神体も入れた。船降ろしの時には若いもんたちが飛び込むものだった。美々津では船に女性の名前を付けるのが普通だが、細島ではそういうことはなかった。宗八さんの帆船の時の船名は「光栄丸」、動力船は「八幡丸」であった。八幡丸は三、四回買い換えた。
 手釣りの一本釣りが多く、テグリエビ(手繰り網で捕る)を餌にしていたが、それ以前はイカを使っていた。クレモナの糸で、一〇~一三本くらいの枝縄を付け、道具を手作りした。曳縄では、シビ(キハダマグロ)、ヨコワ(本マグロの幼魚)、トンボ(ビンナガマグロ)、メシビ(メバチマグロ)・カツオ・マンビキを釣った。曳き縄の仕掛けはクダに鶏の羽根を付けたもので、クダに使う鹿や水牛の角は漁師にもらったり、購入したりして入手した。
 一〇人友達がいるとワケモンヤド(若者宿)を決めた。若者宿では「おまえ、どこの女が好きか?」と聞いて、友達が結婚の中継ぎをしていた。このことを「世話する」と言った。今の若い人は自分が結婚したら他の人は関係なしといった感じだが、ワケモンヤドでは「世話する」のが当たり前であった。昔は、稼ぎはいったん親に預けてから、小遣いをもらっていた。細島には西川・高塚という女郎屋があったが、そういう店には「そねがわりい人」が行くものだと言われていた。
 以下、漁についての言い伝えを列記する。オコゼを山の神という。角のある貝を玄関に下げて魔よけにしている人もいた。酢の物を漁には持っていかないものであった。細島では、水死体を見つけて喜ぶことはなく、平成に入ってから水死体を見つけたが、漁は良くならなかったし、奥さんが亡くなってしまったので、決して縁起のいいものではないという。エビスさんはトベ島に祀ってある。米ノ山に祀ってある稲荷さんの祭りを初午の日に行う。
(以上の近藤宗八さんの話は、平成十三年の筆者による聞き書きをもとにした。)
【写真2】富島漁協での水揚げの様子
【写真3】水揚げされたマグロ

  ②上村喜一さんの話

 もともと先代は石井家に生まれたが兵役除外のため、上村家へ養子縁組したという。昔はこの沿岸域に伊勢エビが多く、佐伯や蒲江あたりからエビ建て漁(伊勢エビ磯建網漁)に来ており、その漁が縁でここ細島に住み着いた人が多いという。この地域にはサザエも多かった。高さが一寸以上は採ることができない決まりがあり乱獲しなかった。昭和四~五年頃からナガレコ(トコブシともいう)が取れ、当時一日一円~二円とれば最高であったという。
 カツオ釣りには、四国の親方が台湾に製造場を持っていたので台湾付近まで行っていた。門川や土々呂や赤水などからも来ていた。船は長さ一五尋位で、焼き玉エンジンであった。六〇~八〇トンで五〇人乗り組んでいた。一日一万貫揚げると珍しく、親方がマンゴシ(万越)祝いをした。木綿の赤鉢巻きや浴衣で大賑わいをした。旧の三月頃から六月頃までの三か月位に四万~五万貫獲れた。当時月給が三三円で村長や町長なみの待遇だった。三三円のうちから小遣いを五円ずつ渡し、残りは親方が直接実家に送っていた。
 イワシに付いたカツオを釣りに行った。これは、鯨の動きに敏感なイワシが水面に上がりそれにカツオが付くもので、水面に上がったイワシを見つけた漁師は「エートコが上がった」と叫んでいた。ユラ縄(タラの様な体長一メートルくらいの深海魚で探さ二五〇~三〇〇メートル付近)釣りで獲れた小フカとともに塩漬けにし、旧の正月に田舎に売りに行った。そんな漁船は一〇艘程度しかいなかった。そして、田舎の小売人を泊めていた家もあった。
 マギリ漁(船を風に任せてギジ針を引っ張りながら釣る曳き縄漁)ではアジ・サバ・タイを釣る小船が多く、その新造船は、女、子どもを乗せて鵜戸さん参りしていた。大きい船になると四国の金毘羅さんへ参っていたが、数は少なかった。飛島のエビスさんの祭り(十日エビス)が旧暦二月十日にあり、漁師全員で船留めをして代表者がお参りしていたが、今は組合で行っている。
 一四歳頃の年寄りの服装は、六尺ベコ(フンドシ)が多く、盆と正月に新調していた。履物も今のように長靴などはなく、藁草履の下に自転車のタイヤを取り付けたものを上履きにしていた。蓑を着ていた人もいたが、手縫いのドンザをよく着ていた。
 旧六月十四~十六日に行われた祇園祭りでは、八幡区(西)と庄手向(東)が中心になり、漁師の担ぐ神輿が喧嘩をはじめ、夜になると太鼓台や商人までが東と西で喧嘩していた。三月、五月、九月の節句には必ず漁には出ずに祝いをした。一人が何拾銭か出しあい「ヒカリ」という賭け事をして酒を飲んだり、菓子を買って食べたりした。
 また当時は「若者宿」というのがありよく遊んでいた。一つの宿に五~六人いて、頭がおり決まりがあった。男女が好き合っても親が結婚を許さないときは、「ハシリ」といって若者たちが二人をかくまった。ザイの方(曾根あたり)へ間借りさせ、年少者が米や味噌を運んだ。いくらか包みをもって見舞いをしたり、励ましにいったりしながら仲介を作ってやったりして結婚へと導くものであった。
 幡浦あたりには船大工が多かった。新船は満潮に合わせて降ろすものであった。櫓が六丁も七丁もある大きな舟が多く、小さくても三丁くらいはあった。船降ろしの際には、七回右回りする習わしがあった。足の強さを図るため多勢が乗って揺らすものであった。船主とかその身内は捕まって海に投げ込まれるものであった。冬でもそんな習慣があった。船は四~五隻のマグロ船も出て二日ぐらい祝いをした。
(以上の上村喜一さんの話は、昭和六十一年の黒木和政氏による聞き書きをもとにした。)

  ③平坂徳治さんの話

  ★漁場

 大正初期には、米ノ山の稲荷神社の森から見下す太平洋の南下が細島漁民のいう「ウシロウラ」であり、高級魚の豊富な漁場で、港からわずか一〇~一五キロメートル辺りで、鯵・チダイ・マダイと手漕ぎの小舟で盛んに釣れていた。新緑の頃になると、マンビキ(シイラ)、カツオなどはそう遠くまで行かなくてもウシロウラの沖で釣れていたという。マンビキは季節の魚で、五~六月にかけてが、最盛期で、細島近郷の農家は梅雨に入ると田植となり、近所総出の労役のあとにはマンビキで豊作を祈念する。その行事にはなくてはならない魚であった。マンビキという名から、一粒万倍のひたむきな願いがこめられていた。
 大正五年頃、イルカの大群が、細島内港の番所ケ鼻から向かいにあった捕鯨会社のあたりまで二〇〇メートルくらいの長い列で、交互に白い飛沫をあげながら飛びあがり、畑浦の前浦の近くまで行く光景を見た。出る時はなぜか飛ばずに出た。あれは畑浦のお地蔵さん参りに来たのだと母がよく話してくれたのを今でもはっきり覚えている。今でも後裏の磯辺で時々見かけるけれど、港は船の出入りが多いせいかイルカのジャンプを見ることはできなくなった。
 現在、マグロ延縄が特に九州沖合の近海物として値段も良く盛んに漁獲されているが、この操業の先祖は、明治時代から宮崎県では細島の漁民と日南油津港の漁民だけで、何の設備もない帆船で、今でいう八~一〇トン前後の小型船で、磁石を頼りに沖合はるか一〇〇里以上の漁場で、旧正月明けから操業してビンチョウマグロなど、土佐の清水港に水揚げして、四、五日がかりで帰港したという話は、慶應元年生まれの父から聞かされていた。無謀というか何の計器もなく動力もなく、もちろん氷もない時代、ただ小さいウルメ鰯の塩辛のようにした餌で、一日二日操業して、トンボシビ二〇〇~三〇〇くらいを釣り、帰りはひたすら西のコース一点ばりで帰港していたという。

  ★カツオ一本釣りについて

 明治時代の細島漁民のカツオ釣りは、全長八尋(約一二メートル)くらいの船の胴の間に大きな樽を積み込み、海水を若者が交互にエナガ(柄長。大きな柄の長いヒシャク)で汲み入れて、底の方に水を流出させる穴を明けて、出す海水と一定の容積を保つようバランスを保ちながら海水を汲み入れる。小さなカタクチ鰯を傷まないように活かして、漁場に到着するまでは連続の汲入作業で大変な作業であった。カツオの群に出会えば、一人が樽の中の鰯を小さなエダマで撒き、他は全員釣り方で一生懸命釣り上げるが、一人は必ず餌樽の海水を汲み入れる作業を止めることはできなかった。
 カツオの群も喰いつきのよい時は、擬似餌つまりサビキではねられる(釣ることができる)が、喰いつきが悪くなるとカタクチ鰯を死なないように釣り針に刺し、水面に要領よく泳がしながら、それにケブラ竹という小さなシャモジに似た五尺(約一メートル五〇センチメートル)くらいの弾力のある小さな竹の先端に固定した物を右手で自分の刺して泳がせているエサの上に散水する。カツオが喰いついたら、素早く右手のケブラ竹も左手のカツオ竿と一緒に握りしめて釣り上げる。この難しい技術を訓練しなければ一人前の釣り手にはなれなかったという。
 明治中期頃、国内にはそうしたカツオ釣りをやる漁港が少なかったせいか、細島の優秀な青年が遠く奄美大島までカツオ釣りの指導に招かれたという。明治後半から大正にかけて木炭を燃料とした四サイクル発動機も普及してカツオ船も大型化し、餌樽も大きな造りつけの活槽となり、ケブラも散水ポンプに取って代わった。
 このカツオの習性は、今も昔もカツオの習性には変わりはない。雨の雫のように散水するのは、撒いた餌や釣り針に刺した餌が元気よくみえるのか、または光線に反射して数多くみえるのか、とにかく何かの故障で散水機が止まった場合、今まで盛んに喰いついていたカツオの群は、深く沈んで餌に見向きもしなくなる。
 明治後半から大正にかけて細島の仲買人は、それぞれ自宅にカツオ節製造の釜や節をならべて蒸すセイロ等が、設備されているのを通学の行き帰りによく見かけたものだった。
「目に青葉 山時鳥 初鰹」という句があるが、細島の沖では、黒潮に乗って北上したカツオは、旧二月十日のエビス祭りには水揚げされていたので、都井岬・細島沖・足摺岬・潮岬沖を北上するまでにはかなり日数にずれがあったと考えられる。つまり細島周辺の住民は、ほととぎすがなく以前から、風寒い頃カツオを賞味していた。

  ★四国とのつながり

 昭和十年頃までは、愛媛県(特に宇和島あたり)のカツオ船が細島を基地にしていた。大正時代になると日本の漁船もかなり発達し、愛媛県は特に先進県で動力船が多かった。細島では、日の出丸(島田松男さん)、黒木百蔵さん(黒木病院の先代)、きうん丸(黒木秋好さんの厳父)、の三艘くらいしか動力船はなかった.細島で最初に動力船を作ったのは日の出丸の先代児玉藤五郎さんで、当時三〇〇円かけて幡浦の小谷造船所で作った。
 四国の船は、木炭を燃料した四サイクルのガスエンジンで、「ガチャン、ガチャン、ガチャン」という爆発音を出していた。船内には、木炭を燃料にする釜があって機関士はたまにガスを吸い込んで昏睡状態になったといい、そんなときには酢を飲ませるとよかったらしく、船には必ず四、五本(升)の酢を積んでいた。そういう船が五杯も一〇杯も細島の港に来ていた。
 細島では、その頃焼き玉エンジンが流行り出して、日の出丸や果木百蔵さん(漁民を雇ってかつお釣りをしていた)が所有していた。
 このように、愛媛県を主として四国と細島との繋がりは深く、明治時代に細島では珍しい洋館建ての朝屋銀行を作ったのは宇和島の人で初代頭取(支店長)が同じ出身の伊藤定治氏の兄になる方だった。八坂区の大黒屋旅館の近くにあったが、後に日州銀行と合併し今の宮崎銀行となった。

  ★黒潮について

 黒潮は、時季によって大きく変わる。春には沿岸に近づき、秋口になると沖合に出ていく。潮の流れに沿って流して行く延縄漁をするとよく分かるという。累潮が沿岸につけたときで一番早いときは、三月から五月頃で一時間に三・五マイル(一マイル=約一・六〇九キロメートル)流れる。
 その時にカツオやキハダの大群がどっと北上してくる。魚群(回遊魚)というのは必ず陸上の農作物と同じように時季を頼りに北上してくる。麦の穂が熟れるころは、シイラ(ヒス)が北上し、カツオやキハダは三月頃北上する。八月頃になると、低気圧が発生しやすくなり(台風など)潮流も気圧の低いところに向けて行くので蛇行が多くなる。大きい低気圧とか台風が接近すると潮の流れが逆に行く、黒潮の本流は遠く陸岸から離れる。豊後水道は、大潮と小潮(満月と月のないとき)の変化か激しく、潮流が急に変わるので帆船なんかではよほど風が強くないと逆流されるので危険であった。それほど強い潮流で六マイル(一時間)の速さといわれている。油津の沖から東に出ると九州の山が三つ、飫肥と尾鈴と行縢の山しか見えない。大分の久住山などは見えないが、そのうちに霧島の山が見えてくる。種子島付近から鮪綱を流して上の方へ三・五キロメートルの潮に乗って行くと次第に飫肥の山から霧島が見えてくる。足摺岬に近くなるほど山が大きく開いて行く。それで潮の流れる様子が解る。

  ★通浜との関係

 明治末から大正頃になると一人乗りや親子乗り(二人乗り)の漁船が普及してきたので細島の沖合だけでは乱獲になってきた。当時、川南町から宮崎市の内海までの沖合に漁港はないが、魚が非常に豊富だった。それで細島の漁民は、通浜の沖合が凪の日に、近くの住民から船を引き上げてもらい(当時の通浜は砂浜だった)何日か漁をし、その魚を地元の人が担いで宮崎辺りまで売りに行った。鯛やチダイなどの高級魚がたくさん釣れるので、そこに居着いたという。そして、次第に親族を呼び移住が進められたので、通浜はみんな細島の親戚ばかりである。また細島は大分県蒲江町とも漁業のつながりで縁が深い。

  ★鯨

 明治末から大正の初め頃、向かいの幡浦に東洋捕鯨会社の解体所があった。当時で珍しいキャッチャーボートがノルウェーから来ていた。捕鯨の指導にきていたノルウェー人夫婦が私の家のすぐ裏に住んでいた。夜遅くなってボートが港に帰ってくるとき汽笛を鳴らしていた。汽笛の音が一つの時は鯨の捕れないとき、三つの時は捕れたときという信号があったという。ナガス鯨が多く、ボートで引っ張ってきたのを、昔は動力機械がなかったので、多くの人が手動で竹の棒を使って撒き揚げていた。それを解体士がきて大きなナギナタで瞬く間にさばいていた。その肉を子どもたちがもらっていた。豆腐やネギと一緒に炊いて食べさせてくれた「おふくろの味」は今でも忘れられない。解剖士は優しくて特に子どもにはいくらでもくれるものであった。
かつて、鳥の群れを目当てに鰹漁をしていたとき、約一五〇メートル前で跳梁した鯨を目撃、バアンと飛び上がった瞬間に鯨の下腹に鯱が食いついていたのが見えた。鯱が食いついたから鯨が飛び上がったのだろう。こんな光景は長い漁生活でもめったに出会わないもので写真機があればと思ったものだ。腹にぶら下がっていた鯱は大群で、鯨の十分の一ぐらいにしかみえなかったが、それでも三メートル程度の体長がある。そして食いついたら離れない。また、シビ縄船でシビ縄(マグロ延縄)を上げるとき、ヒレを立ててまるで帆掛け船のような形をして近付き、三日月型の紋様のある顔を向け横目で睨むようにして船の回りにやって来て、気持ちが悪かった。
 鯨には、鰹やキハダが付くものだった。昔、細島の沖にはカタクチイワシが多く、それを鰹と鯨が共同戦線でねらう。しかし、イワシが小さくて散るので鯨は食いにくくなり、鰹の方が鯨に付いて動き、鯨の前に行ったり、後ろに行ったりする。それを狙って鯨を追って行く。鯨と船とが競争するような状態になる時があり、鯨がちょっと向きを変えたような隙を見て餌を撒くと鰹がたくさん釣れた。また、鯨が船の周辺を回り始めると、鰹の群れが外れないのでよく釣れた。鰹の大群がイワシを固めてしまう。するとイワシの大群が逃げ場を失い、背中をすりあわせながら水面が盛り上がるような状態になった。このような状況を漁師はエトコ(餌床)という。そんなとき三メートルくらいのタブ(杉の柄をつけた網)でそれをすくうといくらでも捕れた。こうして鰹が固めたイワシを鯨が下から大きな口を開けて一気に食べる。鯨のエラからイワシがぽろぽろと落ちるのは実に見事な光景であった。昭和四十四、五年頃にも秋口(十一、十二月)のシイラ漁で、そのエトコに鯨がきて船の近くでイワシを食って網の中から飛び出してきたことがあった。その時の鯨のしっぽの反動で船に水が入り込んで驚いたものであった。

  ★鰹節の出荷

 明治から大正時代にかけて、細島では鰹とマグロが代表的な魚だった。米ノ山の後方のウシロウラあたり(ビロウ島から飛島の沖一~二キロメートル)に鰹やキハダの大群がきていた。櫓こぎの船で行って一時間ほどで大漁になるほどだった。その頃には、細島に七~八軒の鰹節製造場があった。仲買人が買い上げた鰹を釜でゆで、燻して製造していたのだが、その風景をよく見かけていた。現在の細島保育所付近まで美々津や上方の帆前船が一杯並んでいた。大阪や四国方面との定期航路もあったし、そういった交流のなかで鰹節も取引されていたという。

  ★山の民との物々交換

 細島は昔から漁業の町だが、漁業者以外の約八割は加工した魚を諸塚村の山三ケや塚原あたりまで大八車に積んで行商していた。物々交換が主で、米や豆類はもちろん、木炭、椎茸、竹細工などいろんな物と交換していた。一週間ぐらいかけての泊まり込みの商いであった。商人の間では、そんな行商の経験がないと一人前と認められなかった。塩物の加工品が多かったが、特に5月の麦の穂の色づく頃、つまり田植えの時期が旬で、マンビキ(シイラ)は縁起がいいといって百姓に人気があった。秋のマンビキも美味い。塩焼き、フライ、生のすぬた(酢味噌)味も人気があった。
(以上の平坂徳治さんの話は、昭和六十三年の黒木和政氏による聞き書きをもとにした。)

四、民間信仰の多様性

 1、細島の社寺

 細島の神社仏閣については、『日向地誌』に次のものが紹介されている。
 ○八幡神社 村社。細島港の南崖にあり社地広四段六畝三歩。気長足姫命、誉田別命、大鶴命を合祭す。例祭は旧暦十二月九日なりしが、明治六年以来は一定せず。
 ○愛宕神社 村社。細島港字愛宕にあり。社地広三段三畝三歩火産霊命を祭る。例祭は旧暦十二月二日なりしが、明治六年以来は一定せず。
 ○大御神社 村社。細島港口にあり。社地広四段四畝二十一歩。天照皇大神を祭る。例祭は旧暦十月十六日なりしが、明治六年以来は一定せず。
 ○観音寺 禅宗越前国永平寺の末派なり。細島町の中央にあり、寺地広凡五段一畝。
 ○妙国寺 日蓮宗財光寺村定善寺の末派なり。観音寺の西にあり、寺地広凡三段余
 ○本要寺 妙国寺の支院妙国寺の東にあり。
 このうち三つの神社は鉾島神社に合祀されたが、そのうち大御神社は住民の要望で元の場所に戻されたという。寺は観音寺と妙国寺が現在も崇敬を集めている。

  ★鉾島神社

 細島の由来とされている「鉾島」の名の付いた神社で、航海安全の神として尊崇され、様々な祭りに関わっている。創立は、大永七年(一五二七)とされ、祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)・息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)・大鷦鶺命(おおささぎのみこと)・大牟須比命(おおむすびのみこと)・伊邪奈美命(いざなみのみこと)・大日霊貴命(おおひるめむちのみこと)・豊受気姫命(とようけひめのみこと)である。現在の例祭日は十一月十日となっている。
鉾島神社の祭りは十一月にあった。昔は八幡様の祭りといった。現在は第二土・日曜日に行っている。昭和三十年頃まではこの祭りに見立て細工を作っていた。見立て細工には、人形の名人、細工の名人など器用な人が多かった。

  ★御鉾神社

 紀元二千六百年を記念して造営されたもので、増田家など三件が転居を要請されたという。
【写真4】御鉾神社

  ★観音寺

 宗派は曹洞宗で、本尊は行基菩薩作と言われる観世音像一体、創立は延宝六年(一六七八)愚海和尚の開山と伝える。応永五年、近江国安国山に佐々木高綱公の開基である通幼家寂霊禅師の開山である総寧寺が建立されたが、その十七世の愚海和尚が観音の霊夢を感じて細島に来て、大僧都南禅律師の開いていた寺を観音寺となしたものであると伝えている。(『富島町史』)
 正月十七日の観音法要において疫病除けのために配られるお札に特徴がある。祇園信仰を背景にした牛頭天のお札であるが、これは日向市美々津や諸塚村七ツ山で配布される京都と同様の座像の絵ではなく、右手に剣を持った立像が描かれている。日向市美々津や東郷町深谷でも観音寺と関係があることから神仏習合の名残が見て取れる。
【写真5】観音寺の牛頭天王の御札 妙国寺の御札とともに貼られている。
 四月八日には、灌仏会、あるいは花祭りとして、甘茶のもらいが行われる。観音寺では、花御堂を背にした巨大な張り子の白象を車に乗せ、幼稚園児が綱で町内を引き回す「白象行列」が行われた。以前は約八〇キログラムの福餅を運ぶ力くらべの行事も行われていた。この甘茶は、家のまわりにまくと虫除け、マムシ除けになるという(『民俗探訪 上巻』)

  ★妙国寺

 庄手向にあり、宗派は日蓮宗、山号は興福山、本尊は十界大曼荼羅である。真言宗の修験者で行縢山別当である甲斐法橋隆覚の次男日叡を開山。はじめ薩摩法印と号したが、元弘元年日蓮四代の法脈を継ぐ日郷と細島で面会問法し、日郷に帰依してのち薩摩阿闍梨日叡と改名、康永元年に妙国寺を開創と『富島町史』に記されているが、妙国寺では日郷上人を初代としている。また、名僧日要は妙国寺で室町後期に修行している。
 的祈念行事や八代龍王の神事、鬼子母神堂での「千部会(せんぶえ)」などの年中行事に関わっている。
【写真6】妙国寺 門をくぐって右手に有名な庭園が広がる。

2、様々な信仰

 細島には、上記の二つの寺院と一つの神社によって、あるいは個人によって、様々な神仏が祀られ続けてきた。ここではその主な信仰について記しておきたい。そのうち主な神仏の所在を概略図に記しておいたので参照していただきたい。
【図1 細島の民間信仰】(※A4二枚の地図を添付しておきましたので、編纂室の方に相談してトレースしていただけませんか。編纂室から提供していただいた概略図でしたので、私の方でトレースができません。地図内をすべて数字表記にした方が見やすいかと思います。)
①清正公さん 加藤清正を祀ったもので、清正区の守護神として、春に祭りを行っている。
②乏小庵 観音寺の祀る延命地蔵
③景清さん 平景清が流れついたと伝えられる場所
④庚申様 猿田彦命ともいい、道案内の神とされる。
⑤三島明神 
⑥秋葉講 八坂地区で持ち回る火の神様
⑦水神様 妙国寺登り口右の小さなせせらぎの上に祀られている。沖の大島ともいう。
⑧観音さん 墓場の上
⑨伊須那様
⑩伊東祐邑の墓 旧若松屋当主が年二回管理されている。
⑪北山様 大晦日の夜、竜宮城参りをしたおばあさんの伝説がある。
⑫につこい様 日要上人の墓。延岡の方が祀られていた。
⑬庚申様 伊勢・宮ノ上地区が祀る。
⑭弘法大師 伊勢・宮ノ上地区が祀る。
⑮お稲荷さん 細長い洞穴がある。
⑯お稲荷さん 伊東祐邑の墓と一緒に管理されている。
⑰八代龍王 漁の神様
⑱えびすさん 飛島に祀られている。
⑲八代龍王 漁の神様

  ★清正公さん

 細島には、区の守護神として祀られ、毎年祭礼が行なわれている場所が三か所あり、その一つが清正公(せいしょこ)さんである。細島派出所より山手に入った、清正公谷の小高い林の中に祀られている、加藤清正公を祀った神社は、昭和二十年頃、当時の区長日高八州一さんが区民に呼びかけて、浄財を集めて社殿を再興、五〇年余り途絶えていた祭礼を復活したもので、四月上旬に区民が集まり、毎年祭礼を行っている。社殿は地蔵区の宮大工甲斐氏の作で、小さなお宮ながら立派な建物である。次いで昭和四十年頃、小池勝区長の時、区民の奉仕作業で、社殿周辺の整地、拡張、鳥居の建立、参道の整備、橋の架け替え等で立派な神域となり、現在に至っている。
 昔、清正公さんは、文久年間(一三〇年前)付近一帯の地主であった深野屋が祀っていた。お神輿も出る程の祭りが行われていたが、深野屋没落後は祀る人もなく社殿も朽ち果て、祭礼も中断されていたという。社殿復興後、御神体、御神典をお迎えしようと保管していた家に行ったが、永い年月のため傷がひどく、お迎えすることが出来ず、日高八州一さんが熊本の清正公神社にお参りして、御神体をお受けして奉納したという。(『細島今昔』)

  ★八坂明神

八坂明神講とは、八坂地区の急傾斜地の一角、サイレンのある地点に祀られている明神様を保存、祭りを行う人たちの講で、児玉酒店横から崖を登り、米ノ山に通ずる近道で畑地であった。昭和五十四年、八坂急傾斜地の防災工事の時、現在地に移転。この時、お祀りをしていた金丸市治氏より、明神様の管理祭礼を区で行ってほしいとの申し出があり、移転の世話をした関係上、区で引き受け、昭和五十五年から毎年四月十五日に祭りを行っている。丘の上なので、細島港が一望でき、花見を兼ね、最近はカラオケを持参したりして、女性を主に区内の親睦会をかねて明神祭を行っている。
 戦後、食糧不足の時、金丸市治さんが藪を開墾して畑にした時、埋もれていた明神さんを見つけ、お祀りしてといい、この明神様は、旧三島屋がお祀りされていたものという。この付近一帯を「明神の上」という小字名がついているほど昔から祀られていたという。
 六十年三月、三島屋ゆかりの方が来細された時、その由来を尋ねたところ、四国の大三島神社から御分身を受け、船宿だった三島屋がお祀りをし、祭礼の時は「甘酒祭り」を行っていたという。大三島神社の御紋章は角切三で、三島屋河野家の家紋も同じ角切三であった。四国の水軍の流れを受けていたので、一説には平家一族の霊を弔ふため祀ったものだろうとのことである。
 また、一説には静岡県の三島神社の宮司で侍大将だった河野通有が弟のイホリと共に元寇の役に出陣。のち四国伊予三島に封ぜられ、河野水軍として栄え、その時大三島神社を祀られた。その後、弟イホリは細島に来住、庄手向に住居を構え、後、商人となり、千石船拾数隻が出入りする船問屋三島屋として栄えた。それで、三島大明神を守護神として祀り、旧暦十一月甘酒祭りを行い、町内の人にふるまったという。この三島屋も昭和になって、大阪に移住、祀っていた神殿は妙国寺に預け、丘の上の明神さんはそのままだったという。後年、東京在住の徳永氏が、お寺の明神様を引き取って帰る途中、三島神社から身延山、久遠寺に参詣、ここで河野家の系図が妙国寺に預けられていることを知ったという。(『細島今昔』)

  ★伊勢講さん

 宮ノ上と高々谷の一部の人たちが、昔から信仰している集まりである。祀るのは信者(氏子)の人たちで、神棚の様な祠があり、講元となった人が持ちまわりで、自宅で祀り、次の溝元に渡すまでは祭主として自宅に保管、お祀りを行っている。講元は、氏子の人たちの抽選で、当たった人がその期間の祭主となり、参拝者の接待に当たっている。
 お祭り行事は、毎年一月、三月、五月、九月、十一月の各十六日に行われており、世話人は祭りの前日、各戸から米を盃一杯と現金二〇円を集めていた。
 祭主(講元)宅では朝早くから、集めた米で小豆飯を炊き、握り飯を作り、寄せられた現金でお神酒を買って、一緒に祠にお供えして、参拝者全員でお神酒やお握りを頂き、家内安全、漁業の豊漁を祈願して、次の講元を決めるクジを引く。クジに当たった人は、縁日(十六日)の前の日、講元宅に行き、祠を受けて自宅に運び入れて、床の間に安置、自宅だけのささやかなお祭りをする習わしとなっている。
 昔から伊勢講さんをお祀りしている家には、思いがけない大漁があったり、病難、災難をのがれたりと言い伝えられており、講元となるのをみな望んでいた。明治の初頭、細島にもコロリ(コレラ)が流行した時、氏子の家庭では亡くなった人がいなかったという。(『細島今昔』)

  ★秋葉講

家では秋葉神社の祭りをしている。一月二十四日(昔は旧暦、現在は新暦で行う)に、静岡県の神社から五〇枚くらいのお札を送ってもらい、講中に買ってもらう。甘酒をつくって、ごちそうする。太夫さんか坊さんを呼んでお祓いをしてもらう。四〇軒くらいが集まる。
【写真7】秋葉講の御札
【写真8】秋葉講の幟

  ★伊須那様

 八幡区の崖下の小さな御堂に祀られている「いちなさま」は、伊須那(いちな)大明神ともいわれ、祭神は主神火産霊命(ほむすびのみこと)と、脇には、海神尊■(わだつみのみこと)とエビス・大黒が祀られているといい、火の神、漁業・商業の神様で、畑浦にある愛宕神社の御分身ともいわれ、愛宕神社の宮司さんがお祭りの時には来て、浄めを行っているという。
 大祭日は旧暦十一月二十八日で、毎月旧暦二十八日は小祭日で、その夕刻には近所の信者の方(主婦)の人たちが集まり、持参した米を炊き、握り飯を作り、豆腐の白和え、お茶などを祠にお供えして、夜の十二時まで話し合いながら、お握りや白和えを食べて、お通夜を行った。
 旧盆には、祠の前の庭先で盆踊りが行われる。また、拝礼の方式は、灯明を上げ線香を立てる仏式と、二礼、二拍手、一礼の神式と二通り神仏混合のお参りが行われ、祠には注連縄が張られている。管理は、小西家・井出家・小西家で行われている。(『細島今昔』)

  ★淡島さん

 伊勢町の淡島家には代々淡島様が祀られており、婦人の病気に霊験があるといい、月の三日には多くの参拝者が訪れる。
 『日向の伝説』(鈴木健一郎)には、次のように記されている。昔、この家の先祖が出漁中、海上で御舟代に入っている御神体(神鏡一面・小鳥居二基・槌一箇)を拾った。彼はそれを持ち帰って神主に尋ねた。神官は「これは少彦名命をお祀りしたので淡路島から流れて来たのだろう」と答えた。かれはその御神体を自宅に祀ってこれを子孫に伝えた。
 現在でも旧暦の三日は毎月家人で願たてを行い、旧暦十一月三日には大祭が行われている。大祭のよどの日(前日)には、鉾島神社の神主がお祓いに来る。婦人病治癒の願たてに来た参拝者は、参拝の後、麻苧、赤い布、ネバシ(真綿)を小さく切ったものを持ち帰る。病気が治癒したら願ほどきに訪れる。
【写真9】淡島様のまつり

  ★米ノ山八大龍王祭

 この祭りは細島の漁師が大漁と海上安全を祈願するため、毎年、春分の日と秋分の日に行われる祭りで米ノ山の山頂に立つ八大龍王の石碑の前で執り行われる。
 まず当日は夜明け前の午前五時半を目処に細島の漁師の有志一〇名ほどがお供えを持参して石碑の前に集まる。そこへ導師となる妙国寺の住職が副導師二名を連れて加わる。祭りの支度は、まず祭りの参加者が奉納した赤い幟を竹竿に着けて石碑の前に立て、曼荼羅の題目軸を石碑に掲げる。次に参加者の持ち寄ったお供え(御神酒・白米・塩・小魚)を石碑の前に並べる。準備がすむと導師、副導師、参加者の順に並び読経が開始される。読経は、開経偈、経文、題目、趣旨、礼讃文で時折火打石で火花を散らし、導師の指示で参加者が焼香をする。読経が終わると導師らは上座を代表世話人に譲り、挨拶の後、そのまま石碑の前で直会を行う。やがてお供えの酒、塩などが参加者に配られて解散となる。
 米ノ山は日向灘に向けて突出した岬の山で標高は一九二メートル、八大龍王の石碑の辺りが最高所である。米ノ山は「ヤマアワセ」に使うと言う。ただ細島のすべての漁師が使うわけではなく、さらに沿岸のごく限られた「セ」と呼ばれる漁場を探るのにしか使わないとのことである。なお漁師は自分だけのセを持ち、ヤマアワセに使う山も一人ずつ異なるという。そして米ノ山は船が沖に出ると見えなくなるため、沖に出れば出るほど、「もっと奥の高い山」を使うことにしているとのことである。なお最近ではGPSを搭載した船が多いのでヤマアワセはほとんどしないという。
 米ノ山の八大龍王について参加者の間では、龍王のもとには海で亡くなった人たちの魂が寄ってくるといわれている。彼岸に祭りを行うのはこのためであるともいう。
 この石碑は高さ約二メートル、幅約一・四メートル、厚さ八〇センチメートルの柱状岩で左側面の碑文から元治二(一八六五)年九月の建立であることがわかる。碑文は中央に「奉勧請米山大権現」、その左右に「天神地祇■八大龍王」、「諸民患難為普救」と刻み、建立者「河野通用」の名も見られる。

  ★モリ様

 細島沖のビロウ島にモリ様と呼ばれる小さな神社がある。ある戦いに敗れた武者を細島の漁師が連れてビロウ島に逃げ、戦がすんで迎えに行ったが、モリ様は追っ手の船と思い、岩場から太刀をくわえて飛び込み自殺した。この場所を人々は太刀の鼻と呼んでいる。

  ★御開さん

 昔、寺があった場所という。旧正月の十六日が御開さんの日といい、豆まきをして、甘酒祭りが、俵氏宅(本要寺があった場所の住人)で行われていたという。

五、年中行事

 1、正月行事

 正月の準備としては、年末に入って、いい日を選び、朝五時頃から、家の中の物をすべて戸外に出して、竹で煤払いを行う。その後にコンニャクや大根などを材料にした汁かけご飯を作って食べ、近所にも煤払いで迷惑をかけたお礼に配った。
 年末は、十二月二十五日頃から餅つきを始めるが、歳の晩(大晦日)に餅を焼いて食べると手や足を怪我するという言い伝えがある。この日の夕食は煮しめを中心にしたヒラという料理を作り、他にナマスと刺し身と紅白の餅(半紙二枚にウラジロを敷いた上にのせた)を高御膳で家族全員がそろって食べた。「ヒラ」とは、について 材料‥・・イモ、ゴボウ、シイタケ、ニンジン、トウフ、頭付きタイの火ぼかし(乾燥させたもの)、コンブの七品を醤油味で煮付け、二個ずつお椀に盛りつける。
 元日は、スエヒロガリ(頭付きのイワシかアジを末広がり状にお皿に並べ、その下開き部分にスリ大根を置いたもの)と白ご飯にナマスと雑煮を高御膳でいただいた。この日は日本酒を家族で廻し飲みするが、杯も正月用のもので、結婚式の三三九度に用いるような豪華なものである。なお、元日の朝、船にも満潮の時を待って一人分のヒラ料理をあげて祀った。また、玄関の上と神棚にタワラグイとモロの薬を括ってたてていた。そして正月六日の餅おろしの日にはずして雑煮にして食べた。
 二日の日は、「おくり御膳」といい、ヒラ料理と白ご飯と紅白餅二個とナマスの四品を高御膳で、嫁は実家に、分家した者は本家に届けていた。二親のときは二人分持って行ったので、親族の多い家庭では大変忙しく、朝七時頃から配っていた。ヒラ料理がないときはバラ寿司を届けた。
二日の日は、「船の乗り初め」といい、大漁旗で飾りつけられた船に乗り込み、港内を廻り、トベ島のエビス様にお参りしていた。それからは各家を飲み回りながらみんなで祝った。
三日の日は、雑煮を食べて祝った。細島の人々はこの日に八幡神社にお参りする。

  ★的祈念

 旧暦一月十五日に妙国寺主催で、八幡様(御鉾神社)の境内において行われている。
 昭和十八年までは、各町内がくじ引きで回していた。九つの区があるので、九年周期で回ってきた。昭和十九年食糧不足で、止めようという話になったが、厄の人(男の本厄・四一歳)が受け持つことになり続けることができるようになった。
 弓矢、的も手作りで、的は、一~二メートルで、中央の黒い点の裏に鬼の絵と自分の名を書く。また、七草粥を食べるための箸も三〇センチくらいの竹で作り、二〇〇〇~三〇〇〇組は用意する必要がある。
祭りは、日要上人の墓前では、夜と夜中に妙国寺住職による読経が行われ、朝四時頃になると全員が墓前に集まり、的射が始まる。まず、伊太郎・伊次郎といい、小学校五、六年生の子どもに弓を射らせる。次に厄年の人が射る。この後、鉾島神社の広場で神事、並べられた的の前に弓矢を供え、厄払いが行われ、ここでも的を射る。夜明け近くになると一般の人も参拝に来るので、七草汁かけめしが振る舞われ、七草を少量ずつ包んだオゴクが渡される。汁の中身は、鰤の切り身、アオサ、豆腐、漬け物、芹、黒大豆、キクラゲ、タクアンなどを細かく切ってみそ汁にし、これをご飯にかけて、暖かい汁かけ飯にして食べた。
明け方の九時まで続き、本厄の人たちの接待が始まる。三三歳の女性の厄払いが終わってこの行事は終了する。

  ★初午行事(旧正月)

 米ノ山の稲荷神社に、御馳走を持ってお参りし、みんなで食べる。漁師の家庭が中心なので大漁を祈願する旗が立った。稲荷神社の役員や各区の区長がついた餅を稲荷講さん(イナリコサン。入厄の者で神社に寄進した人たち)が撒いた。漁をする人たちにとって、米ノ山は山当て(ヤマムケともいう)の目印となっていた。八大龍王が祀ってある。

 2、春の行事

  ★飛島のエビス様

 旧暦二月十日(十日エビスの日)に、神官と住職を迎え、神仏混淆の形式で航海の安全と魚の供養を行う。昔から神輿を舟に乗せ、港の南部の突端にある飛島の山上に祀ってある木像のエビス様(事代主之命)に御神酒を供え、航海の安全、大漁祈願をして帰るならわしである。宵祭りの時、八坂神社の神前で漁協所属の漁舟全部のくじを神官が引き、一番くじで「お神輿舟」「先舟(指揮舟)」「太鼓舟」「左舷舟」「右舷舟」の順で決めていく。現在、先舟は赤旗、神輿舟は紫旗、太鼓舟に黄旗、両舷舟に桃色の旗を付目印に付ける。舟列は、先舟を先頭に、お神輿舟、太鼓舟、そして両舷に左舷舟、右舷舟を配し、この後にお供の舟が参加、舟列を整へ港内を三周し、工業港へ向かう。お供舟はいかに舟足が速くとも、先舟の前に出ることは固く禁じられている。
 エビス様にお神酒をお供えした後、浄めるため、舟や乗員に海水を手桶でかけあった(現在はホースでかけあう)。便乗している人にかかっても、浄めの水だと思って怒ってはいけない。しかし、今は昔程にかけあうことはなくなった。
昔は御鉾が浦に祀ってあったが、港のうちしか見えないので漁師や航海の目印になる場所がいいという漁民の声が強くなり明治の中期頃に飛島に移した。初代の像は四国の高松の一刀彫師作と聞くが、今あるのは二代目の木像である。

  ★雛祭り(三月三日)

 各家庭で菱餅(ヨモギと白の二種類)をついて、家に祀っている火の神、エビス様、床の間、神棚にお神酒と一緒にして仏壇に供えた。反物(布物)の八尺に切った物を贈るものであった。八尺の布で女の子の着物ができたことから八尺もので祝っていたが、次第に成長しても使えるように一反物を贈るようになった。お祝いをもらったお返しに、自宅に呼んでヒラ料理や散らし寿司などで御馳走をして、赤飯を配った。

  ★五月五日の行事(端午の節句)

 菖蒲と根の付いたヨモギと茅の三本を括って屋根にあげた。屋根の表裏や紳様などにあげ、お墓にも持って参ったので五束ぐらい作った。魔よけを意味するといわれ今も続けている。翌日にはその菖蒲でお湯に入る。このことを「六日菖蒲」といい、蛇よけを意味するといわれている。

 3、夏の行事

  ★祇園様の祭り(今の港祭り)

 細島で最も大きな祭りで歴史的にも古く、町筋には各区のダシ(作り物)が並んだ。細島は昔から東と西に区分した風習があり、現在の細島保育所付近を中心に東西にわけ、東の人、西の人と呼んでいる。この祭りは八坂神社を祭紳とし、その紋がキュウリの丸切りした中身の形に似ていることから、祭日にはキュウリは食べない。
 代表的な見世物は、東西の太鼓台のぶつかり合いで、中心地付近の境目では夜通し行われ、勢い過ぎて負傷者が出たこともある。駅前あたり一帯には屋台が並び、仮装行列も色とりどりで賑やかであった。太鼓台は今もその伝統を受け継いでいる。
 旧暦六月十四、十五、十六日のいずれかの日に祇園さんの祭りがあり、そのとき太鼓台を出した。現在は、新暦七月二十日前後の金土日に「港祭り」として太鼓台を出している。

  ★細島太鼓台

  もともとは神輿を担ぐだけの漁師だけの祭りであった。東の人たちはほとんどが漁師であり、神様の直属であるとされた。直接、ご神体、つまり神社の神輿を担ぐことができるのは東の人だけで、西の人は余程のツテがない限り担ぐことはできなかった(ただし、戦時中には、出征する人は無条件で担ぐことができた)。
 明治二十三年に太鼓台ができて、東西一緒の祭りとなった。それまで西の祭りは余り無かった。東は、宮之上、高々谷、伊勢、庄手向の四地区に漁師が多く、八坂と八幡は商人が多かった。西は、地蔵、吉野川、清正の三地区で、ほとんどが商人だった。東が太鼓台を作ったのが明治二二年、翌年に西が作った。それぞれに出資して作り、東は図面も見せなかった。瀬戸内海地方の専門家から作り方を習い、それぞれの地元の大工が作った。昔は東と西とは同じくらいの人口であったが、今は圧倒的に西の人口が多くなっているという。
 明治二十二年は、太政官布告により全国に町村制が施行された年で、宮崎県では、五町九十五村が制定され、細島町はその五町のうちの一つで、当時の細島町長日高猪兵衛であった。日高家は、和歌山県日高郡から昔、海路で日向に来て、代々回漕問屋を経営していた豪商紀伊国屋■であった。紀伊国屋は大阪の堺との交流があり、町村制の施行にあたり、祝賀行事に間に合わせるべく、急遽、太鼓台の図面を取り寄せ作らせたという。この時、製作にあたったのが大工棟梁の河野善郎とその弟良吉であった。河野善郎は、大正年間に消失した観音寺の山門も再建した、腕のいい大工であったという。
 東若太鼓台の櫓には、五枚重ねの布団が乗っているが、その色組は上から黒・白・赤・黄・青の順となっている。この色は八幡神社の幟に由来しているという。布団は角度四五度の逆三角形で、覆いは赤色であった。布団締は各面二本ずつで、計八本あり、黒朱子に金銀系で稲妻の模様が刺繍してあった。布団の最上段の四隅には直径一五センチの大鈴が約五〇センチの黒房の組紐に吊してあり、左右に太鼓台が揺れると、「ヂャラン、ヂャラン」と優雅な音を響かせたという。布団下段にも大鈴が吊してあったが、昭和の初め頃から約五〇センチ位の長さの大提灯が代わって吊り下げられるようになった。脚は四本柱の延長で、五〇センチくらい。昭和初め頃までは現在のような補助脚が付いていなかったので、怪我人が多く、一度担いだら次の休憩所までは降ろすことができなかった。重量は、現在のようにバッテリーを積んで、補助脚がなかった分、三〇〇キログラムくらいは軽かったという。櫓の周囲には、唐ちりめんの幔幕がはりめぐらされ、上段には四方に彫刻された額が掲げられていた。北面には玄武(=亀)、東面には青龍、南面には朱雀(=鳳凰)、西面には白虎を表す彫り物があったが、玄武と白虎の額は紛失した。布団の四方には、小提灯を二〇個吊り下げロウソクをともしていたが、現在はバッテリーを載せ、電球を点している。ロウソクが燃え移らないように監視するため、櫓の上には二、三人乗っていた。
 太鼓台がけんかになると「させ、させ」と叫びながら、両手を差し上げ、相手の太鼓台に勢いよく突っ込んでいった。
 昔は、海岸通りがなかったので、山側の今よりも細い一本道だったので、敵領域に早く入った方に優先権があり、遅れた方は道を譲らなければならず、太鼓も叩くことができない決まりであった。先に入った太鼓台は、威勢が良く三〇分くらいは絶対に落とすことなく、相手の太鼓台の付近をなぶり歩いたものであり、この時が一番血湧き肉躍る瞬間であったという。
 河野忠一さんによると、東若太鼓台ができた翌年に南若太鼓台ができたと父から聞いたという。櫓上段の額の裏にも「明治二十三年」の銘があるという。細島町内で、東若と西若に分かれており、東若が東若太鼓台で、西若が南若太鼓台と当時から呼ばれていた。西若太鼓台とせずに、南若としたのは、中国の易学で西は壮年、南は青年を表すからと説明されている。当時は、祭りに関しては東西の対立が非常に激しく、反対側から嫁に来ている者を祭り期間中は実家に返したともいう。また、東若太鼓台の規約十二条に、付属品は役員全員の承認がなければ、他へ貸与を禁じるとあり、西若は、東若の図面無しで作る必要があった。南若太鼓台については、資料が紛失しており、制作者は不明であるが、七枚布団で、総赤色ということから、大阪同様に交流のあった高知の太鼓台を導入したと考えられている。布団の角度は約四〇度で東若より狭く格好良くキリリとしまった感じがするという。赤布団の天井は黒布で覆われており、布団締は黒朱子に昇り竜の金糸の刺繍で、竜が盛り上がっていて大変豪華であった。両者とも太鼓台の正面には、虎・竜・大蛸などのように、毎年違った動物の作り物が飾り付けてあり、何が作られるのかが毎年の楽しみだったという。
太鼓の打ち方の違いは、
東若 ドン(強) ドデドン(中) ドデドン(中) ドン(弱)
南若 ドン(強) ドデドン(中) ドデドン(中)ドデドン(中) ドン(弱)
 児玉八郎さんによると、今は、東西それぞれにわいわいやって、引き分けにして、餅撒きをして終わっているが、明治の末までは、太鼓台が壊れるまで、ひっくり返るまで勝負をし、勝負がつかないと朝までやっていたという。大正時代になるとそういうこともなくなっていたという。あまりにみんなが騒ぐので警官がサーベルを抜いて騒ぎを静めたことがあるという話もある。今でも忘れられないのが、戦時中に祭りをやっていて、けんかの最中に赤紙が来て、両方帰ったことがあった。児玉さんが学校の頃なので、昭和十五、十六年の頃、そのときは帰りにはみんなで軍歌を歌って帰ったという。たぶん何人かまとめてきたのだろうとのこと。早く帰らないと、ということで、太鼓台を車に乗せて帰った。終戦直後は、食うのがやっとで中止されたが、昭和二十二年から太鼓台は復活した。
(以上、伊藤隆さんが昭和五十年に記した「細島太鼓台由来の一考察」と児玉八郎さんの話を参考にさせていただいた。)

 4、秋の行事

  ★七夕

 旧暦七夕には、家に飾る七夕飾りとは別に、海に流す小型のササ飾りを作る。短冊の他に着物を作って、カジの葉に包み、十字形にひもをかけて結びつけると、縫い物がうまくなるという。イモの葉の露で墨をすって竹の頂上の白紙には「奉納 七夕二等星 昭和○年○月○日 名前」と書く。着物は、縦約一五センチ、横が約一〇センチの小型の和服。紙や布で丁寧に縫わなければならない。これを近くの山から採ってきたカジの葉に包み込み、十字にひもをかけてササ竹に結びつける。古い宮中の行事に通じるものという。(『民俗探訪 上巻』)

  ★お盆行事

 お盆の準備としては、十三日までにお寺にお米(三~五合)を持って行き、墓を掃除し、両手いっぱいくらいの砂をまく。花筒は、以前は長いまま孟宗竹を持ってきて、切り売りをしてくれたもので、その場で名前を入れてくれたという。その後、作った物を売りに来るようになった。お墓に供える花の中には、ソハギ・センイチゴ(センニチュウ)・ホウズキを入れる。
  細島は、大変に墓を大切にする土地であるという。週に一、二度は墓参りをし、花を替え、花を枯らすことはないという。そのため、花が枯れているような家の嫁は笑いものにされるという。そういうのが面倒で、よそに墓を買ったと言う話も聞く。
【写真10】細島の墓地 海を見下ろす高台にある。
 十三日の夕方、火のついていない提灯を寺に持って行く。寺で火をもらい、下げて帰る。寺から先祖の霊を家にまで連れて帰る。帰る途中には他の人と口をきくといけない。先祖の霊が道に迷うからと言った。
【写真11】観音寺での提灯点火 先祖の霊を寺から家まで案内する。途中、絶対に他人と話してはならない。
【写真12】初盆の灯籠
 十四日、夕方六時。お墓に行く。そこで松を焚いて、家に帰ってから、また松を焚く。
 ショロサマエシャク(精霊様会釈)という仏様のためのお盆を用意した。仏壇にショロゴマ(茅で編んだゴザ)を敷き、その上に芭蕉の葉を乗せて、位牌や新の七品(カライモ、ナスビ、ナシ、カキ、トウモロコシ、マクラウリ、ツエマメの初物)を供えた。いずれもミニチュアサイズのもので、店でセットとして売られている。ご飯にケシの幹の箸をショロバシといって、二本一組のものを三組差した。
 ショロ様はヒバの和え物が大好物だといい、多くつくって近所に配る人がいた。ヒバの葉をゆでたものをごま和えにしていた。ヒラには煮染めを用意した。三品あるいは五品の煮物を入れることになっていた。イモ(里芋)、ゴボウ、椎茸、石焼き(焼き豆腐)、にんじん、大根などの煮染めをつくった。「おくり御膳(ヒラ料理や散らし寿司など)」を親戚などに届けたり、家ではケンチン汁を中心とした精進料理を作る家もある。
 十五日、夕方六時頃。お墓に行き、そこで松を焚いて、家に帰ってまた松を焚く。
 児玉芳春さんの初盆の例を紹介する。供え物は、お膳に、汁物、ご飯(ここでは二本一組を二組、盛られたご飯にさしていた。)、煮豆、漬け物、ヒラ(ゴボウ、椎茸、干し筍、里芋、ゼンマイの奇数個入れた煮付け。赤いニンジンなどは入れてはいけない。)を専用のお盆にのせた。コモの上に、キュウリ、ナス、サツマイモ、柿、スイカ(瓜が無かったのでかわり)を供えた。昔はこのコモを海に流していたが、今は環境問題から流さないようになったという。提灯を持って明かりを付けずに寺へ行く。寺に用意されているロウソクから火を付け、「帰りますよ」といって寺を後にする。帰る途中には、亡くなった人が迷うので、絶対に他人と話してはいけない。家に着けば、ロウソクの火を消して、冷たい水をあげて、疲れをねぎらうという。昔は短冊を書くものだったと言うが、今は書かなくなった。
【写真13】初盆の迎え火
【写真14】初盆の仏壇
【写真15】お盆のヒラ
【写真16】お盆の供え物
【写真17】お盆の供え物用のナス
 十六日の夜中には、妙国寺の精霊流しが行われ、「極楽丸」と書かれた大型の精霊船を漁船に積み込んで海に流した。精霊様に災難や病気を持って行ってもらうためといい、盆の終わりの十六日には泳ぎに行くと餓鬼に憑かれると言うものだった。以前は、十六日に飾り付けをして海に流した。この精霊流しはショロゴマを舟形にして、神棚に供えた七品など全ての料理をのせて流す。このとき、「送りダゴ」(米で作った直径二センチくらいの小さな団子。米の粉でも麦の粉でも良かった。)を、霊が二十一日に帰り着くという伝えから二一個(閏年には二二個)を供えた。また、ツエマメは、大豆を根ごと掘り上げたものを一番上に乗せて流した。御霊が大豆の枝を杖にして帰るたとえからツエマメと言う、また七品はすべて新品で購入する。カライモが大きいと、御霊が頭が高いと言って泣きなさるという言い伝えもある。
 送り火を焚いた後は精進揚げをした。

  ★盆踊り

 十五日と十六日の夜は盆踊りが行われる。移住先の川南町通浜のものとまったく同じ、「カランコカッコ」と酒樽を叩く太鼓の響きに様々な口説きが絶え間なく夜遅くまで歌い継がれていく。昔の盆踊りでは、和服を着て、編み笠を目深にかぶり、帯のように長いハンカチのような物を口にあててまき、腰巻きをし、「だらりの帯」を垂らすものであった。また、女性が襦袢を着て、男が好きな女性のワンピースを着て女装して踊ったりするものだった。踊りには、「網引き(ツッタツッタ)」「盆踊り」「高鍋踊り」「三尺棒踊り」「佐伯踊り」の四つがあり、自由に踊ることを「ひょうきんたん踊り」などといった。「高鍋踊り」は扇とハンカチを持って踊る踊りであるが、踊れる人は少なかった。音頭は「牡丹長者」「山崎三佐」「鬼神お松」「志賀団七」「鈴木主人」「明石御前」などの口説きが伝えられている。盆踊りについては、観音寺の檀家で保存会が作られている。
 十五日の夜は、盆の精霊送りに合わせて妙国寺の庭で供養踊りをし、十六日夜は日要上人の墓前で感謝の踊り、そして、富島漁協の広場では魚供養の盆踊りが行われる。十七日は地蔵盆である。
 十五日の盆踊りは、初盆の家で踊られる地区と公園に櫓を組み、その前で踊る地区とがある。会場にしつらえた座敷には、七夕飾りが付けられたササ竹が立てられ、初盆を迎える人々の遺影が飾られる。
 「三尺棒踊り」については、昭和十年ごろ途絶えていたのが昭和■年に復活。経文の功徳により極楽浄土に向うさまをみた家族が傍らにあった木や棒を手に持って踊りだしたのが始まりという。初めに「手叩き」「扇踊り」赤と白の房のついた長さ三尺の棒を両手に、長い布で飾った編み笠をかぶり、腰巻きを半分見せ、派手なタスキとシゴキを揺らしながら踊る。同様の踊りは細島から漁民が移住した川南町にも棒踊りとして伝わり、盆に踊る。
【写真18】盆踊りの飾り
【写真19】盆踊りの遺影
【写真20】酒樽の太鼓
【写真21】民家での盆踊り
【写真22】盆踊りの口説き

  ★亥の子祭り

 細島では、以前、旧暦の初の亥の日には、亥の子祭りが行われていたという。亥の子祭りの夜は四、五人組で亥の子突きをしてまわり、お菓子やお金をもらっていた。石は、直径一五センチ、高さ三〇センチくらい、円筒・ひょうたん型のものを選び、中央部に溝を刻み、縄などでくくり、四方に二メートルほどの縄を付ける。この縄を握って、四、五人で石を引き上げ、振り下ろし地面にたたきつける。
 子どもたち四、五人が組んで、夕暮れの家の前庭に集まる。「いのこを、突かせはらんか」と声をかける。家の人が「おお、突け、突け」と返事がある。「誰がために突こうか」と子どもたちが聞くと家の人は自分の子どもの名前を教える。亥の子石は、強く引き上げられ、振り落とされる。ドシンドシンという音に合わせて、「亥の子、亥の子、今夜の亥の子、亥の子、一つ祝いましょ。○○どん○○どん(○○さん○○さん)、ええ嫁(婿)とらりょ。かさかき嫁(婿)とりゃんな。京から下った山伏が、頭剃って髪結うて、から竹割ってヘコ脱いで、天満の餅と大阪の餅と比べてみたら、天満の餅が太いこた太いな。豆の粉が足らず、のどがぎっちんぎっちんね。おしまいのさんごべ、銭もなんも、ぐわさぐわさ。どっさり祝いましょ」と、はげしい石の音と熱気を帯びた子どもたちの声。家の人たちはお金を渡して祝ってもらったお礼をする。この行事は細島では、八幡・伊勢・宮の上、高々谷・庄手向地区の漁村で行われていたようである。
 また、この日は「炉開き」でもあり、囲炉裏に火を入れ、エビス大黒さんのお祭りをし、赤飯となますで祝った。これを「亥の子のいなぎ」といった。(『民俗探訪 上巻』)

 六、細島の思い出

  ★昭和初期の細島

 細島の家はすぐ裏が海で、イセエビやアワビが大きな生けすに入れられ活かしてあり、裏の家の窓からでも魚釣りができ、小さなイカやタコが泳いでいるのを見かけたという。石段の所でバチャバチャやっているときに、オコゼに刺され黒砂糖をつけてもらったという。
 当時の細島港は、護岸工事のされていないヒョウタン港といわれる天然の良港であった。八坂町はちょうど張り出した部分にあたって水深も深く、港の巾も一番広かった。町は一本道で、家の裏はすぐ海となっていた。現在、高鍋屋の裏の家は広場で、東角は細島警察署港派出所があり、赤い外灯がついている。この道の別れ道には当時細島の町役場があり、細島一番の繁華街であった。海岸には二本続きの浮桟橋があり、桟橋西側には高知行きの土佐沿岸汽船会社の客船(約三〇〇トン)が着いていた。東側には宇和島汽船運輸株式会社の客船が着き、第十三、十五、十八宇和島丸(約七〇〇~八〇〇トン)などの宇和島経由の大阪天保山桟橋行きの船が毎日就航していた。運賃は大阪まで五円五〇銭、別府航路は五円であった。子どもたちが、時々ここに遊びに来て船上で輪投げなどをして遊び、遊びつかれると舷側の扉から艀(はしけ)に「ヒトヒト、フタフタ、ミイミイ」と数をかぞえながら、雑貨の積み卸しが珍しく、船の手すりにつかまりながら見ていたものだったという。
 この桟橋から東は漁港で、丸八■の裏に時々機帆船(喜鶴丸)が着き、歩み板をかけ、木炭の積込みがあるくらいで、後は漁船のつなぎ場であった。桟橋から西側は機帆船の繁留場で、高鍋屋、関本(苫屋)旅館の裏門の前は広場で斜面岸壁となっていた。隣の兒島(現松葉電器店)の裏からすぐ海で通行はできなかった。倉庫のある家では、木炭、板類を扱っており、東から兒島(主に板類)、木炭類は谷山万治、渡邊徳蔵、河野長蔵、御手洗幾治、日高本店、松葉助治、小池豊太郎商店の順であった。
 木炭の船積みの時は、倉庫の通路に木炭を並べて、出荷證箋を付け、長い歩み板を掛けて直接船積みを行っていた。八坂町と地蔵町との境界となっていた木綿屋横の道から西はすでに護岸工事が行われていて、海岸伝いに道があり、細島駅へと続いていた。
 港は、地蔵町の方が浅いので、細島駅まで船が出入りできる程度掘ってあり、沖の方は遠浅で船の航行はできなかった。現在のカモメ前付近に専売局の事務所があり、現在の甲斐テント店前の空地には三棟続きの町営倉庫があって、この倉庫にカマス入り食塩(四〇キログラム)を水揚げ保管し、荷役は儀八組が行っていた。当時は現広島屋付近が広場でそこにあった。トタン葺上屋には、南延岡の窒素肥料工場(畑化成薬品部)から鉄道輸送された木箱入りの硝酸が保管されていた。ここの前の海岸は、鉱石置場で、水揚げされた硫化鉄鉱石はここから南延岡へと貨車積輸送されていた。当時細島駅は、四番線までしかなく、駅構内もここまで、上屋まで待避線が引かれており、汽動車は出発までここで待機していた。
 汽動車とは古い客車の大きさで、前部にボイラーと燃料の石炭庫が一緒にあり、石炭を焚いて機械を働かし走行していた。汽動車も六時半頃、出発の一番から、一日六、七回程運行されていて、日豊線に接続され便利がよかったです。貨物列車は、一日に朝・昼・夕方と三回運行され、四番線は木材、板類の卸し場として利用され、三番線の海岸側に上屋があって、この前の岸壁に日向商船組の艀(はしけ)が着き、雑貨類はここで水揚げされ小口扱いで送られていた。
 荷役は、日高(伝)組で○ツ■、三輪商事運送会社は主として肥料、雑貨類を扱い、集配用の馬車を待っていた。荷役は菊地組、木材は松葉運輸店松栄組が行っていた。延岡の肥料工場の硫安移出が盛んになった時(昭和三年頃)、木綿屋の真の空き地に倉庫を建て、ここまでトロッコ線を引いて、鉱石置場からトロッコに硫安を積んで、馬に引かせて運搬・保管していた。
 本船入港の時は前に作った小さな桟橋から艀に積み込み、本船まで引船で引いて船積みを行っていた。硫安担ぎ(四〇キログラム)には女性が多く雇われ、日給は八〇~九〇銭だった。男性の場合は、一円二〇銭~一円四〇銭であった。
 扱店は富田商会(富田組)で、事務所は駅前、木綿屋は富田組の寄場となっていた。富田組は小頭制で労務者数も一番多い組であった。細島駅から西、現在の清水木材の倉庫付近の前から前畑浦に向かってオランダ人技師によって作られた防波堤がお大師さんへの登り口まで続き、通路となっていた。この中間が境界線で、向側は畑浦、手前の方が細島の勢力範囲であった。
 細島側には砂地の埋立地があり、子どもたちはここまで来て遊ぶことが多かった。すると畑浦のガキ大将たちが堤防伝いに来ては口ゲンカをはじめたものだったという。その結果、石の投げあいとなり、畑浦の子どもたちの方が良く飛ばすので、細島の子どもたちは負けて、線路付近まで逃げることが多かった。当時、江川商店の真の大正橋から西の溝には葦(ヨシ)が生え、埋めたてたままの砂地であり、片田宅前の西の水門までは良い鮒釣り場で、多くの人が鮒釣りに来た。この溝が沼につながり、その中にあった鉄橋をはさんで畑浦の方は広い塩水沼となって、畑浦の溝へとつながり、裏畑浦まで続き、新開へ流れていたため、薄い塩水であった。
 鉄橋は子どもたちの良い遊び場であって、ここでハゼ釣りをしたり泳いだりしたという。それに飽きると塩水の浅い沼に入って、ボラの子を追いかけたり、入れてある竹のボッポを揚げて、ウナギやハゼを捕ったりしたという。
 吉野川の埋立地も永井製粉所(現在細島スーパー)までしか道はなく、その先の方は砂の埋立てで沼となっていた。また、夏は学校横の溝から活動小屋のあった兒玉正朝宅裏付近の田んぼまでヤンマ(トンボ)やホタル採りに行き、稲を荒らすと百姓の人たちから怒られたという。活動写真小屋は天幕建てだったので、雨が降ると休み、途中で雨が強く降りだすと札モドシとなり、また次の晩入れるので子どもたちには嬉しかった。
 この頃、細島は商売の盛んな時で食料品、雑貨類の卸問屋が多く、三輪商店、日高伝平商店、小池又一商店、江川商店などが栄えた頃で、富高から遠く神門方面、椎葉方面に卸していた。また、味噌、醤油の製造、卸元として安藤(フジコメ)、□八■兒玉、○八■兒玉、関本忠兵衛商店があり、日知屋、入郷方面地区一帯に卸していた。そのためか、日知屋の人たちと口ゲンカをする時は、「細島の味噌クレー」「富高のゼゴン太郎」とののしりあったという。商売人は細島の方が多かったのだが、学校の本、国定教科書だけは、富高南町の石川書店に行かないと売っていないので、皆、歩いて買いに行った。しかし、一人や二人で行くと富高のガキ大将にいじめられるので、五、六名の集団でないと行けなかった。一番目の関所は曽根の一本松、第二の関所は江良の墓地付近の別れ道であった。
 行きか帰りか一回は「ミソクレ」「ゼゴン太郎」の応酬があった。その為か、大きくなっても、細島、富高の対抗意識が強く残ったのではないかという。この頃、細島のグループは内藤又一君、岡上兼吉君がリーダー格で日高本店の中庭や倉庫が良い遊び場、溜り場となっていた。ここで何かの拍子に子供太鼓台を作ることに意見が一致、それぞれ分担して作っている時、黒木千代造さんが来あわせて、「ヨシ、それなら俺が作ってやる」と初めて子どもの太鼓台ができあがったという。
 昭和四年頃、日高本店の庭を通って海岸の埋立てが県営工事として始まり、大黒屋と柏田榮一さん宅との間の山への登り道から掘りくずしはじめた。土をトロッコに積んで下り勾配を走らせたので道路に旗を持った踏切り番もできた。一期工事は一年ほどで終わり、東の方は小石の裏までだった。その後、二期工事で東は桟橋とつながった。西の方は木綿屋裏、駅に行く道とつながり、海岸の通路ができあがった。
 昭和六年頃から○一■木材が来て台湾行きの杉丸太の移出が盛んになった。杉丸太は末口直径四寸以上の物で、筏組して本船まで引いて行き、船積みを行っていた。当時、内港は浅くて浚渫していなかったので、本船が大きすぎて、内港に入れられず、外港で荷役したことも数回あったという。○老■商会、和隆木材が店舗、製材所を作り、杉丸太の取引きの最高の時であった。また、この頃は一般の木材の中継も盛んに行われていた時で、松葉運輸店は木材専用船順風丸(約二〇〇トン)が専属で就航、筏組した樅、栂丸太を一日か二日で積んでいた。蒸気のウインチと荷役の早いのに驚いたという。この船は土佐沖で積込み作業をしていた船なので、早積みばかりしていたという。本船真盛丸(約一〇〇〇トン)の荷役中の写真も現在あるという。
 細島駅の貨物列車は、朝、昼、夕方と三回到着し、到着貨物は木材が一番多く、都農、高鍋方面、妻線、青都線方面から樅、栂丸太類が多量到着、板類は都農、高鍋から多く送って来ていた。時々人吉駅から樅天井板が大阪向けに送られて来ていた。
 この時代は機帆船だけではさばききれず、本船をチャーターして木材輸送に使っていた。この頃は細島港というと東九州一番の良港、海陸の便利の良い商港として自他ともに自慢していたという。
 昭和五年頃、延岡にベンベルグ工場の建設が始まり、以後、製品、原料の移出入が増大するにつけ、倉庫が不足して来たのと、船の荷役がスムースにできるように岸壁の整備が始まり、県の引込線一、二番線が昭和六年八月にできてから岸壁に倉庫が建ち並び、一段と海陸の便利がよくなった。海岸の倉庫は東から旭化成、細島港事務所、日向商船組、農協肥料配合所、三輪商事、小池回漕店、伊藤定治商会の倉庫が建っていた。伊藤は板類、他は肥料、木炭を主として利用していた。現引込線の踏切のところまで斜めに岸塾ができ、後日、第一桟橋ができてから宇和島汽船や後からは関西汽船の定期貨物船が着き、ここからリンター、パルプ類を水揚げして倉庫保管中継を行った。この時には土佐航路は廃止されており、第二桟橋は後日増設されたが、あまり利用されなかった。肥料配合工場はバラの過燐酸石灰や油粕(豆板)等の原料が水揚げされ、貨車輸送されたバラ硫安(大牟田駅)と一緒に配合されて、ここでできた配合肥料は県下一円に貨車輪送されて居た。この当時、岡田回船問屋の前から木材を貨車卸しすると、海の中にドブンと直行、アバを組んで船積みした時もあった。その後、細島港も貨物の増加、木材類、石炭等の置場や荷役場所の不足となり、第二桟橋の処から西の方へと第二次改修工事が始まった。(『細島今昔』)
【写真23】細島の町並み
【写真24】細島の路地
【写真25】細島の路地

  ★子ども太鼓台

 昭和三年頃、細島の子どもグループは内藤又一君、岡上兼吉君がリーダー格で、日高本店の庭や倉庫が遊び場、たまり場となっていた。ある日、誰が言い出すともなく子ども太鼓台を作ることになり、ペンキを買ってきて、フトンに色をつけたり、倉庫にあった板ぎれで種々作っていたら、近所の黒木千代造さんが通りかかり、「何を作っているのか」と聞かれ、「子ども太鼓台を作っている」と答えたら、よし俺が作ってやると、自宅で一人乗りの太鼓台を作ってくれた。
 そこで、早速乗って太鼓を叩く者を決めた。小さな一人乗りの太鼓台なので、頭をぶつけても泣かない小さな子ども、河野八郎君とした。早速この太鼓台をかついで、西の小学校付近まで行った。すると、黒木富吉さん、東に負けてなるものかと、早速立派な西の太鼓台を作った。東西の子ども太鼓台は、町内を威勢よく練り歩いたものだ。東西が出逢うと、大人の太鼓台並に喧嘩をして、つっかけあったものだという。西の太鼓台は、本職の大工さんが作ったが、東の太鼓台は素人が作ったものなので、喧嘩になるとフトンがとれ、フトンを持ってスゴスゴと帰ったことがあったという。これが細島の子ども太鼓台の始まりで、後年、各地区で子ども太鼓台を造って祭りに出した。西の太鼓台は今でも黒木さん宅に保管されている。(『細島今昔』)

  ★人肥汲み取りの話

 昭和初期までの農家は皆、田畑の肥料に人肥を使用していた。配合肥料は手間がかからず便利だったが、肥料代がかかるので、よほどの時以外は使用せず、また、作る野菜類も人肥を使ったものの方が味が良く、立派にできたので、人肥を汲み取り、肥料として使用した。細島に汲み取りに来ていた農家は、畑浦・曽根・平野・深溝の人たちで、時たま塩見・富高の人たちが来たという。汲み取る小便は、餅米で一荷が二合、大便は三合が相場であった。センダル(魚の骨、内蔵等を壷に入れ腐らせ、有機肥料として使用)は、壷一本で餅米五合が相場で、正月前、センダルなどをくれた家に支払いに廻っていた。少ない家でも餅米一俵(六〇キロ)、普通の家で二俵は必要だった。一荷とは片方の汲み桶に約二斗(三六リットル)程入り、重さも約二〇キログラムから二五キログラム程度だったといい、汲み取りも楽ではなかった。こぼさないように気を付けながら、狭い家の中を担ぎ出し、宮ノ上や高々谷の坂を降りるのは苦労の種だった。荷車に二荷積んで、ガタガタ道をこぼさないように気を使いながら帰った。この様に細島とは密接な臭い仲だったので、仲が良い筈なのに仲が悪く、子どもの時からよくケンカをしていたという。これは明治二十年代にあった日知屋の糞尿事件が、尾を引いていたのかも知れないという。(『細島今昔』)

  ★児玉八郎さんの話

 児玉さんが小学校の二、三年の頃は、大阪商船、宇和島汽船、土佐商船という船が出入りしていた。その切符などを紀伊国屋が売買していた。紀伊国屋から声がかかって、客のために蛍を捕りに行ったことを覚えているという。船に持って行くと、カゴ五銭、蛍のみで一五銭くらいもらったという。船が晩の八時には出航するので、それに間に合うように捕りに行ったので夕方は忙しかった。
 児玉さんの家には大阪から醤油の卸問屋がやってきた。大阪の今野商店や鶴屋という屋号であった。この問屋が来ると、子どもも呼ばれて、新しいニュースを聞いたものである。父と降ろしの人が話しているところを脇に座って、店で働く人たちも集めて、二人の話を聞くものだったという。
 細島劇場は有名な建物だった。愛媛県の内子座にそっくりで、回り舞台もあった。せり上げはなかった。芝居だけではなく映画も上映していたが、終戦の時の大時化でひっくり返ってしまった。昭和二十年八月二六日と、九月一六日に大時化(おおしけ)があった。この一帯の家で棟瓦が残っている家は一軒もなかった。戦争の空襲で、家がゆるんでいるところに大時化だったので被害が大きかった。

  ★釣りあげ

 昭和初期頃まで細島では、「釣りあげ」と呼ばれる相互扶助の仕組みがあったという。是沢芳男さんによると、漁師仲間の家で結婚式や船を造るとき、神社仏閣の修理などのような物入りの時に、みんながその日の水揚げを全部その家に持って行って、費用の足しにする仕組みがあったという。他の土地のように大きな網元がいてその下で働くというのではなく、細島では、それぞれが各家で船を持ち仕事をする「一ぱい船主」で、小規模漁業で行われた助け合いの心は「釣りあげ」だけではなく、経営危機に陥った漁業組合の体験も大きな役割があったという。
 大正期に漁業組合が赤字続きになったとき、青年会が中心となり、バリカンなど理髪器一式を買って、町内の各戸に一回何銭で貸すという、今で言うリース事業を行い、この事業で蓄えた資金をもとに経営を立て直したという。このバリカンリースは、昭和五年頃まで続いたといい、是沢さんはよくバリカンで頭をつんで(髪を切ってもらった)もらったが、錆びていたので髪の毛を引っ張って痛かった思い出があるという。
(※「是沢芳男さんにきく」という記事を編纂室にコピーしてもらったが、出典が不明。)

  ★細島の河童

 『ふるさとの昔話』に、細島の河童、ヒョウスボの話が取り上げられている。

○海の河童の話
 昔、細島の海にヒョウスボどんが住んでいました。
 ある日、ヒョウスボどんは海からあがってきて「私の住んじょる岩場の近くにどっから流れついたのか一本の包丁があって、恐くて夜もおちおち寝ちょられん。どうか助けて下さい。お礼はきっとします。」と、江川某に頼みました。そこで、海に潜ってみたら本当に一本の包丁が岩場に落ちていたので、それを拾ってかたづけてあげました。すると、またヒョウスボどんがあがってきて言うことには「ありがとうございました。あなたさまのご家族や子孫の人たちには、今後決して私達はいたずらをしませんので海に行かれる時や海に入られるときには江川一統、堺屋一統と叫んで下さい。約束は必ず守ります」と言って海にもどっていったそうです。
 この類型の伝承で、すぐに思い出されるのは、都農町に伝わる金丸家の話であろう。「金丸一統手がけをしやんな」と言えば河童がいたずらをしないという内容である。都農町の金丸家は神官の家系であり、河童との関係も想像できるが、はたして細島のヒョウスボどんの話に出てくる「江川家」「堺屋」とはいったいどのような家なのであろうか。
 現在聞かれる「堺屋」という屋号の家は、江川商店を営む江川惠之助さんの家系であるというが、惠之助さんはこの河童の話は聞いたことがないという。妙国寺の若い住職に「細島の河童は空を飛ぶと祖母に聞いたことがある」という話から、この江川家の話を尋ねたところ、「江川家は水の管理をしていたので、その関係があるかもしれない」と伺い、早速、江川キミ子さんにお話を伺ったところ、件の江川家であることが分かった。
 キミ子さんの江川家は元々郵便局近くの惠之助さん宅右横に並んであったが、道路が通るために現在の平野町へ引っ越すこととなった。以前は、敷地内に湧き水のたまり場があり、それをキミ子さんの家が管理し、道路を挟んだ向かいでは風呂屋も営んでいたという。水神様も祀っており、現在も道路脇にはその一帯を見下ろす場所に安置されている。
 キミ子さん宅では、「包丁」ではなく、「宝刀」と語られ、その実物を現在でも保存されている。そして、江川家では、前述の話より詳しく伝えられている。
 ヒョウスボどんは岩の上の刀を取りのけてもらった謝礼に、江川家に毎朝鯛を二匹届けたという。数年経って「江川家では魚はいらないから、堺屋関係者や江川一族に害を与えないようせよ」とヒョウスボどんに告げ、これを誓わせたという。
 この話で、刀を拾い上げたのは堺屋新家の九左右衛門と伝えられ、本家の四代目兵右衛門がその後保管したという。ちなみに彼は明治三十三年七月から三十五年四月まで細島町の六代目町長を務めた。
 江川家に今も伝わる宝刀は、左文字の名刀だと言われる黒さやは六十五センチの長さ、刀身は四五センチの小刀である。戦時中には他の刀は供出したが、ヒョウスボどんの宝刀だけは倉庫の奥深くに格納していたという。
【写真26】江川家の水神様

【引用文献】

甲斐勝編著『日向市の歴史』昭和四十八年、日向市
平部■南『日向地誌』
『宮崎県東臼杵郡 細島町是』明治四十四年
石川恒太郎『日向ものしり帳』昭和四十五年、MRT宮崎放送
宮崎県神社庁編『宮崎県神社誌』昭和六十三年、宮崎県神社庁
『ふるさと ひのかげ』
鈴木健一郎著『日向の伝説』昭和八年、文華堂
「細島婆の経歴について」『郷土史蹟調査』(謄写版。牛尾校(牛尾小学校)編、昭和九年三月)
『都農町史』平成十年、都農町
山本健治「都農の漁船の歴史」(「都農の漁師山本健治氏の記録」『宮崎県総合博物館紀要 二〇』平成九年、宮崎県総合博物館)
石川恒太郎『富島町史』昭和十六年、富島町
秋山榮雄『民俗探訪 上巻』平成十六年、鉱脈社
平坂徳治『細島漁民の歴史』昭和六十二年、私家版(当時七八歳だった平坂氏が『細島公民館だより』第一四号から第一七号に連載したもの)
児玉洋『細島の歴史と風俗』昭和五十九年、私家版
渡邊茂雄『細島今昔』昭和六十一年

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