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楢木範行年譜12 日向馬関田の伝承 昭和12年12月

※今後、少しずつ、こちらに文字起こしをしていきたいと思います。

楢木範行『日向馬関田の伝承』鹿児島民俗研究会、昭和十二年十二月

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序文

昨年は春と秋と両度までも庇児島を訪れたのに、楢木の大人には一同は不在の為、一回は私の僅かな遠慮から、終に面会を求めずして還って来た。今この書物の世に出て行くのを見るにつけて、何か寂しい心残りを感ぜずには居られぬのである。故人はやはり自分などが想像してゐた如く、一種新しい型に属する伝承者であった。明治初頭の進取時代に人となって、まともに世の中の移り替りを見て来た人たちには、新旧二つの生活様式の両立し難いことが、幾分か過当に印象づけられている。父祖伝承の経験に忠実な者、継いで起るべき変遷に対して、若干の危惧を抱く者が、寧ろ一段と熱心に所謂開花の本質を捉えんとした。そういつ迄も過去の事物の詠歎に、耽ってばかりは居られぬという気風が、多くの有識者を支配するようになった。この警戒は時として、やや反威■に近いものとさえなって居る。昔を尋ねられることを当世と交渉無き者と、認められたかの如く憤る人さえあった。そんな事を聴いて何になさると、叱られたことも私は覚えている私の師事した田尻稲次郎先生などは、学問を以て愛国の一大事業と認め、人生の福祉以外に研究の目的は無いということを、確信して居られた学者であったが、それでもなお私等が地方の旅から戻って来て、前代の事物の埋もれて居たものを報告すると、耳を傾けて其の話を聴きながらも、必ず最後には今はもう其の様な問題を、穿鑿して居るべき時期じゃない、というような批評を加えられた。一国の要衝に立つ人々にすら、現在まだこの考え方が幾分か痕を引いて居る。まして経済の中枢を遠く離れて、ともすれば全体の進歩から、後に取残されてしまいはせぬかという、漠たる不安を抱きがちな者が、所謂旧弊を危険視して、自分はとにかく愛する子孫までが、徒らに往きて返らざるものに憧憬して、現世と疎隔し将来の適応性を失わんことを憂いたのは、極めて自然なる人間の情と言うべきである。以前―つの民族の個々の群の中に、必然的に備わって居た古老という者、即ち明確なる記憶と周到なる理解力とをもって、しかも生前に少くとも一人、頼もしい伝承者を見つけて之を語り、之を引継いで置かなければ死ねないという、教育の使命を意識していた者が、もしも斯ういう過渡期の通念に囚われていたとすればその内部の煩悶は果してどんなであったろうか。楢木君は幸いにして夙に伝承の学に携わり、新たなる人生の観方を試みんとする人であった故に、学問と恩愛との二つの熱を以て、徐ろにこの一旦冷え固まった表面を、融解することに成功したことと思われるが、子供には到底親の死ぬことなどは予期せられるものでない忽ち不慮の永訣に遭遇して、今更に聴き漏らした題目の数多きを欺いて居るのは親子双方に対して、まことに同情すべき悔恨と言わなければばらぬ。自分は齢も故人と近く、心境も亦少なからず、相似ている。もしも会面してこの時代の推移を語り、反動が屡々無意味なる断絶を、引起そうとした歴史を説くことが出来たならば、故人も或は今少しく意を安んじて、自ら進んで問われない事までも、語り残して置こうとせられたかも知れない。しかし畢竟(ひっきょう)する所、学問もまた一つの縁である、機運が到来しなければどんなに奮闘して見ても、個人の力では一代の研究心を、新たな方面に向けかえることは出来ない。そうして私も又楢木君と同じに、斯んなに早急にこの大切な故老が、語らぬ人になろうとは思わなかったのである。此経験は利用しなければならない。我等の知る限りでは、学問の趣味にはたしかに遺伝がある。古い生き方や考え力を、詳しく知って居りたいと思う人の周囲を探って見ると、必ず血筋のどこかには、昔をよく知って語り残したがって居る人がいる。しかもその多くは新時代に遠慮をして、鬱々として陳ぶる所無く、豊富なる我々の為の新知識を胸に抱いたままで、遠く永く旅立ってしまうのである。この肉身の至情を全社会の賢明に役立たしめる為には、少しでも早く日本民俗学の意義の、弘く民間に普遍することを希望しなければならぬと思う。
  昭和十二年十一月
                           柳田国男識

日向馬関田の伝承

話者 楢木茂吉 農業 六十九歳
採集地 西薩藩真幸院馬関田郷島内村
  宮崎県西諸県郡真幸村大字島内 真幸村は吉田郷、馬関田郷より成る。
話者略歴
明治二年八月十五日生る。
真幸村大字西川北、黒木重行(後、相馬姓)の二男。間もなく、楢木諸右衛門の跡(文政元年には既に後継者なし)を立てる。後、親戚野田太兵衛(真幸村大字島内)の養子となる。故に野田姓は小生の次兄名乗る。
昭和十二年九月十四日死亡(心臓麻痺)

楢木という苗字

 楢木の先祖は、関ヶ原役に敗れた島津義久公が帰国の途。伊勢国を通過の折彼地で染屋をしてゐたのを連れて来られたのだと云ふ。それまで薩、隅、日の地に染屋が居なかつたのではなから
うが、彼地の方が発達してゐたか、特別な初め方があつたのか、或は技術を買はれてか。此地に来てからは御用染屋をしたらしいのである。
 古来、楢の木玉(楢の古木を切つた後に出た新芽の一、二年経たものになるもの)或は楢の果実のヘタを染料に用ひた例があるから、かゝる理由で楢木の苗字を名乗つたか、或は貰つたかしたのであらう。
 義弘公の居城と云はれる加治木城(姶良郡加治木町反土)の西北側を流れる川は楢木川だと三国名勝図会にある。水と染屋とは関係の深いものだから、楢木川と楢木の祖先とが全然無関係だとは言へないかも知れない、
 しかし、その後楢木は余り栄えなかつたのであらう。今日此地方に楢木は僅かしかない。
 父の継いだ楢木も、既に文政年間には跡は絶えてゐたのを父が継いだのである。(馬関田鄕士高極帳参照)しかし、父が京都に行つた時、西本願寺の僧の話では、今でも伊勢方面には楢木といふ苗字が相当にあるといふことである。

わがむら

 一、わがむら

 二、郷中

 三、真幸盆地の出口入口)


村の大事件

 一、明治十年の役

 二、火事

 三、洪水

 四、川直し

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 五、噴火

 六、鉄道開通 

 七、シンデン〈注「新田溝〉の略称)

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家の盛衰

 一、家の盛衰

家と人

 一、家と人 

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 二、照明 

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 三、年長者

祭祀

 一、祭屋のこと 

 二、八石祭 

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 三、アマゲ〈注雨乞祭〉

年中行事

 正月

  1、正月どん

  2、ウドシ

  3、コドシ

  4、ニギエ

  5、ハガタメ

  6、農具の年取り

  7、ヒヨリダメシ

  8、アキホウ

  9、ウスオコシ

 10、ヤマノウチダケ

 11、フッカアッネ

 12、ナンカンセツ

 13、ナゝトコイノズシ

 14、タケハシラカシ

 15、タツクリ

 16、モチ

 17、ホダレヒキ

 18、メノモチ

 19、ハラメウチ

 20、モチクワンジン

 21、ホダレヒキノユエ、タツクリノユエ

 22、ハツカショガツ

 23、ニセイリ

 24、オクリシヨグワッ

 25、ウマノトシトリ

 二月 4項目

  1、タラウヂタチ

  2、ウチユエマツリ

  3、タネオロシ

  4、ヒガン

 三月 5項目

  1、サングワッノセツ

  2、ニンギョスエ

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楢木範行(1939)『日向馬関田の伝承』鹿児島民俗研究会digidepo_1222697_PDF_ページ_041

  3、ヤマクヤシ

  4、サンゼウンマノリ

  5、ウンマンコモレ

 四月 2項目

  1、シダワッヨウカメイ(ドククッンドンメイ) 

  2、カンタテ

 五月 2項目

  1、ゴグワッノセツ

  2、ノボリタテ

 六月 8項目

  1、ヲタヲドリ

  2、アタッコ

  3、ツルトボシ

  4、ウシコエ

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  5、ワクグイ

  6、ヤクシマツリ

  7、クヮンノン

  8、コクゾ

 七月 17項目

  1、タナバタ

  2、タナバタウシ

  3、其他

   (イ)

   (ロ)

  4、ハカコシタヘ

  5、ボンバナトリ

  6、ハナタカヅツ

  7、シヨロミッツクリ

  8、シヨロサア

  9、ハッジヨロ

 10、タナバタナガシ

 11、食物

 12、フケジョロ

 13、ナツシ

 14、ショロオクイ

 15、ボンガマ

 16、ショロバブ

 17、ショジンオトシ

 八月 5項目

  1、ハッサクノセッ

  2、

  3、ハッグワッノヒガン

  4、ジュゴヤ

  5、ジュゴヤンツナヒキ

 九月 1項目

  1、ハックンチ

 十月 3項目

  1、ホゼ

  2、カメゾコ

  3、キノコ

 十一月4項目

  1、ウッマツリ

  2、ニジュサンニャマチ

  3、ニジュドッヤマチ

  4、イナリマツリ

 十二月5項目

  1、イリカハリ

  2、ニジュクンチ

  3、トイヒキ

  4、トシノバン

  5、オヤシツケ

産育・婚姻・葬送

 一、産育26項目

  1、ミオッカ

  2、ヨロコビ

  3、ミガルなる

  4、ショノンゴ

  5、ハラオビ

  6、モレゴ

  7、ヤシネゴ

  8、バヽ

  9、ゴゼバヽ

 10、コゼウンボ

 11、チカラメシ

 12、ヨアソビ

 13、ツル

 14、ナツケユエ

 15、ナガエ

 16、ヒゲノノ

 17、アカヒ

 18、ムカエツキ

 19、モッフン=モチフミ

 20、山の神講

 21、妊娠中

 22、出産時及其後

 23、産衣

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 24、郷中との関係

 25、産婦の食物

 26、アトヲミル

 二、婚姻36項目

1、ナカダチ

2、クチョキク

3、ヨメジョオツトイ

4、ミデ

5、ヒッムスビ

6、デエ

7、ゴゼムケ

8、髪の結い方

9、着物

10、持参物

11、ゴゼムケの時日

12、母親の注意

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13、婿の方から行く人

14、シオケ

15、出す順序

16、ヂュビラキ

17、ツナッイヲ

18、重開きの江阪節(父が娘に)

19、嫁方に着いた時の歌(馬子が歌う)

20、発出

21、嫁の出口

22、綱渡し

23、道中の歌(馬子が歌う)

24、婿方に着いた時の歌(馬子が歌う)

25、這入り口

26、ゴゼムケの日取り

27、婚期

28、

29、ドロ投げ

30、

31、三日戻り

32、ニセザッショ

33、ハラメウチ

34、ムコマゲ

35、ソバヨメジョ

36、一つ年上の嫁

 三、葬送11項目

1、カケツケアゲ

2、ツケ

3、メサマシ

4、ギョウシ

5、棺にいれるもの

6、オクイの順序

7、モリ

8、イケホリ

9、葬る方法

10、郷中との関係

11、その他

ことわざ

(-ことわざに限らず、俗信・噂等よく一般人の口の端に上ることを「言ひはへ」といふ-)

生業

 一、農業その他

  1、タンドフシン

  2、タンドヒワリ

  3、ツナカキ

  4、スッ(鋤)

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  5、クヮガッマングヮ

  6、

  7、

  8、トッワラ

  9、ダツキュ(らっきょう)

 二、気象

交易

 一、交易

  1、竹細工

  2、米

  3、砂糖

  4、塩

  5、古着

  6、魚

  7、市

   イ、五日市

   ロ、二日市

   ハ、飯野町

   ニ、ヨケッバイ(四日市原)

   ホ、八日町(加久藤町)

   ヘ、十日町

  8、問屋

講・ゆひ

1、イセコ

2、ナハネコ

3、チザシコ

4、ヤマンカンコ

5、タノカンコ

6、カヤモアエ

7、キカイモエ

8、ゼンモエ コメモエ

9、ヨイエダ

10、キョデナイ

11、ヨイヨツヤマ

12、ワカレコ

食物

 一、普通食事

1、食事回数

2、全食物

3、カテモノ其他

4、榎の葉

 二、共同飲食

妖怪・不思議

河童

河童天狗

小坊主

河童

怪火

しらせ

怪火 怪音

早脚

祟る墓

躓田

風穴

井戸

ソガバカ

三徳どん

俗信

狐にだまされた時は地に蹲んで棒で薙ぎ払へばよい
○狐にだまされた時は手を輪形(ヨニ-を意味する)にして其の中から見ればよい
○河童その他の化物は袖の下から見れば見える○寒い晩などは雪バショ(姥)が出て来ると言って子供をあやす○山姫は洗髪でよい声で歌ふと云ふ
○碁ともをだます(あやす)時はワウ(妖怪?)が出て来ると言ふ

附録

 文政元年寅八月二日

 馬関田郷士高極帳

 〈話者蔵〉

嘉永元年戊申六月 

仕明抱地 

 知行高名寄帳 

野田勘助

〈話者蔵〉

あとがき

 「ゆめのようだ」と幾度か思い、人にも語り答えているうちに、父が掃らぬ旅立ちをしてから、もはや百日に垂々としている。いまだに白い脚絆、白い足袋、草履を履かし、ズタ袋を首にかけてやった手のおののきを感じ、瞼の熱くなるのを覚える。
 憶えば、私が民間伝承の採集に志してから、ひとむかしの歳月が流れている。その間、「ふるさと」を外にして、他所(ほとんど鹿児島県下)ばかり歩きまわった。正月はまだしも盆には、西目から来ている大工木挽きでさえ、仕事を中止して帰郷するのだから、「かえるものだ」と言われてもなお帰省しない年が一度ならずあった。郷里はいつでも採集出来るとの考えと、郷里に対する妙な憚りとから、他所ばかり採集していたが、一昨年の夏、東京で、柳田先生の還暦慶祝記念として開かれた、第一回民俗学講習会に出席しての帰りに、夕暮れの岩国でお墓に点れる「盆ヅル」の燈にふるさとの恋しさをそそられて、郷里のまとまった採集を思い立ちましたが、九州に渡るともう故郷のような心地になって甑島に渡ってしまった。その年の冬休みには、自ら婚姻習俗の実践当事者になって、わずかに当日雨がちょつと通ったので「女が道路に小便をすればゴゼムケの日雨が降る」を採集したにすぎなかった。去年は夏休みになると問もなく長兄に逝かれて計画も挫折したが、強いて暇を得て郷里を避けて、肝属郡内之浦町大字大浦を中心に数日の採集をした。とにかく去年はこの三月、鹿児島県中等教育研究会の席上発表すべき「郷土における交易の研究」の資料採集に力を注いでしまった。柳田先生は春と秋と二回来県されて五月二日には、県立図書館において「世相を対象とする学問」の題下に有益な御講演をされて多大の感銘を享けました。父も拝聴したのであった。十月には山形屋において野間吉夫氏の採集にかかる「民具展覧会」を催したが父も自製の数点を出品したことであった。年末には「年末及び年始の行事」を放送すると間もなく、日置郡田布施村に採集中、風邪を引いているのを、我慢してその足で野間氏と、喜入村に採集競争をして無理をしたために、病床に昭和十二年を迎えてしまった。かくて、二月二十八日に西諸県郡教育会総会において「郷土研究について」の講演を依頼されて、いよいよ郷里の民問伝承採集に力を注ぐことを、ひそかに誓ったのであった。そして、六月父が出鹿児した時までに大ざっばな聞き取りは終わったが、なお補正のものが多々あったので、夏休みこそはと大いに期待するところがあったが、いよいよ休暇になるとすっかり期待は外れてしまった。七月三十日の「練習船の生活」の放送準備に忙殺され、引きつづいて八月八日の薩藩の密貿易とバイ船の話」を放送して、八月十一日にやっと帰省出来たが、お盆の日から急に父は病気になってしまった。幸いに数日で全快したが、資料の補正など止めて、九月になったら早目に出鹿児されるよう口約して別れた。その日をどんなに待ったことか・・・しかもこれが永別になろうとは・・・!!
 残りの休暇三日を薩摩郡藺牟田村で採集して九月に入ると、支那事変は徐々拡大して応召者は愈々増加するので「範行も応召されやしないか」と気遣いながらも、秋風が立ってめっきり涼しくなったので、悲願になったら鹿児島に行くのだと、小林町に勤めている妹二人にもわざわざ言伝をして、持って行く品物などもぼつぼつ用意していた。これは納棺の際気付いたことだが一番良い着物を着せてやりたいとの心遣いから、このお盆にこしらえたばかりの着物の背縫の襟近くを嵐が噛み破っていたので妹達と思わず涙したことであった。
 父自身も今年はあまり年柄が良くないと思っていたらしい。「俺も九だし、お前(兄)も七だから、この九月十九日(旧八月十五日)の俺の誕生日は餅を搗いて、年取りをしよう」と言っていたそうだが、その誕生日の厄除けをもしない内に、仏に召された事はかえすがえすも残念である。父は熱心な敬神家で、しかも真宗の信心家であった。親類や近所の「弔上げ」は大抵奉仕していた。今年の盆には病み上りにも拘らず、殆んど親類廻りもし、二三日前から近所廻りや、産土様である羽黒神社にも詣って、その朝は今日は蓮如上人の発つ日(入寂の日)であると言ってお経をあげたのであった。斯様にすべてが思い当ることばかりであるが、成るべく悪くこりたくない人情と、周囲の人々が細かな心遣いをしないので、只々唐突な事に感じられるのであろう。胸が痛いと云うので医者を呼び、横座に坐りながら注射して貰ってからは、支那事変のこと、県教育界の浜職事件のこと、鹿児島に行くこと等の対談中寒気がすると言うので床に入って間もなくであった。八人の子が殆んど皆水を飲■し、ミトリもし得なかったのである。父は九の数に騙されていたような気がしてならない。九つの時は祖父が戦死し、母は死んでからは子等に母と呼ばしたい者の無きままに隠居に独居の寂しい生活をつづけて、九年目の六十九の九月に、此の世に「いとま(げ)」をしてまったのである。不思議に兄夫婦の年の合計も六十九である
 斯うしてまとめて見ると、あれやこれや疑問や不充分さが今更のように目立って、世に出すなど甚だおこがましい次第である。しかも、敢えてまとめたには、最初は我々子等に物質的にこれと言うものを残し得なかった父の唯一の遺産としたい■く感傷的な「子心」からであったが、出来得れば郷里の多くの人に読んで貰って、今後恥しくないものを世に送り得るための資料を提供して貰いたいとの欲望に圧されて、柳田先生に御指導のお言葉をお願いしたのでありました。この上は先生の仰せの如く、一日も早く私のこの経験を利用して下されば幸甚の至りであります。加之新しい教育を受けた者が、たとい無学ではあっても、過もなく世渡りをして来て、黙々として暮らす老人との接触を密にして、過去の生活の歴史を聞き直したら、教えらるる事柄の多いことを信ずる。
      鹿児島市上荒田町の寓居に於て
       南京陥落して祖国の文化を東亜に昂揚するんぼ日を希いつつ
                             楢木範行

索引(ア~ワ)

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