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【ご挨拶】コンビニ辞めて、100万貯める

1.コロナ罹患から療養生活へ、医療従事者の方へ感謝

17年やってきたメディア業界、売れっ子ではないながらも毎年多様なメディアの裏方として携われていることにやりがいを感じ、時々プロデューサーと喧嘩をし、アーティストさんに癒され、プロジェクトが終わり、また始まる。

そんな当たり前を突然手放すことになってしまった。
2022年4月某日
元々気管支の疾患を持っている僕は、よく炎症が回って熱を出す。今回も同じような違和感があったが、そこからが早かった。
3日間の高熱のあと搬送された。パーテーションで区切られた仮設の検査区画で小さなパイプスツールに腰掛け、防護服を着た看護師さんの「陽性と出ておりますね」を一字一句噛み潰して飲み込もうとしていた。

昼も夜もお構いなく、30分に1回は現場スタッフからのLINEやSlackの通知が鳴るスマホはその日からすっかり息を潜め、保健所スタッフさんからの電話だけが決まってAM11時頃に鳴った。
持病のため数年前に購入を勧められていたパルスオキシメーターを指先に挟む。気管支疾患の影響で肺に酸素があまり取り込めない身体だった僕の血中酸素は回復に向かったあとも91%からなかなか上がらず自宅待機は延び続けた。

あんなに「あなたがいなければ回らないですよ」言われ続けていた現場が物音一つ聞こえない遠くで進んでいることに不思議な感覚を抱いていた。
その時はそれだけだった。

2.現場からの事実解雇、手続きだけは山のようだ

大きな病気や何かがあったときには代役を立てられ、そのままスタメンの座を追われる。スポーツ選手ほどシビアではないがそのことは分かっていた。でも3週間で自分の築き上げてきた社会に居場所がなくなる様を立て続けに見せられると、ちょっと凹む。

22年当時は日本中のメディア業界が風評被害に怯えていた前年度から少し緩和した時期ではあったが、毎日新しいルールが増え、次々とロケや収録がキャンセルされていた。しわ寄せは編集マンなどの裏方技術スタッフだったように感じる。
新しい収録ができない代わりにダイジェストや過去の再放送の編集をそれこそ24時間スタジオに篭って作業していた。まだ代替案の決定も編成から降りてきていない中、彼らの悲鳴にも似たLINEが時折送られてきてはこっそりデータを送ってもらって自宅で手伝ったりもした。
そしてスタジオマンの多くが罹患した。

台風がやってきて、みんなでそいつに立ち向かい難局を乗り切ろう、みたいな気概もあった。だからこそ自分の置かれた立場に不甲斐なさを感じた。
彼らを横目に僕はひたすら関係会社への謝罪をしていた。仲の良いスタッフからは6名の罹患者が出ていることは聞いていたが、表向きは僕だけが陽性扱いだった。
やれやれ、とだけ感じた。保健所にも連絡は行っているのに現場の人間に隠すのは長年の体質ゆえなのかな。SNSに書き込めばいいのか、労基に駆け込めばいいのか、寿司でもかきこめばいいのか分からず、会ったこともない制作会社の方の前で僕は頭を下げ続けた。そして寿司にした。くるくる回る寿司の皿には見慣れないプラスチックのカバーが被さっていた。

復帰後、すぐにプロデューサのオフィスに通される。
「まだ体調も万全でないだろうから、いったん編集や資料作成を自宅でやってもらえるように手配する」
この“いったん”がボディーブローだ。東日本大震災の際に、多くの東北からのスタッフを主に都内で受け入れる格好になった。
被災者である彼らをサポートをすることに異議はないし、会社のみんなでバンに乗り込み東北にも向かった。
けれど結局多くの関係者のポジションを空けるためにフリーランスや下請け制作会社のベテランのクビを切ることとなった。
「いったん」「いったん」「いったん」理由を付けられて解雇されてゆくベテランたち。何人もの世話になったおっちゃんが罵声を上げていた。上に掛け合ってくれと懇願されたこともある。
自分が加担していないとは言い切れない、僕はそのときまだ若く、ディレクターに昇格し彼らの椅子を奪った一人でもある。

いま、僕の前にそれがやってきたのだった。巡り巡って肩を叩かれたのだ。目には見えないウイルスではなく、毎日のように会ってきた上長の姿で。彼は僕が会社への対決姿勢を取らないように万全の準備と努力の見える資料を並べた。
「仕事は回すようにするよ」

ひと月後、たくさんの資料、自席に積まれたテープメディア、ロッカーを片付け……私物を宅配で送ることとなった。

ここに、便利な(コンビニ)ディレクターを辞めると宣言する。
そしてとりあえず100万貯めるのだ。
「そろそろ業界に対しての社会貢献を」なんて考えていた自分の青写真は消え去った。地盤を固めて作品を作り続けるのだ。

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