2/27 のウクライナ紛争関連、Facebook投稿記録。悲しみから「110年の平和ボケ国家を目指せ」とか「映画館のひじ掛けとうらみつらみ」とか、抽象的思考に走った一日でした。
2月27日 7:33
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とても大切なことなので読んで欲しい。
この戦争で気になっているのが、これでもかと、美談英雄譚が、マスメディアからも、SNSからも、わずか数日の間に生まれて拡がっていること。日本だけではない。世界に。
下にリンクを張ったツイッターから引用
福島の人(外道)ωというアカウントの方。
「・WW2以来世界初の単独エース・キエフの亡霊(実在には疑義あり)
・侵略軍の足留めのために、さよならと告げて我が身を犠牲に橋を落とした工兵
・陥落必至の首都に留まり指揮を執り続ける大統領
・大統領選を争った前職大統領が銃両手に引っ提げて義勇兵参加
・くたばれと罵声を上げてミサイル巡洋艦に抵抗して13名全滅する島の守備隊(※)
・完全装備の敵兵に「お前のポケットにひまわり(国花)の種を入れておけ!倒れて花の養分になれ」と詰め寄る婆ちゃん
(※:ロシア側は82名降伏と発表。しかし元々、警備兵と学者とその家族80数名しか住んでない)
・戦火の中で挙式した新婚カップル、共に義勇兵参加 ←New!」
ここから僕の感想意見
世界に拡がっているのは「反ロシアまたは反プーチン」であって「反戦」ではない。(反戦、no war という言葉を使っていても)
ウクライナの祖国防衛の戦争は美化され、祖国を守る戦争は肯定されている。
戦争になると本当に英雄的な行為に人間は出るのだと思う。今回、ここまで現れた美談英雄譚のうちいくつかは、ほんとうのことだろう。
しかし、真の反戦というのは、反戦の徹底というのは、正義の側と思われる、自国の側の英雄的行為もまた戦争の一部であり、英雄の行為の結果として例えばウクライナのエースパイロットの活躍とは、反対側から見れば、仕事任務として(意味もよくわからず、演習だと云われて駆り出された)ロシア軍パイロットの、ロシア軍の若者の多数の死が存在する。英雄的行動も、本質は殺人行為または自殺行為である。命を損なうことで、「命より、大切なものがある。一人の命より永続する価値がある」という価値観を世界に拡げているのである。
そういうこと全体に反対することが、戦後日本で「反戦運動」を続けてきた人が求めてきたことではないのか。
反ロシア(反独裁国家、反中国)と、戦争の美化が、この戦争の結果として、人の心に残るとしたら、その後の世界にどういう影響をもたらすのか。喜ぶのは誰なのか。
2月27日 8:31 ·
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他国の戦争だから、こんなスタンスで発言しても、なんとなく見逃されているけれど。
自国の戦争で、この三日間、僕が投稿したようなことを発言したら、確実に「非国民」と言われて、官憲に捕まる前に、愛国者の皆さんにリンチ食らうな。愛国者にはリベラル、左翼の側の人も含むだな。
日頃「反戦」を叫んでいるリベラル・左系の人の多くも、あっさり「反戦の名のもとの正義の祖国防衛戦争肯定」になるということがわかったのは貴重だ。
戦争というか、政治の本質は「友敵関係」であって、友の暴力は正義として肯定され。敵は存在自体を否定するところまで(抹殺するところまで)止まらないのだな。カールシュミットの言うのは正しいな。
戦争のときは、どちらも、正義(に見える)側も悪(に見える)側も、プロパガンダ作戦が全力で発動されている。というのは戦後に検証すればいつでもあきらかなのに。歴史はそれを教えているのに。戦争遂行中には、99%の人はそれにのってしまうのだな。
というか、それに抵抗したり裏を読んだりしようとしただけで非国民扱いされるのだよな。
自分のこととして体験できたのは貴重だな。
2月27日 9:11 ·
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八幡さんは僕と全く同じ感じ方。立場だな。
八幡 和郎氏の投稿を引用紹介しながら(ここでは省略)。スターリンもモスクワから後退し、蒋介石も南京から後方に下がった。首都が陥落しそうなときにリーダーが英雄的に首都に留まるというのは劇画的なヒロイズムだが、危険なので、アメリカやフランスの勧告に従ってリビウに退却しそこから指揮を執ったほうがいい。世界もゼレンスキーの勇気に寄っているが、危険だ。という内容。
2月27日 11:15 ·
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なんか、いろいろ悲しいので、「具体的な行動」なんて何もできないし、したくないので、(その理由はいままで書いてきたことから推測してくださいね。デモとか行かないです。)なので、例によって何の役にも立たない、すごく抽象的な思考、妄想に逃避します。
結局、人間というのはすごく壊れやすいもので、簡単に死んじゃうもので、暴力にすごく弱くて、そして命は失われると取り返しようがないので、そのいちばん貴重なものを取り合う戦争というものを代替する手段というのは、すべて幻想になってしまうのですよね。話し合っていろいろそれを避けようとしても、どちらかが約束を破ったら、結局、命の取り合いになる。
攻撃力は科学技術でどこまでもエスカレートするけれど、生身の人間の壊れやすさは、原始時代とひとつも変わっていないのだからなあ。
アニメとかファンタジーの世界なら、対立する部族集団、それぞれの代表が出てきて、何か、命を取り合わない形で戦って、それで負けた方は潔く引き下がる、みたいなことはあるのだけれど。昔の戦争だって、大将同士が名乗り合って一騎打ちにして、命のやり取りは大将だけが責任を負って、その勝敗に従って、あとのやつらは無駄な殺し合いをしない、みたいな知恵というのは、時には働くこともあったのにな。
どうして近代から現代の総力戦というのは、訓練された兵士だけではなく、市民一人一人が武器を持って殺し合うところまで、すぐいきついてしまうのだろう。シリアでもイラクでもアフガンでもそうなってしまうのだよな。圧倒的な最新武器兵力が投入されることと、市民が最後まで武器を持って抵抗することがワンセットになっている戦争というのは、残虐さのレベルで言うと、なんらかのルールで皆殺しあいを避けた原始部族間戦争のある種のものよりも野蛮だったりするよな。
ウクライナもロシアもサッカーも柔道もボクシングも強いのだから、「どの競技で勝負するか」を二国で話し合って、何を掛けるかを協議して、あとはそのスポーツ競技、いくつかの勝敗に、両国とも従う、それを他の国が攻勢に行われるか見届ける、みたいな、ファンタジーかマンガみたいなことに、なぜ人間は進化していかないのだろう。それなら誰も死なないのに。戦略戦術の優劣や勇気や士気や愛国心や、そういうものはスポーツ格闘技の試合でも、十分に示せるのに。
あるいは両国の技術の粋を集めた無人戦闘機械、ロボットやドローン部隊同士を、両国が合意設定したフィールドで戦わせて、その結果に従う、とすれば、人の命は失われないのにな。そうすれば技術を開発し運用する、国力の総体の勝負になるのにな。
それは、そんな夢物語のようにならないのは、冒頭に戻るが、命という、不可逆的かつひとりに一回一個限りのものが、誰にとってもいちばん貴重だからなんだよな。その取り合いをしないかぎり、対立は収束しないのだよな。お互い、納得できない生き物なんだろうな、人間というのは。
話は、思考は、また別の方に飛んでいく。
「平和ボケ」という言葉がある。平和ボケ上等、ということを考えている。
僕は1963年の生まれだから、日本が、直接、戦闘に加わった戦争を知らない。ベトナム戦争は日本にある米軍基地から飛び立った米軍が大量に人を殺しただろうが、と言われればその通りだが。最近のアメリカの戦争では、後方支援で、戦争に参加しているではないかと指摘する人もいるだろうけれど。そういう関りはあれど、(とにかくこういうことを書くと、いや、こうこう日本人は戦後も戦争で人を殺したと指摘する人は、いろいろと出てくるわけだけれど)、しかし、外形的な話として、僕が生まれて以降、僕自身はもちろん、日本人は、自衛隊は、ごく少数の例外的事象を除いては、直接的な、自らの手で,兵器でおこなった銃撃砲撃爆撃などで、他国の人を殺したことは、ほとんどない。
人間の寿命は、だいたいマックス110歳だ。110年間、日本人が自衛隊が戦争をしないで他国の人を殺さないでいつづければ、「自分自身が、肉親がリアルタイムで日本の軍隊に殺された」という記憶を持つ人はいなくなる。先の大戦が終わった1945年から77年たったから、あと、33年。2055年になるまで、がんばらんといかん。
「戦争の記憶を忘れまい」という教育や、「戦争記念館」みたいな展示や、記録映画やドキュメンタリーや小説や、そういうものでは加害被害の記録と記憶は再生産されるけれど、リアルな実体験の殺し殺されの体験記憶保持者は、いなくなる。
ふつう、戦争の記憶は「忘れてはならない」という方向で語られるのだけれど、その努力は貴重だということに反対はしないけれど、僕は、日本人と、日本の隣国の人、みんなが「直接体験として戦争をして殺し殺されたという記憶がなくなる」という状態を目指すのがいいなあと思う。
そうなったら、「教育で、『日本人はこんなひどいことを私たちのおじいさんおばあさんの世代にした』と習ったけれど、今の日本人と直接交流すると、印象が変わった」みたいなひとが増える。今の日本人がちゃんとした人になれば。
ちゃんとって、すごくあらっぽい言い方だけれど。過去は学んでいて、自国の立場からはこうだけれど、他国からはこう思われている。事実とは少々違っても、それぞれの立場でこういう教育を受けている。それはある種、やむを得ないことだ。それを他国の人の頭の中を変えてやろうとやっきになって対立するではなく、その認識の隔たりを隔たりとして認めたうえで、今、友好的に、殺し合いに戦争にならないように付き合うということだ。と習ったけれど、今の日本人と直接交流すると、印象が変わった」みたいなひとが増える。今の日本人がちゃんとした人になれば。ちゃんとって、すごくあらっぽい言い方だけれど。過去は学んでいて、自国の立場からはこうだけれど、他国からはこう思われている。事実とは少々違っても、それぞれの立場でこういう教育を受けている。それはある種、やむを得ないことだ。それを他国の人の頭の中を変えてやろうとやっきになって対立するではなく、その認識の隔たりを隔たりとして認めたうえで、今、友好的に、殺し合いに戦争にならないように付き合うということだ。
日本人全体が110歳の平和ボケ老人になったらいいと思う。自衛隊は「もし戦わば世界最強」という最新兵力を維持し続ける不断の努力と兵器開発をしながら、「すべての自衛官が、訓練と、交戦を伴わない防衛的出動だけを経験し、攻撃し、されるという交戦・実戦を一度も体験せずに無事定年、退官を迎える」ということが、ずっとずっと続けばいい、と心から願う。けっして戦わない武道の達人みたいな尊敬を、世界中から受け続けるのがいいなあと思う。
もっともすぐれた政治家の役割というのは、以下のことを実現する人。
①国民全員が無事に平和ボケのまま一生を終わることができ、
②自国民も隣の国の国民も、日本の軍隊兵隊との間の殺し殺されというリアルな体験記憶は誰も持っていないという状態を将来にわたってずっと維持し、
③自衛隊が、「戦えば世界最強らしい」という神話だけを持つ武道の達人のように、けして戦わない世界最強の軍隊でい続けられるようにすることで、自衛隊員は災害救助を通じて国民の尊敬をえつつ、実戦交戦はだれも経験しないで定年を迎えられる。
「次は台湾」みたいなことを言う人がたくさんいるから、それは地政学とかリアルポリティクスとか、そういう話としてはきちんと現実的に考えつつも、日本は、日本人は、戦争と平和ということに対して、どういう理想を持つのがいいかということについて、妄想してみました。110歳の平和ボケ国家になるには、どうしたらいいのだろうね。
コメント欄に追記。
普通の左翼系リベラルの人と僕の考えの決定的違いは、軍事技術の自前開発のための科学技術開発予算を大学研究予算と一体運用したほうがいいと考えている点だな。「先端科学研究で米中に負けっぱなし」の根本原因は、そこへの潔癖さだと思うから。そこは改革しちゃった方がいいと考えている点だろうな。全分野網羅的に米中に対抗するのはもう今からでは手遅れだけれど、いくつかの「防衛テクノロジーとして、民間転用したときのインパクトでも、世界最先端で他国が追随できないもの」を持つこと(情報科学の一部なのかロボット工学なのか、何なのかは全然分からないが)、そこの自由度を持つこと、そのことで大学予算全体規模を増やしたうえで、アホンダラな「成果の上がることだけへの選択と集中」をやめて、基礎科学や人文科学への幅広い支援を復活させること。「軍学共同解禁」と「基礎科学と人文再興」を連動させるという、右翼だが左翼だか分らんことを、僕は考えてしまうのだよな。
宇野弘文『社会的共通資本』の中で、イギリスの大学、ケンブリッジ、オックスフォードは素晴らしいが、その潤沢な予算は伝統的に南ア、ローデシアなどでの植民地経営から上がってきたものだ、ということを書いているよな。優れた幅広い学術研究を支えるのが、汚いお金であるということに対して潔癖でありすぎると、学問自体が死ぬと思う。
2月27日 13:52 ·
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かなり変わっている友人が、スイス政府が国民全家庭に配っている『民間防衛』のある部分を紹介してくれていて。それは独裁国に占領されちゃったときの行動指針についてなんだけれど。
そうそう、僕も持っていたなと改めて読み直している。
この本、構成がいまひとつ分かりにくいのだが、
①防衛ということの基本概念と心構え
②核戦争と核戦争の対策
というのがまずあった上で
後半半分は、架空の国がスイスを侵略するシナリオを
戦争前の、平時の敵国のスパイ工作活動、世論操作とかそういうのから始まって、侵攻の迎撃から本格的な戦争から、ついには占領されたときのレジスタンス活動を経ての解放戦争の遂行方法まで、様々なケースを想定したシナリオを示しつつ、そのときなすべきこと、注意することなどが、ことこまかに具体的に書かれているのだよね。それぞれの段階で、敵が、工作員が、弱腰なインテリが、どのように国防を阻害する行動にでるかが、ときに箇条書き、ときにエピソード仕立てで、具体的に書かれている。侵略を阻止して国防を実現するものすごく具体的なマニュアルなのである。
まあ、普通の日本人が読んだら腰が抜けるようなことが書かれているから、戦争について本気で考える人は、必読ですよ。読んだ方がいい。
2月27日 13:54 ·
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アブラモビッチがチェルシーを手放すのか。昨年、チャンピオンズリーグ優勝してよかったね。最後のいい思い出だったでしょう。
2月27日 15:17 ·
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まだまだ悲しい気持ちは深まるばかりなので、現実から逃避して、さらに抽象的な思考を続けます。平らな言葉で続けます。平らな言葉で書いているからと言って、ふざけているわけではありません。
戦争というのは「過去のうらみつらみ」と、現在の「映画館の椅子のひじ掛け(重なり)」問題が、主たる原因で起きます。
「過去のうらみつらみ」も「映画館ひじ掛け(重なり)」問題に起因するものが多いです。
短くして「ひじ掛け」問題とは何か。
映画館の、隣の人との間のひじ掛け、カップホルダーがついているやつ。あるでしょう。
豪華な映画館だと、ひとつの席の両側に、その席専用と思われるひじ掛けがあります。この場合は戦争は起きません。しかし、普通の映画館だと、ふたつの席の間に、ひじかけが一つしかない。そうすると、先に座っていた人が、両脇ひじ掛けを占拠したりすると。隣に座った人は「迷惑だな」と思いつつ、反対側のひじ掛けを自分用に占拠します。という形で、通路脇ひじ掛けまで、カラダを少し傾け、まあ、だれもが一つはひじ掛けを占拠できる。
あれについての暗黙のルールは
①先に占拠した人のもの。
②一人でひとつだけ。ふたつ占拠するのは混んでいるときは反則。
ただし、
③体がでかくて怖そうな人の場合は、後からでも両側を占拠しちゃうことがある。そのときは我慢する。
基本、先に取った人のもので、実効支配している人のもので、武力暴力威嚇などによる現状変更は本来は認められない。
あれれ、国と国との、国境にある、どちらもが領有を主張している土地や島の領有問題と似ていますよね、
僕は領土問題を「映画館のひじ掛け」問題として把握認識しているんですね。日本が抱えている、あそこもあそこもあそこも、ひじ掛けです。映画を見る時両側のひじ掛けを隣の人が占有していると、えらく惨めな気分になりますよね。紙コップ入れることもできないし。強国のとなりで、領土を占有されているみじめな気分と、実際の不利益というのは、そういうものですよね。日本の北の方のあそことか。
基本的に、映画館の構造上、ひじ掛けの数はセンターブロック(両端に通路アリ)なら、椅子の数+1、壁際ブロックでも椅子の数と同数あるはずです。ですから、みんなが配慮きちんとすれば、トラブルは起きない筈なんですが、カラダがデカくて乱暴で周囲に配慮する気が無い人が、センターブロックでも一列に二人以上いると、これは、戦争になります。
空間的な占有権の重なりが「ひじ掛け」問題。日本の近くの話をするときな臭くなりますが、ドイツとフランスは、その間にある「アルザスロレーヌ地方」が、大問題のひじ掛けで、そこをめぐってずっと戦争をしてきた。鉄鉱石や石炭が出るし。で、第二次大戦の後に反省して、あそこを共同管理することにしたのが「欧州石炭鉄鋼共同体」ECSCになり、そこからECからEUに発展していくわけ。ひじ掛け問題こそが戦争のもとで、それを解決することからEUは生まれたわけだ。
空間的重なり問題は、往々にして「水」とか「地下資源」とかいう、経済活動、生産活動と直結して、すぐ戦争になっちゃいますね。
一方、宗教や言語というのも、「重なり」のひとつなのですが、こういうものは「空間」ではなくて、人の集団の中の文化として重なっている。
単に重なっているだけでは戦争にならない場合もあります。エルサレムにはユダヤ教徒イスラム教徒キリスト教の聖地があります。それで、何百年もそれぞれの宗教の人が同居していましたが、イスラエル建国後のような対立はなく暮らしていたと言われています。本当のところは、きっと小競り合いや諍いは絶えなかったのかもしれませんが。
別の宗教を信じていて、別の言語を話しているやつが同じ空間にいると、隣に住んでいると、なんとなく、気に喰わない。この重なりは、多分に「気分的」なものです。我慢しようとすればできるけれど、ふとしたことで小競り合いになる。争いになる。殺し合いになる。戦争になります。
「重なり」を深刻な問題として、一旦、ひどい殺し合いや追い出したりということがあると、「うらみつらみ」になって、戦争のもとになります。
「空間的重なり」「文化的重なり」にもとづく、紛争の記憶「過去のうらみつらみ」、これが何度も反復蓄積膨張かすることで戦争は起きます。戦争が起きやすくなります。
さっきの投稿の「110年間、戦争をしなければ、殺し殺されの直接体験を持つ人がいなくなる」という目標は「うらみつらみの希薄化」という、戦争抑止効果を狙ったものです。
しかし、そもそも「うらみつらみ」の原因となった「空間的重なり」問題と「文化的重なり」問題を、当事者同士で知恵を出し合って解決しない限り、戦争は無くなりませんよね。
なんで、こんな平らな言葉で話しているかというと、本当は、戦争について、これくらい平たい言葉で議論した方がいいんじゃないかと、僕は思っているからなんです。
ウクライナとロシアの間の、
①空間的重なりはどこで、
②文化的重なりは何で、
③過去のうらみつらみは何なのか。
それを、全部、きちんと並べて、
どういう過去のうらみつらみは水に流せるのか。どちらがどのうらみつらみについては謝り、どちらが赦せばいいのか。
どこの土地や川や、そういう土地の重なりは、どういう取り決めにすれば納得できるのか。そこにある資源とかそういうものはどう配分すればいいのか。
言葉や宗教の違いは、どうしても同居できないものなのか、我慢できないものなのか。
戦争が起きたときは、そういうことを、きちんと整理して理解することが大切です。どちらかが悪魔のように悪くて、どちらかが、完全無欠に正義、などということはありません。
ただし、どっちにしろ、からだが大きいからといって、人が使っているひじ掛けを、どかんて、肘鉄して横取りするのは、絶対にいけないですよね。今回、肘鉄でひじ掛けを独占したのはプーチンです。そこが悪いことは確かなのです。
コメント欄補足
隣国同士というのは、この「うらみつらみ」というのが、直近のことから、えらく古い、何百年、何千年前の話まで、掘り出そうとすればいくらでも出てきてしまう。だから、お互いに知識としては共有しつつ、110年以上前のうらみつらみは、現在の問題を論じる時には掘り返さない、蒸し返さないという国際ルールが必要な感じかするのだよな。
2月27日 20:25 ·
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今 ね、ベラルーシの若い作家の小説を読んでいるのだけれど、ベラルーシ人もソ連時代にはスターリンの大粛清の犠牲になったり、ベラルーシ語を話しているだけで射殺されたり。ロシア人にはえらいめに合っているのに、今は「兄の国(ロシア)」の忠実な弟国として、プーチンを兄と慕うルカシェンコ大統領の独裁の下にある。
先の大戦中、ナチスドイツに人口920万人のうち220万人を殺され、660もの村で住民まるごと虐殺があった。その象徴、代表となっているハティニ虐殺事件というのがあるのだけれど、それはナチスの警察補助部隊118大隊がやった。その大隊の実際の構成員はドイツ人じゃなくてウクライナ人とリトアニア人だった。ウクライナ人の中には、ソ連ロシアの弾圧虐待から解放してくれたナチスに入隊するものも多かったのだ。
というわけで、隣国ベラルーシとウクライナの間には、そういう「うらみつらみ」もあったんだなあと小説を読んで知るわけだ。
ちなみにこの小説の若い主人公、ベラルーシ人だけれど、学校で習って、ようやくベラルーシ語を何とかしゃべれるだけ。普段の言葉はロシア語なんだな。ロシアとベラルーシとウクライナとバルト三国の、そういういろんな確執、うらみつらみの蓄積というのは、もうほんとに部外者外国人にはわからないことがいっぱいあるんなだと思う。
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