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「祭り」と「動員」と「戦争」をつなげて考えた。の巻。

 そう、もちろん、戦争について考えているのです。この三週間というもの、ずっと戦争について考えてきたのだけれど。戦争についての情報を、テレビで見てネットで見て、あれこれ考えてまたネットに文章を書いて。しかしまあ、それが誰かの何かの役に立つかと言えば、何の役にも立たないわけで。世の中は、というか日本人は、少なくとも昨日のゼレンスキー大統領の国会オンライン演説が終わって、そろそろ「情報としての、遠くの戦争」には飽きてきたのかも、と思いつつ、相変わらず僕は戦争について考えている。

 具体的な情報、今まで考えたこともない軍事戦略とか、戦争に関する国際法規とかから、遠い国の民族の歴史やらなにやらをこの三週間頭に詰め込んでは考えてきたのだが。

 それはそれとしてとても大切なことなのだが。

 なぜか戦争のことを考えると「祭りと私」ということを、ときどき考えているのである。

 なんの関係があるの、と言われるとよく分からないのだが、考えているのだ。いや、関係がどういう気分についてなのかはだいたい分かっている。分かっているけれど、ずいぶん遠回りな話だし、考えているうちに面倒になってくる。こういうときは、文章に書きながら、確認しながら考えないとダメなんだな。

 というわけで、書きながら考える。心では、気持ちではだいたい分かっているけれど、頭で、言葉でちゃんとは分かっていないことについて。

 藤井風くんの新曲は「まつり」というタイトルだった。日本的なまつりに、世界中の人たちが集まってくる。串だんごを食べながら踊るものだから、僕も妻も「危ない」って同じ反応をしてしまう。子どもを六人も育てると、お祭りで串にささった団子とか焼き鳥とか、りんご飴とかチョコバナナとかフランクフルトとか、そういうものを小さな子供が買って、走り回りながら食べるのは危ない、というのはいつも思っていて、うちの子には絶対、そういうことはさせなかったから。このPVを作った人たちには、小さい子供を育てた経験があるような人がいなかったんだろうな。子どもが通った幼稚園や、近所の小学校では、年に何回かバザーというのがあって、PTAのバザー委員会というのが生徒父母から集めたいろいろな品物を売ったり、だんごとかフランクフルトとか、そういうものを売る売店が出たりする。まあ、バザーと言いつつ、お祭りのようなものだ。そういうときにも、串のたべものの安全は、PTAバザー委員はとても気にするわけだ。

 祭りが好きかと言われると、全然好きではない。「子どもが行きたがるから連れていく」ことはあっても、自分で行くことはまあ、まず絶対ない。「見物客」としてもまつりにはほとんど興味が無いのだが、それより嫌いなのは、祭りに無理やり動員されたり、運営する側になることだ。

 この年になって、いままで妻に任せていた自治会(町内会)というものの役員になったら、隣町の町内会が主宰する夏祭りにお祝い金を持っていくとか、地域の連合町内会でやる夏祭りのなんとか当番、なんとか係で動員されるとか、運動会もまあお祭りなわけで、それの会場づくりをするとか、なんやかんやと「動員」されるわけだ。

 僕が嫌いなのは「祭り」ではなくて「動員」なんじゃないか?と自問してみる。

 動員っていうのは「みんなで何かやるから、参加しろ。強制とは言わないが、ほんとは強制だぞ」というやつだ。とりあえず、係じゃないけど、参加しろっていうレベルから始まって、そのうち「なんとか係」会場設営係とか、そういうのの下っ端として働かされ、もうすこし偉くなると、祭り全体の運営だの予算だのスポンサーだの会場の学校との折衝だの、いろんなことをしなければならなくなる。祭りがなければ動員されないじゃん・祭りがあるから動員されちゃうのであって、やっぱり祭りは好きじゃないのだ。

 都会でマンション暮らしで、賃貸だと「マンション自治会」みたいなこととも無縁で、隣の人とも廊下ですれ違えばあいさつはするが何をしている人か知らない、みたいな暮らしをしていれば、まつりというのは、ふらっと通りかかった時に「ああやっているな」と覗いてみる、くらいの関りでいいわけだが。

 いったん地域に根を下ろして暮らしてしまうと。祭りなんてまったく好きでないといっても、なんだか、動員されることになる。子どもを幼稚園、小学校に通わせれば、PTAの委員を何かしなければならなくなり、「運動会委員」だの「バザー委員」だのになると、祭りの運営側に無理やりなってしまうのである。

 祭りっていうのはだいたいにおいて何だろうと考えると、それは農耕民族において共同作業が必要で、収穫のお祝いの祭りというのが世界中どこでもあって、そのときに一緒に大騒ぎをすることでお互いに親密になることで、また翌年の農作業の共同作業が円滑にいく、みたいな実利があって農耕社会で広がった、みたいなのが根源にあるのだろう。

 狩猟生活でも、集団で狩りをして大きな獲物があれば、集団作業は必要だったろうし、獲物が獲れたらばそれをみんなで分け合うわけでバカでっかいマンモスとか獲れたときは

お祭りになったろう。とか、まあとにかく「集団生活をする、その集団の一体感形成」というのが、祭りの基本機能としてあるのだろう。

 逆にいうと、祭りで共に酒飲むとか踊るとかそういうことをしないと、隣に住んでいる他者と言うのは、もしかすると自分のものを盗むかもしれないし、悪い奴かもしれないし、気心知れない隣人と言うのは、容易に敵意の対象になるんだと思うのだよな。隣近所と仲良くなるには、祭りが必要だったりするのだろう。

 同じお祭りに集まるのは仲間で、違う祭りに参加するやつは仲間じゃない。近くに住んでいても、祭りに参加しないやつは信用できない。仲間じゃないだけじゃない、裏切者かもしれない。少なくとも集団の和を乱す問題児だ。祭りっていうのは、そういう「強制的に仲間集団に参加させる手段」だったりもするのだよな、共同体においては。

 就職して赴任した電通の大阪支社には、会社の運動会っていうのが今から38年前はあって、それは「強制ではないが参加しろ」という典型的動員行事であったのだが、僕はとにかく「動員されるのがきらい」だったので、当然のように参加しなかったのだが、まあある種の問題児というか変人と言うか、そういう風に認識されてしまったわけだ。そもそも電通というのは、今回の東京五輪でも、すっかり悪い意味で認知されてしまったけれど、「オリンピック」とか「万博」という世界的お祭りから様々なビッグイベント、モーターショーでもなんとか展示会でも、というのを主要な仕事の一分野として持つわけだ。イベントの企画実施運営と言うのは「お祭り運営」なわけで、お祭りが嫌いという人間が電通に入ること自体が間違っていたのだ。

 電通に入ってわかったが、世の中にはお祭りが大好き、お祭りを企画運営して、人を集めて盛り上げるのが無上の喜び、という人がいるのである。なんとも恐ろしいことに。お祭り男だらけの会社に、間違ってお祭り大嫌い男が入ってしまったわけなのだ。

 それでも会社とか都会や郊外の住宅地なんていうのは、祭りに参加しないとしても、「ちょっと付き合いの悪い変人」くらいでかろうじて許容されるんじゃないかと思うのだが、いわゆる「田舎」というところでは、祭り拒否、というのは、もっと大変なんだろうなあと漠然と思う。体験したことはないから知らんけど。

 テレビのドキュメンタリーなんかで、例えば諏訪大社の御柱祭りの、何か、その年の、御柱に乗る代表みたいな神聖な役割に選ばれた人の一年を追う、みたいなやつとか、そういうのを見ると、何百年も千年以上も続くお祭りでは、「何歳になった男子から一人が選ばれ」とか、儀式だの踊りだの口上を覚えてなんとかとか、もう、その土地に生まれたからにはその運命からは逃れられない、みたいなのしきたりがたくさんあって、「うえ、無理無理」とか思ってしまうのだ。そしてそういう大役を果たすと「長老への道」みたいなのが人生この先ずっと待っていて「うえ、無理無理」って思ってしまうのだ。その土地の、毎年ある祭りに人生を縛られて生きていくなんて、無理無理なのだ。でも、田舎に生涯、生きるというのは、そういうことなのかな。田舎で「祭り拒否」というのは、通用するのだろうか。

 そういう「年いちどの祭りを、人生至上の楽しみとして生きる」みたいな人は世界中にいるのであるよな。私の長男は「浅草サンバカーニバル」に参加して(あれは非常に厳格な国際格式の採点コンテストであって)それで毎年優勝を争う大学生連合「ウニアン」というのを学生時代やっていた。と言うか、二年生の時にはリーダーと何百人のパレードのリーダーというのをやっていた。卒業するとOBとして参加して残る人も多いらしいが、息子はあるときからすっかり引退したらしい。しかし、ウニアンと毎年優勝を争う、浅草地元の社会人集団だと、もう人生を浅草サンバに捧げている人がいっぱいいる。まして、本場、ブラジル・リオのカーニバルだと、もう、貧しくて年一回のカーニバルのために一年の稼ぎも何も全部つぎ込むような人たちがいっぱいいるらしいのである。

 わりと新しくできた札幌のよさこいソーランとかも、あれに人生を掛けちゃっている人がたくさんいるみたいで、「祭りに命をかける、人生の楽しみが祭り」という人は世界中にたくさんいて、それはご本人が好きでやっているから別に文句はないのだが。そう、都会の「好きでやっている祭りに参加する」のも、電通の祭り好きイベント部門の人たちが「祭りの運営を仕事にしちゃう」のも、それは本人の好きでやっているから、何の文句も無いのだが。

 しかし、祭りが好きでも何でもないのに、「PTAのバザー委員会」に無理やりなったり、持ち回りで町内会の会長になった挙句、いろいろな祭りに動員されたり、運営側の役割責任を負わされたり、田舎に生まれて、拒絶することもできず、祭りの伝統に組み入れられたりするというのは、僕にとっては悪夢というかまっぴらごめんというか、祭りいらんなあ。と思うのである。祭り拒否人生というのを、人権として確立してほしいと思ったりするのである。

 さてね、祭りに対する僕の気持ちは、だいたい伝わったと思うのだが、つまりこれというのは「同じ空間」、ご近所町内とか、同じ小学校学区とか、同じ村落とかにたまたま暮らしている人を「ひとつの祝祭的体験」に強制的に参加させることで、集団としての一体感に巻き込む仕組みというのが「祭り」というものなわけだ。「伝統とか文化」とかいうけれど、社会を形成するための制度といったほうがいいような感じがするんだよな。

 この「動員」「集団的熱狂」「一体感」というものは、戦争をするときにも、とても大切というか、醸成されるものだなあ、というのが、今回、強く感じられたことなんだよな。逃げる奴は非国民。全員が自ら志願して、みんなと言うか、国というより「故郷を守る」という、地元愛の発展形としての愛国心強化で、みんなを戦いのなかに参加させていく。

 昨日も、「ウクライナの小さな村の人が総出で、ロシア軍の戦車部隊を撃退しました」っというニュースをBBCが繰り返していて、そこで大活躍する地元青年っていうのが、キャラクター的にいうと「祭り大好き」「祭り企画するの大好き」「祭りに参加するの大好き」っていうタイプの好青年のように見えるわけだ。そういう、郷土愛で、自発的にみんなをひっぱって活躍するタイプの人と言うのは。戦争で祖国、故郷を守るときには必要なんで、尊敬すべき存在だ。そしてニュースではおばあさんも老人も、みんなが、強制されているわけではなく、自発的に、それぞれの役割を果たして戦おうとしている。すごい美談として、BBCが一日中、流していた。

 もし、あの村落に、そういう住民みんなが力を合わせての抵抗している中で、そのことを批判したり、輪を乱したり、ましてや逃げ出そうとするのは非国民。卑怯者ってなるよなあ。なるじゃんね。

 電通の社内運動会からすら逃げだした僕が、戦争でもいち早く逃げようとする非国民になるのは確実なような気もするし。

 しかし、実は僕は文章ではこうやって書くけれど、いざその役割になると、高校でも大学でも文化祭のクラス出し物責任者みたいなリーダー役を、やっちゃっていたりするのだな。なんでだろう。町内会長になって地域の運動会会場係になれば、まあ、周りが僕より高齢のじいさんがほとんどのせいもあったんだけれど、前日の雨でぬかるんだグランド整備して排水作業をするなんていうときには、いちばん最後まで大活躍、みたいなこともしてしまうタイプの人間でもあるのだな。気持ちでは動員されるの大嫌いなのに、いざその場になったら、いいかっこうをして働いてしまう。戦争になったら、かっこつけて一番最初に死んでしまうかもしれないと思うと、ほんとうは動員祭り大きらいなのにそれは嫌だなあ、可哀そうじゃん、俺、って思ったりもするのだ。

 もし世界が僕のような人間ばかりだと、人間社会は成り立たないのかな。誰かが祭りを企画して、集団をまとめて、人が共同作業を心を一つにできるようにして。そういう能力があったから、人間は、ひとりひとりは非力で、ライオンやクマや狼よりもはるかに弱い存在なのに、生き延びることができた、と言われているもんな。          

 でも、「狩りと言う暴力の組織化」に成功した人間集団は、「隣の、別の祭りで一体化した集団」との間でも、組織的暴力で争えるようになったんだよな。戦争の始まりなんだよな。個々人ばらばらの小さな闘争ではなく、集団同士の戦争の始まりという「暴力の集団化」と、お祭りの間には、深い関係があると思うんだよな。

 アメリカ大統領選の「なんとか州、なんとか党大会」みたいなのって、典型的お祭りだもんね。選挙、お祭り、つまりは民主主義のルールのもとでの戦争。

ちょっとカチッとまとめてみると。

 祭りというのは「故郷への愛」「属する集団への愛」「集団の同一化」という情緒だけでなく、もうすこし具体的に「帰属する地域集団に積極的に動員すること、されること」「そこで、積極的自発的に労務を提供すること」「それを拒否する人を非難する空気を作り出すこと」という、戦争への住民の動員と同じ作用がある。戦争が無い時にも、毎年定期的に祭りをすることで、いざというときの戦争参加の仕組みと空気をスムーズ作り出す機能があるということだな。

 「祭り」というと、戦争と関係なさそうな、平和な楽しみのように見えるのに、僕が「祭り」ということと「戦争」ということ、どうしてもつながりを感じて、連想してしまうというのは、そういうことなんだと、ここまで書きながら書いてきて、だいぶはっきりしてきたな。

 そういえば、昔から、電通の社風というのは、「軍隊的」と言われるのだよな。「お祭りづくり」の会社は「軍隊的な会社」になりやすいのだ。

 オリンピックと平和と戦争のアンビバレントな関係については、かつてnoteを書いたことがあったな、そういえば。

 雪まつりの巨大雪像とか、雪の大滑り台とかいうのは、自衛隊さんが作るんだよな。動員されるんだよ、ニュースでやってたもんな、子供の頃。

 反論として「祭りは死者の弔いと関係していて、むしろ反戦的意味合いがあるのじゃないか」っていうのが予想されるな。

 それはね、日本では、お盆の頃が敗戦の日で、盆踊りに帰ってくる死者が戦死者と重なるから、「お祭り、盆踊り」と「反戦」の気分が結びつく、という特殊事情がある。あるんだけどさ。長崎の灯篭流しとか。

 それはそうなんだけれど、でも、お祭りの中にある「郷土愛」と「愛国心」の間にはストレートなつながりがあって、「祭りと言う共同体イベント」に動員されるという運動には「戦争に徴用される」ことと連動する動きが内包されていることに変わりはないと思います。はい。

 藤井風君の「まつり」の歌詞は、藤井風君らしく、「勝ち負けとか一切ない」愛しかない、分けへだてのない、生も死も同時に存在する、そういう境地が描かれる。そのPVでは世界中の人が集まって平和に踊っている。

 でもなあ、それは「通りすがりに祭りに来た人」の視線なんだよなあ。異国の見知らぬ祭りに紛れ込んで、まれびととして祭りに参加する楽しさであって。

 伝統の、変わらない地元の祭りに一生、動員され、逃げられない役割を与えら、郷土愛の中に縛られることを苦痛と感じるならば、それはやはり、どこか、戦争への動員の息苦しさにつながっていると思うのでありました。

おしまい。

文中、ちょっと触れた、五輪と戦争の関係について書いたnoteはこちら


 



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