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『コレラの時代の愛 』ガブリエル・ガルシア=マルケス (著), 木村 榮一 (訳)は、なんで村上春樹新作『街とその不確かな壁』の中に出てくるのか、『グレート・ギャツビー』との関連で深読みする。あ、でも宮藤官九郎のドラマみたいに面白かったよ。『コレラの時代の愛 』は。

『コレラの時代の愛 』単行本 – 2006/10/28

ガブリエル・ガルシア=マルケス (著), 木村 榮一 (翻訳)

Amazon内容紹介の前に。

 なんでこれを読んだかと言うと、村上春樹の新作、『街とその不確かな壁』の中で、主人公の、中年になってからの恋人となる女性が、小説の中で読んでいたのである。え、俺、読んでないじゃん、ということであわててAmazonでポチって買って読んだのである。

 そうしたらね、なんで村上春樹が、わさわざこの本を具体的に出してきて、しかも引用までして、ということで、いろいろ思うことがある。というか、語りたいことが山ほど出てきたので、これは超長文になること確定なのだけれど、書いていきます。おそらく、かなり長い村上春樹論になってしまう。え、そっち。そう、ガルシア・マルケス論ではなく、村上春樹論になってしまうと思う。

 そもそも、村上春樹は、小説の中で音楽についてはかなり具体的にいろいろな音楽、レコードを使うでしょ。でも、小説が使われることはけっこう少ない。と思う。

 それが、『コレラの時代の愛』については、かなり説明的に書いているわけだ。マジックリアリズム、死者が当然のように現実の中に現れたりすることを、現代文学に方法論として持ち込んだ人として、ガルシア・マルケスを紹介するわけ。で、死者が当然のように現実の中に登場してしまう、『街とその不確かな壁』の試みを自作内で解説するかのように。妙に説明的なその部分を、ちょっと長いが引用します。

〈「彼の語る物語の中では、現実と非現実とか。生きているものと死んでいるものとがひとつに入り混じっている」と彼女は言った。「まるで日常的な当たり前の出来事みたいに」「そういうのをマジックリアリズムと多くの人は読んでいる」と私は言った。
「そうね、でも思うんだけど、そういう物語批評的な基準ではマジックリアリズムみたいになるのかもしれないけれど、ガルシア=マルケスさん自身にとってはごく普通のリアリズムだったんじゃないかしら。彼の住んでいた世界では、現実と非現実はごく日常的に混在していたし、そのような情景を見えるままに書いていただけじゃないのかな。」

『街とその不確かな壁』p576

 でもね、僕は、村上春樹が『コレラの時代の愛』についてわざわざ触れたのは、そんな表層的な、「マジックリアリズム論」を、こちらの小説『街とその不確かな壁』のそういう要素を「小説技法ではなく、自然なことなのだ」と弁明するために利用した、そんな生易しい話しではない、そう思ったのである。両方読んでみたら。もっと本質的テーマの問題として、このふたつの小説は、強烈に対応関係にあるのだよ、ということについて、書いていきたいと思うのだな。

 まずね、どこから始めようかな。『街とその不確かな壁』には、珍しく村上春樹自身の書いたあとがきがついていて、その一番最後に、これはガルシア・マルケスではなくて、ボルヘスの言葉を借りてこう書かれている。

「ホルヘ・ルイス・ボルヘスが言ったように、一人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られた数のモチーフを、手を変え品を変え、様々な形で書き換えていくだけなのだーーと言ってしまってもいいかもしれない」

『街とその不確かな壁』あとがきP661

ということを押さえたうえで、『コレラの時代の愛』というのが、どういう話かというので、Amazon紹介を引用しよう。

Amazon内容紹介

「夫を不慮の事故で亡くしたばかりの女は72歳。彼女への思いを胸に、独身を守ってきたという男は76歳。ついにその夜、男は女に愛を告げた。困惑と不安、記憶と期待がさまざまに交錯する二人を乗せた蒸気船が、コロンビアの大河をただよい始めた時…。内戦が疫病のように猖獗した時代を背景に、悠然とくり広げられる、愛の真実の物語。1985年発表。」

Amazon内容紹介

うーん、これより、本の帯の裏と同じ文章なんだけど、表のキャッチフレーズのほうが面白いかな。

「51年9カ月と4日、男は女を待ち続けていた…。」

本の帯

 そう、この小説というのは「文通で付き合い始めたのが男20歳女16歳。、結婚まで決意した男25歳、女21歳」が主人公。しかし。急に女が姿を消す。のは村上春樹の小説みたいに異世界にではなく、結婚に反対の父親が娘を田舎の親戚の家に隠すんだけど。そしてそれでも、街に戻ってきて二人は再会するのだが、その再会の瞬間に、女が急に心変わりして、男を振る。そして他の男、その街の若き有名な医者と結婚してしまう。振られた男は、その医者が死ぬまで待って、もういちど結婚を申し込もうと待つ。医者がやっと死んだのが51年後。男は76歳、女は72歳になっていた。そういう話なわけだ。その間、男は「影のような人間」として51年間、生き続けてきた。その二人の、それぞれの人生と再会を描いた小説なわけだ。

 じゃあ、『街とその不確かな壁』はどんな話?これも、文通で付き合い始めた17歳男と16歳女。ところが一年後、女は姿を消してしまう。全く連絡がつかなくなる。その女に会うために、45歳になった男は異世界『壁の中の街』に行く。しかし、紆余曲折あり、現実世界に帰ってきてしまう。自分は影を失った男なのか、それともも自分が影なのか。そういう思いを抱いて現実世界に戻ってきた45歳の男は、福島県の田舎の街の図書館で働くようになる。そこで現実と折り合って生きようとするが。不思議な縁と事件の中で、再び壁の中の街に行くことになり彼女に会うのだが…

 ね。ものすごく若い時、10代後半から20歳くらいで出会い、純粋に愛し合えたかに思えた女性と別れることになる。その女を求めて、長い人生を主人公は送る。そして、(かたや老年、かたや中年ではあるが)紆余曲折を経て、その運命の女性と主人公は再び会えるのか、愛し合えるのか。

 という、非常に似た、村上春樹的に言うと「モチーフ」、構造とテーマと僕は言いたいが、そういうものをもった小説なのね、この二つ。

 さらに言うならば、この構造モチーフというものを、もっとも純粋に描いた小説と言えば、それは『グレート・ギャツビー』なのは言うまでないこと。かつて、僕はトルコのノーベル賞作家の『雪』について、政治的装飾をはがしていくと、その底にあるのは『グレート・ギャツビー』と相似形の、若い時につかみそこねた愛を、中年、初老になって追い求める男の悲劇である、という感想noteを書いたことがある。

 村上春樹は、自ら訳した『グレート・ギャツビー』でもあとがきを書いていて、そこでこう書いている、引用します。

〈もし「これまでの人生で巡り合ったもっとも重要な本を三冊上げろとしたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャッビー』と、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』と、、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』である。どれも僕の人生(読書家としての人生、作家としての人生)にとっては不可欠な小説だが、どうしても一冊だけにしろと言われたら、僕はやはり迷うことなく『グレート・ギャツビー』を選ぶ」〉

さらに、このあとがきで、30代後半に、60歳になったら『グレート・ギャツビー』を翻訳しようと決めていた、と言うことを書いているのだが、その30代後半、38歳になる年に、村上春樹は『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』という本を出している。その中で、こんなことを書いている。引用します。

〈アメリカ文学の中でもっともアメリカらしいと思える小説を三つあげよ、という設問があったとする。答えは人によって様々であろうが、メルヴィルの『白鯨』とフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』とサリンジャーの『ライ麦畑のキャッチャー』あたりが相当の高得点を取るのではなかろうかと僕は予想する。(中略)その三つの作品を並べて比較すると、我々はそこにひとつの共通した方向性を認めることができる。具体的に言うと、それぞれの主人公が⑴志において高貴であり⑵行動スタイルにおいて滑稽であり⑶結末は悲劇的である。そして、この高貴さ、喜劇性、悲劇性は小説的にたっぷりと、ーいささか危ういまでにたっぷりとー拡大されている。こういった作劇術を我々は「アメリカン・ドラマツルギー」と呼ぶことができる。

『グレート・ギャツビー』村上春樹翻訳ライブラリー あとがきP333

 ということで、村上春樹は、その最も理想とする『グレート・ギャツビー』における、「若き日のかなえられなかった恋人、自分の前から姿を消した恋人を求め、一生をかけてその恋人にたどり着き、再び愛されることを求めるという高貴な志のもとに、行動において滑稽なまでの努力を重ね、最後に悲劇的な結末にいたる男の物語」というのを、「数少ないモチーフ」として、繰り返し繰り返し、手を変え品を変え、書き続けてきたのである。そして、その同志として、ガルシア・マルケスの『コレラの時代の愛』を発見して、どうしてもそこに触れたくなったのだと思う。しかし、そのような、小説の根源的モチーフについての類似性に言及するのはいかにも野暮なので、そうではなくて、ガルシア・マルケスの「マジック・リアリズム」、死者が日常世界に当たり前のように現れるという小説技法の話として、言わずもがなの解説を小説中に展開してしまった、と言うのが、僕の「読み」である。

 ということでひとまず言いたいことは書いたのだけれど、もうひとつ「作者と作中人物の年齢」ということについて、蛇足だけれど発見があったので書いておきますね。

 村上春樹が、上記のテーマで書く小説と言うのが、「若い時の恋は20歳前」、「回顧し後悔し、いまだもがいているのが36~37歳」という年齢であることを僕は繰り返し論じてきた。村上春樹が老いを長編小説で描いたことはいまだかつて一度もない。今回の『街とその不確かな壁』で、やっと45歳になった、主人公が。作者が74歳になっているのに。

 一方で、このガルシア・マルケスの方と言えば、この小説を書いたときに作者は58歳、だというのに、若い時の恋は男21歳と女16歳なのは村上春樹並みだが、再び出会うとき、男76歳女72歳。老いで、禿や加齢臭や勃起不全や、女のほうも老いたからだの細部いろいろ「見ないで」な感じの中で、それでもそれでも「もういちど真に愛し合えるか」に挑む、というかそこまで高齢になって人生の紆余曲折を経たからこそ愛し合えてしまうという人生の不思議を克明に描く。「行動における滑稽」の度合いは、アメリカン・ドラマツルギーをはるかに超えたラテンアメリカ文学作法畏るべしである。こういうことには、格好つけて挑むことがなかろう村上春樹は。いや『ドライブ・マイ・カー』短編は、実はそこに踏み込んだものだったな、などと思う。

 そう思って、それでは村上春樹が理想とする『グレート・ギャツビー』の作者と登場人物の年齢を見てみれば、この傑作を書いたときのスコット・フィッツジェラルドは28歳、村上春樹は『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』のあとがきでこう書いている。

僕がスコット・フィッツジェラルドの作品にはじめて触れてから、もう二十年以上の歳月が流れた。そのあいだにいろいろなことがあった。まず第一に僕もーと較べるのも気が引けるのだが―小説家になった。そして少しずつ、少しずつ、彼が死んだ歳(四十四歳)に近づいている。
 僕は時々思う。僕の今の歳にフィッツジェラルドは何をしていたんだろう、と。
 たとえば、今僕は三十八だけど、三十八の歳にフィッツジェラルドは『夜はやさし』を出版している。ゼルダは相変わらず入院と退院を繰り返して、借金はかさんでいく。暗い年である。彼の人生はあと六年しか残されていない。でももちろん、本人にはそんなことはわからない。人生は短く、過酷である。そのように、小説家としての僕はスコット・フィッツジェラルドをひとつの規範・規準として見ている。〉

『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』あとがきp281

 その28歳のスコット・フィッツジェラルドが書いた『グレート・ギャツビー』の中で、20歳の恋を成就させるために大富豪となり悲劇の死を迎えるギャツビーは、30代前半なのである。それを見つめる視点人物ニック・キャラウェイは、29歳から、小説中に30歳になる。 
  そう、44歳で早世したスコット・フィッツジェラルド。理想の小説の『グレート・ギャツビー』の主人公は30代前半で死ぬ。それが理想である以上、村上春樹の小説の主人公は、今まで、どうしても36~37歳を超えなかったのである。

 しかし、今回、45歳という、スコット・フィッツジェラルドが死んだ年齢を超える主人公を、村上春樹は初めて小説の主人公にした。

 とはいえ、ガルシアマルケスが描く「51年、待ち続け」「76歳に自分がなって、72歳になった初恋の人を愛し続ける」というこの強烈な小説のような「老いの果てまで描く」覚悟は、村上春樹にはない。そんなもの売れないよ、と思っているのかなあ。美しくないと思うのかなあ。

 「高貴さ」と「滑稽さ」と「悲劇性」の配分、バランスにおいて、「滑稽さ」の比率が、村上春樹の小説には足りないのだよなあ、と思う。

 ガルシア・マルケスは、世界の文豪の中でも、際立って「滑稽」配分比率が高い。マジックリアリズムがどうこう、と言う話も、「滑稽配分比率」との関係での分析が必要だと思うのだよな。ノーベル賞作家だから、みんな大真面目に論じるけれど、これほど読んでいて、ときどき爆笑してしまう文学というのは、なかなか無いもんなあ。

 日本人の書くもので、誰がいちばんガルシア・マルケス的か、といったら、これは疑いもなく、誰もいわないけれど、宮藤官九郎のテレビドラマだと思うのだよな。日常的なのに奇想天外な展開で、死者が生者の世界にまるで自然なこととして現れて交流し、大真面目な話や歴史的な事件なんかを下敷きにしながら、人間の、人生の深い所に触れてくる。しかしまあ「滑稽」配分がとても多い。一話みるごとに大笑いしたり泣いたりするが必ず同居する。

 村上春樹の話をしていたのに最後が宮藤官九郎って、支離滅裂もいいところだが、『コレラの時代の愛』という本そのものの感想で言えば、「宮藤官九郎の連続テレビドラマくらい面白い」というのが本当のところ。村上春樹は気取っていて嫌い、という人が読んでも、ガルシア・マルケスは絶対面白いよ。宮藤官九郎のドラマファンこそ、ガルシア・マルケスを読むべし。



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