『反戦平和の詩画人 四國五郎』 四國 光 (著) 強い意志を持って表現者として生きた父から、その息子が、大切なことをなんとしても「継承」しようとする。その強い強い意志の結晶のような本です。
『反戦平和の詩画人 四國五郎』 四國 光 (著)
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ここから僕の感想。
四國さん(著者の光さん)からは怒られてしまうのではないかと思うのだが、まずはこの感想文を書く基本的な私の基本的構え、スタンスのようなところから、書き始めたい。
第一に、先輩知人友人が本を書いた場合、「感動しました」みたいな表層的なことを書くわけにはいかない。大学以来の友人である佐藤澄子が初めて翻訳家として『波』という本を出版したときも、友人が初めて訳した本だからこそ、本気で読んで本気であまりに長い感想を書いたために、その感想についての佐藤澄子の感想が帰ってくるまでに何年かかかった、ということがあった。私は隠居後「読書をして感想文を書く」ということだけに余生を捧げることにしたので、読書と感想文は本気のライフワークなので、本当に感じたこと想ったことを細大漏らさず全部書きたいと思うのである。先輩友人知人の著作であればこそ、そこは本気の読書と本気の感想文を書かねば、と思っている。
四國さんは電通大阪支社時代の先輩であり、とはいえなにせ私はわずか三年で会社をやめてしまったので、当時面識はほとんどない。私が独立してマーケティングの仕事をしていた期間も、仕事ではお付き合いはなかった。四國さんも私も仕事から引退した後、ここ数年、Facebook上で、サッカーについてだったり、政治や本や映画などについてだったり、ときどきお互いの投稿にコメントをし合う、という関係になっているが、今も直接お会いすることは無い。この微妙な距離感について、まずこの感想文が「そういう関係性を反映した、ニュートラルなものじゃなくなっちゃわないか」ということが、そもそも心に不安を落としていたのである。そうならないように、感想を書く。まずこれが一点。
第二に、私は「アウシュビッツ・ホロコースト」をテーマにした小説や映画が苦手である。あまりに悲惨であまりに極端な悪が存在するとき、それを読むときに、「神妙な顔をして、居住まいを正して」読んだり理解したりしなくてはならないという、自分の中の変な圧力、自己規制みたいなものが心と頭に生まれてしまうからである。明らかに悪があれば、同時に片方に正義が存在してしまうという価値判断もある程度初期的に固定されてしまうし、そういう価値判断と心の動きにあらかじめ規制と言うか、方向付けというモノが生じてしまう。それは文学を読むときの「心の構え」に対してよろしくないなあ、と思うのである。
これは私が「お葬式が苦手」みたいなことも関係しているかもしれない。神妙な顔をしていなければならない、ということの方が「本当に悲しいか、本当に故人やその家族に対する気持ちがあるか」よりも先に気になってしまう、みたいなことである。原爆とか反戦、ということについても、ホロコーストほど極端ではないけれど、そういう気持ちがかなりある。読む前から、「居住まいを正して神妙に受け止めなければならない」ということがあらかじめ心の構えに勝手に生じてしまうのである。しかし本当に心がちゃんと動くには、まずは心が自由でなければいけないと思うのである。だから、これは戦争についての悲惨な体験がたくさん書かれていて広島のこと原爆のこともいろいろあるけれど、だからといって、神妙な顔をしたりとにかく「感動しなきゃ」みたいな構えになったらいかんぞ。「こう読まねばならぬ」から常に自由であるように心がける。そうやって読もうとした。これが二点目。
電通の先輩がお父様について書かれた本で、そのお父様・四國五郎氏が、広島の反戦平和の画家であり詩人であり、と言うことで言うと、これは素直に感じたままをあちらこちら脱線したりしながら語る、という、いつもの私の感想文のようには書けないのではないか。いやしかし、そのような変な構えをすること自体が、四國さんに失礼ではないか。見知らぬ人が書いた、全くまっさらな本として読む。そういうスタンスで感想文を書きます。
そんなことを思いながら、読みはじめ、読み進めたのではありました。
そしてそうして読み始めてみると、私の心は「四國五郎」という人物についてと同等かそれ以上に、この本を書こうとした四國光氏、著者の心と生き方、の方に読みの主眼がつい行ってしまう。そちらを理解したいというほうに心がスライスしてしまう。(著者が光氏で、主人公は五郎氏、どちらも四國さんなので、ここから著者のことは光氏、お父様詩画人は五郎氏、で統一していきたいと思います。)
だってね。私のように父親が普通の役人だったりすると、(「まだ92歳で健在でぴんぴんしているので、そもそもまだそういう気持ちにならないだけかもしれないのだけれど、)「自分のこれからの人生は、父親のことをその生涯の軌跡、業績と思いを明らかにし、それを世の中に正しく伝え、遺し、その遺志を伝えることに自分のこれからの人生を使おう」とはまあ全然思わないわけで、それは「普遍的な意味でそうすることに価値がある」と心底思えることと、家族として、息子として、そうしたいという強い気持ちというのが合わさっていないとそうはならないと思うので。これはその意味で、かなり特異な作者による、かなり特異な本なのである。
というわけで、この本についての書評は、数多く新聞雑誌などに出ているが、それは四國五郎氏という稀有な画家・詩人の生涯と生き方、その意味についての再評価として語られる、という視点の書評が多い感じがするのだけれど、私としては、この本を書いた四國光氏という人物とその主張についての感想、という方向で、この感想文を書きたいと思うのであります。
と思ったら、あとがきで
とあった。そう、ダワーさんのアドバイスは全く正しいと思う。そしてこの本はそう書かれているのです。この本。そこがいちばん、感動的なのである。
四國五郎氏がそもそもどう評価されている人なのか、ということが、「こうして本になっているくらいだから、すごく評価の高い人なんだろう」と思って読み始める。と、実はこの光氏の気持ちというのが、初めのうち、あまりよく分からない。しかしだんだん読み進んでいくうちに、光氏には、父・五郎氏が正当に評価されていない、理解されていないという悔しさのようなものが心の中にあるのだなあ、ということがだんだん分かってくる。自分が父親をどこまで理解していたか、生前にもっと話を聞いておけば良かったという自らへの後悔のようなものと、反戦平和の活動をともにしていた人や広島の一般市民の間には深く理解してくれる人が多数いる一方で、東京の、中央の美術界では正当に評価されていないというようなことが、読み進むうちに分かってくる。幼少期から神童ともいえる絵の才能がありながら、家庭の貧しさから美大芸大に進学することなどできず、独学で働きながら絵の勉強をし、そのまま軍隊に取られ、シベリアに抑留される。帰国後も市役所で非常勤の仕事をしながら絵を描き続けるが、美術界の本流からは相手にされない。「日曜画家であり、反戦平和活動のための「わかりやすい絵」や「詩の言葉と一緒になった絵」や「ポスターなど」を描く便利屋」のように思われている。その活動自体の価値や、そのことにこめた五郎氏の思い。五郎氏自身は自分の表現活動のあり方について、はっきりと考え、意識し納得していたのかもしれないが、息子、光氏としては色々と悔しい思いがある。そうした光氏の思いが、本を読み進めるうちに、すこしずつ、だんだんはっきりと伝わってくるのである。
そういう思いが、本書終盤の第十章「素顔の父」から第十一章「晩年、そして死」にかけて、溢れるように語られていく。五郎氏の詩画人としての生涯と業績は第九章までに丹念に語られていくのだが、父と子の物語は、第十章を助走として、第十一章で劇的に語られていく。正直、そこのところで私はボロボロ泣いてしまいました。ちよっと長くなるけれど引用します。70代半ばで五郎氏はアルツハイマー型認知症を発症してしまう。
光氏は、父、五郎氏の絵や詩・その価値を後世に継承したいと、この本を書いたのだと思うが、この本自体が新しい表現物として、反戦平和の思いを伝えているということ。そこのダイナミズムに、この本の価値の中心を、私は読んだ。
光氏がこの本でも取り上げている、塚本晋也監督による映画『野火』は、大岡昇平の小説を読まない世代にも戦争の惨禍を伝えていく。五郎氏の絵や詩を知らしめる、という価値だけでなく、「父親の生涯と業績を伝えるこの本」を書こうとするその思い自体が、新しいそれ自体の表現として、現代そして未来に何かを伝えていくのである。
四國五郎氏の強い意志、四國光氏の強い意志が、本の終盤に行くほどに、父から子へ、そして現代から未来に生きる、戦争を直接知らない私たちに強く増幅されながら伝わってくる。「戦争の話だから居住まい正して神妙な顔をして読みなさい」というのを超えて、父の遺志をなんとしても引き継いで、現代化して伝えようという光氏の思いが届く。
この「継承」についての光氏の思考、洞察は深い。
もちろん、素直に五郎氏の人生を、戦前から戦中、戦後の軌跡を追って読むことの中にも、多くの心揺さぶる中身があります。私の読み方は、いつものように、ちょいと斜めになっているかもしれない。しかし、「戦争のことを書いてあるから真面目に真正面から」という視点だけでなく、光氏の、息子としての気持ちに寄り添って読むほうが、共感の回路が広く開かれるように思ったので、こういう感想文を書いてみたわけでした。是非とも、読んでみてほしいです。
追記その①
巻末、原爆で被爆死した、五郎氏の弟・直登さんの死の直前まで書いた「弟の日記」が収録されている。この痛みが五郎氏の中にいつまでも表現への思いをかき立てていたのだろうことが伝わるものなので、本書を手に取った方は、ぜひとも、ここまで、全部ちゃんと読んでほしいと思った。
追記その②
「ホロコーストについての文学は苦手」と私は最初の方で書いたが、光氏はあとがきの最後にアウシュビッツを生き延びたイタリアの哲学者、プリネ・レーヴィの言葉を引用している「一度起きた出来事であるから、また起こる可能性がある。これが私の言いたいことの核心である。」(プリモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』)。全くの偶然なのだが、これを書く直前に、読書師匠のしむちょんがレーヴィの『周期律』という本を教えてくれていて、ちょうどAmazonから届いたところだったのである。読書の神様は、四國さんとしむちょんの両方から、「苦手などと言わず、ちゃんと読みなさい」とメッセージを送ってくれたのだと思う。
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