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ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』を、世界文学を読むための、基礎トレーニングとして、読む。

『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 』(社会科学の冒険 2-4) (日本語) 単行本 – 2007/7/31
ベネディクト・アンダーソン (著), 白石隆 白石さや (翻訳)

Amazon内容紹介
 「国民はイメージとして心の中に想像されたものである。/国民は限られたものとして、また主権的なものとして想像される。/そして、たとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は常に水平的な深い同志愛として心に思い描かれる。そして、この限られた想像力の産物のために、過去二世紀にわたり数千、数百万の人々が、殺し合い、あるいはみずからすすんで死んでいったのである。―ナショナリズム研究の今や新古典。増補版(1991年)にさらに書き下し新稿「旅と交通」を加えた待望のNew Edition(2006年)。正に定本の名にふさわしい決定版。近年文学・言語研究に重要な示唆を含む研究として社会科学のみならず文学研究においても必読書とされている。」

ここから僕の感想。
 今年年頭のNHKの番組「100分deナショナリズム」で、冒頭、大澤真幸氏がこの本が取り上げていて、有名だけれど読んでないな、と買い込んだが、そのまんま積ん読状態だったのを、別の必要興味から読んだ。

 仕事をやめて、余生のライフワークとして、読書師匠のしむちょんの後を追いかけて、世界の文学をあっちこっちと読んでいる。その読書感想をFacebookに、noteにと書いている。のだが。日本の現代小説を読んで感想を書くと、わりと多くの読書好き友人、知人、が、「読んでみた」という感想を返してくれたりするのだが。外国の小説については反応する人が、ごくごく限られる。外国の純文学、それもあんまり馴染みのない国の小説というのは、自分と関係ないものと思うみたいなのだ。何かハードルが高いようだ。

 『想像の共同体』の提示するナショナリズムの成立において、印刷技術の発達が、きわめて大きな要素として考えられている。印刷技術の発達は「(国民的)小説」と「新聞」を生み出していく。このふたつが、想像の共同体としての国家の形成に、それぞれ大きな役割を果たした、と分析している。
 小説について主人公と複数の登場人物が、同時に並行してなんらかの行為、事件が進行していく「ひとつの共同体」が想像され、読者は、小説の登場人物を「われわれのひとり」として想像する。主人公が青年であれば「われわれの青年」として読者が想像する。

 日本の文学のみならず、明治以降の「国民意識」に関する研究をするにあたって、夏目漱石が、決定的に重要なのは、そのような「国民的小説」として、「日本」「日本人」という意識形成に決定的な影響を与えたからで、小説の中身は全く政治的なものではないのに、「国民的作家」であるというのは、そういうことなのである。

 ということを考えると、外国の小説を読むときに、「われわれの主人公」と感じにくいというのが、心理的ハードルとしてとても大きいのだということがわかる。そこで並行的に複数登場人物が動き回る都市空間、社会、舞台が「わたしたちの社会」と感じられない(というか、基礎知識がないので、どんな社会なのか想像できない)ことが、大きなハードルになる。

 僕は、よく知らない国の小説を読むときは、ウイキペディアでその国のことをなんとなく知り、グーグルアースでその舞台になっている町や村の風景を、できればストリートビューで見て回り、その国の音楽をAmazonミュージックやYouTubeで検索して流しながら、読むようにしている。「どういう社会で、町で、どういう国民としての歴史や意識をもっていて、近隣国とのどういう葛藤があり、国内にどういう民族や宗教的対立があり」というようなことを漠然とでもイメージできるようにしながら、読む。

 読書師匠のしむちょんは、世界を股にかけて演奏旅行をしてきたドラマーなので、びっくりするほど、世界のすみずみの国に行ったことがある。若い時には南米あたりを放浪してまわり、演奏家となってからは東欧北欧あたりにも、北米でも小さな田舎の都市も、ツアーをしている。それぞれの国で、町で、ホテルに泊まることもあれば、アーティスト仲間の知人宅を泊まり歩くことも多かったようなので、単に観光客として通り過ぎるよりもずっと深く、いろいろな国の人のことを具体的に知っている(ようなのである。)

 そういう体験ベースのない僕が(アメリカに何度か行ったことがあるだけで、それ以外の外国には行ったことがなく、かつ、ここ20年くらいは外国に行っていない)、世界文学の中に入っていって、主人公を「われわれの青年」という気持ちで読むというのは、たしか、なかなかにハードルが高いことなのである。

 リタイア読書生活に入ってから、それなりに中南米の小説を読むようになったが、この『想像の共同体』で分析されている、それらの国の成り立ち、宗主国との関係、原住民と、奴隷として連れと来られてきた黒人と、クレオール白人(スペイン人の子孫)なのだが現地で生まれた人、その混血。南米各国での、それらの歴史や配分の違い。そういうことを知らないと、いろいろイメージできないことが多い。

 東欧についても、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリーあたりのことというのが、18世紀までのハプスブルグ家など王朝時代に、言語と民族との関係がどうだったか。近代ナショナリズム以前のヨーロッパの在り方が、僕は全く分かっていなかった。誰が何語を離していて、国家として支配階級が何語を使っていて(18世紀まで国家語はラテン語だったり)、民族的には王族貴族は地元民族とは無関係に婚姻で欧州中に縁戚関係を拡げていて。イギリスの王朝も、英語がしゃべれない、イギリス人じゃない人が代々王様だった。(今の王室もドイツ系)。19世紀、ナショナリズムが勃興して、民間俗語であった言葉を「国語」として各民族が国民国家が成立していくプロセス。この本を読んで、ようやくなんとなく分かってきた。

 言語なのか、民族なのか、そういうものが、ごく近代に「国家」形成のときに、その国ごとに、かなり固有の事情をもって取りまとめられて成立して、その成立過程は早々に忘却され、過去に向かって歴史が作られていく。(ずっと昔から民族の歴史があり、各国言語が正統な言語として使われていたかのように)。

 というわけで、ナショナリズムの問題を、僕の場合は「世界文学を読む」という視点から考える上で、きわめて多くの示唆に富む、知的大冒険の本でした。

 もちろん、政治について、今の日本の「明治期ナショナリズム」復古勢力が、明治期ナショナリズムを過去神話時代まで投影混同するような問題とか、コロナにより、実質世界各国が鎖国に近い状態になり、改めてナショナリズムを考えざるを得ない状況についてなど、いろいろな方面の問題を考える上でも、役に立つ知見満載です。おすすめ。

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