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赤松利市『ボダ子』、それは平成~令和時代の、人間失格。不誠実の極みを観察し記述するという行為は、果たして誠実なのか不誠実なのか。という日本純文学の伝統の最先端に位置している。読むには覚悟がいる。

『ボダ子』 2019/4/19赤松利市 (著)

Amazon内容紹介
「バブルのあぶく金を掴み、順風満帆に過ごしてきたはずだった。やがて事業は破綻し、境界性人格障害(ボーダー)の娘を連れた大西浩平は東北で土木作業員へと転身。再起を賭し、津波避難タワー建設へ奔走するも、それは奈落への序章に過ぎなかった。圧倒的な孤独、極限の恐怖、そして、絶望の頂へ――。あなたは、この現実を直視できるか。」

ここから僕の感想。
 この作者の最新作『アウターライズ』と、出世作『藻屑蟹』の感想をnoteに書いて、ツイッターにもリンクしたところ、著者自身がnoteを読んでくれた上で、この作品、『ボダ子』が山本周五郎賞の最終選考に残っていて、9/17が選考会だと教えてくれた。

 『藻屑蟹』についての感想で、私は以下のような意味のことを書いた。大藪春彦新人賞(徳間書店主催)はエンターテイメント小説を対象とした新人賞受賞作なのだが、私は純文学としてこの小説を読んだ、と。すると、作者ご本人から、もともと自分にはその(純文学への)志向があり、とコメントを頂戴した。そして、『藻屑蟹』が、新潮社の編集者の目に留まり、声をかけられて書くようになり、その三作目のがこの『ボダ子』だという。

 私が思うに、徳間書店に書くときは、おそらくエンターテイメントとしての、サスペンス的展開を意識するのだと思う。(『藻屑蟹』は、新人賞受賞の前半に、後半部分を書き継いで、単行本として出版された。前半部分が「明らかに純文学」なのに対し、書き継がれた後半部分は、社会派サスペンスとしての筋、構造を強化した印象がある。)

 一方、新潮社に書き下ろしで、と言われた時には、作者は、作者にとっての純文学を、思いきり書く場を与えられたという思いで、この『ボダ子』は書かれたのではないか。というのが読後第一印象である。

 この作者について、『藻屑蟹』受賞時以降、「62歳、ホームレス、ネットカフェで執筆、被災地、除染の作業員の経験を」という触れ込みで紹介される。『藻屑蟹』も『アウターライズ』も、震災と原発事故と被災地と復興のための作業員の経験から、という体験が(切り口は違えど、)描かれている。おそらく、そういう実体験をお持ちなのだろう、ということは、想像に難くない。

 しかし、なぜ、どういう経緯で、62歳でホームレスになっているのか。なぜ震災後、被災地、原発や除染の作業員として働くことになったのか。そうなるまでの人生の経緯については、今挙げた二作では、うかがい知ることはむずかしかった。おそらく、『ボダ子』は、そうなるまでのいきさつを、私小説的に、告白小説として書いたのではないか、そう思わせるような、内容なのだ。

 もちろん、自叙伝的私小説なのか、体験にフィクションを混ぜ込んだものなのか、その配分はどの程度なのか、は定かではない。にしても、何かこれに類する人生の事実がなくては書けないよなあ、というリアリティに満ちた内容なのだ。

 ここから先論ずるにあたって、大切なことが、この小説には書かれている。主人公は、バブル崩壊後、まだビジネスマンとして生活していた時期に、一度、別の文学賞を受賞して、短い期間、小説家として書いていたというエビソード。どうも、これは事実らしい。なるほど、『藻屑蟹』は「ホームレスの62歳の新人」というプロフィールから想像されるものと隔絶して、あまりに小説がうますぎるのである。そういう経緯があっての、今なのか、と言われれば、確かに、納得できる。

 という小説の成り立ち位置づけを確認してきたが、それを踏まえ、小説自体についての、感想をここから、書いていきたい。

 一言でいうと、令和の時代の『人間失格』なのだ。そう、あの太宰治の。あの読後感を、令和時代にパワーアップして小説化したら、こうなるなあ。そういう小説なのである。

 自らの、周囲の人間の、その醜さ愚かしさを、冷徹に突き放して徹底的に抉り出して描く。その視線と筆の手触りは、たしかに『人間失格』の、それである。唯一、境界性人格障害に苦しむ娘「ボダ子」に対してだけは、惜しみない愛情を筆者としての私は注ぐのだが、しかし、主人公の行為行動は、ボダ子を、大切な時に、見ようとしない。物語進行時点での行動としては、愛情を注ぐときと、見てみぬふりをする放置することを、自分勝手に繰り返す。その身勝手さ。それこそ、人間失格なのだ。ウソもつく。欲望に振り回される。大事な人を放置する。大事な人を傷つける。仕事の上でも、調子よく振るまい、小さな嘘もハッタリも必要なら厭わない。金に絡む不正も、ばれなければ、特に気にしない、人当たりはよく、ビジネスの場面で出会う人間の前では好人物としてふるまえる。ただし、現場作業員のような、学のない、本音むき出しの、暴力性むき出しの男たちとは、うまくコミュニケーションできない。自分が操れそうなタイプの女に対しては、性的にも冷酷な扱いを平気でできるが、性欲が勝っているときは、そのような支配欲、コントロール欲と愛情の区別があまりつかない。

 このように自分の性格や行動を、常に冷徹に分析し描写できる「小説家としての自分」がいる一方、登場人物、行為者としての主人公は、そうした愚かさ醜さを、コントロールできずに、破滅に向かって進んでいく。

 私が、ここで論じたいのは、ちょっと複雑な論理だから、慎重に書こうと思う。主人公は、作者の分身である。主人公は、小説内でも、小説を書いて新人賞を得た経験を持つ人間と設定されている。だから、単純に「作者」と「主人公」を分離できない。
 「作者の主観」をAと措く。現在時点から回顧して書いている、観察者としての視点A。
 次に、「登場人物としての主人公の主観a」がある。その物語内で事件が起きている時点での主観a。
 通常は、作者Aが主人公aの主観を観察し回顧して文章を記述する。
現在の作者Aが、過去の主人公aのことを、過去を観察して、描写している、と普通、考えるわけだが。

 本作では、ことは、そう単純ではない。なぜか。主人公aは、小説内の過去において、すでに小説家としての自意識を持っている。たとえ、転落していく過程では小説を書いていなくても、一旦、小説家としての自己意識が、頭の中に形成された人格である。つまり、過去の行為時点で、自己を客観的に観察し、自分の行為の善悪の外に、観察者としての自意識を常に持って生きてきた。過去の行為時点での、超越的観察者視点bというのを持っていたのである。現在の作者意識Aが、物語時点ての行為者意識aと、その時点での観察者傍観者意識bの両方を回顧しながら、その構造まるごとについて記述していく、という告白の小説なのである。

 過去の主人公aは愚かであった。と現在の作者Aが回顧記述しているのではない。過去の主人公aを、過去の観察者的自意識bが、過去の時点で、すでに、自分の行為の愚かしさ、裏切り、不作為の怠惰、そういうものを観察していたのである。観察しながら、止めようとしないという不道徳を、すでに過去の時点で犯しているのである。

 私がこの作品を令和の『人間失格』と呼んだのは、そういう意味合いにおいてである。太宰の『人間失格』が、なぜあれほど、本当に「人間失格」としか言いようのない醜さと、それを直視する自らを切り刻むような誠実さ切実さと、しかしまたなんとも言われぬ、誠実を装っていること自体の不誠実さの不快を伴う、独特の複雑な読後感をもたらすのか。

 それは、小説家の自意識が、不誠実を行うその瞬間(書かれる瞬間ではなく、行為される瞬間にすでに)、観察し、不誠実を知り、分析すらしているのに、それを止めない、「これは後に小説に書かれるべきこととして、その不誠実の醜さ自体を観察し記憶にとどよう」という意識。その構造自体から抜け出せないからである。自覚しているなら、そこまで認識できているなら、なんとかすればよい。それでも、その瞬間に、行動は変えずに、それを覚えておいて、後に小説に書くために、そのまま、破滅に向けて、自分だけでなく、周囲の人間みなを、不幸に巻き込んでいくのである。

 新潮社という、純文学を志すものにとって、もっとも古典的、ステータスの高い出版社に書き下ろしを依頼されたときに、おそらく作者の中には、日本の純文学の伝統の中に脈々と生きる、こうした「私小説としての純文学の持つ、本質的不誠実さ、人生破壊作用」を、本気で、そのまま書いてやろうという思いが湧き出てきたのだろうと思う。

 『アウターライズ』と『藻屑蟹』は、なんの躊躇もなく、友人や家族に「この本、読んで」と進められる小説だったが。この二作には、人間の美しい側面、複雑だが、崇高なものに向かおうという側面が描かれていた。

 しかし、この『ボダ子』は、そうではない。覚悟して、読んでね、と言わざるを得ない。人間がどうやって、これ以下はないという最低の状態に転がり落ちていくか。

 バブル景気とその崩壊だの震災だのという時代背景、事件がその原因ではない。日本の純文学というものが持つ、小説家になろうという意識がもたらす、人生破壊作用を、太宰治の『人間失格』以来、最も赤裸々な形で、小説化したものだから。仕事中毒も、性についても、お金についても、昭和よりも、平成令和の時代の方が、本当にえげつなく厳しくなっていくから。その中での人間失格度合いは、人によっては「読むに耐えない」となるから。

 私自身が、今まで、小説を書いてはいないが、そういう「いつか小説を書く人間」の視点bとともに、この人生を生きてきたから、ここに描かれている不誠実、醜さのことを、自分のこととして、よく知っているから。とても他人事とは思えず、この小説を読んだのである。

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