映画『人数の町』、ゆるいディストピア、それはこの日本、そのもののことです。

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今朝、封切り初日、初回上映を、家から近い海老名イオンシネマに観に行った。監督の荒木伸二さんのデビュー作。荒木さんとは、以下に説明するような、広告の仕事時代からの知り合いである。

 感想というか、映画評を書きたい気持ち満載なのだが、どこまで書くとネタバレになるのか、下手にネタバレして営業妨害してもなんなのだが、とにかく、僕のような人間が「いろいろいろいろ書きたくなる」映画でした。

 荒木さんとは、彼が博報堂から電通に転職してきた直後から、(バルサからレアルに移籍したフィーゴみたいだな、普通、あんまりいない)、ときどき、いろんな仕事で一緒になった。

 僕の同期には、電通から独立したクリエイティブディレクターが数多くいる。大抵、格闘技経験がある武闘派が多い。(空手バカ一代世代なのだ)。

 そういうクリエイティブディレクターがいて、戦略プランナーが僕、そこに若手のエースCMプランナーとして荒木さんが入る、そんな座組の企画会議を、数えきれないほどたくさんした。
 
 当時の企画会議。いつもではないが、ときどき、僕とクリエイティブディレクター(CD)の間で、言葉のどつきあいみたいな、殺伐とした雰囲気になることがあった。肉体的暴力を振るうのではないが、理詰めに言葉の圧、強めで言い合う、みたいな。

 僕とCD、同期の友人同士で、格闘技経験者同士でやっている分には、実はじゃれあいのようなところはあるのだが、周囲や後輩に、とばっちりがいくことがあった。「その雰囲気自体が、パワハラでしょ、若手にとっては、勘弁してよ」、という感じ。

 ある日の企画会議、荒木さんのさらに後輩CMプランナーに、僕が言葉の拳骨でタコ殴りみたいなことをしてしまったことがある。(彼の人格攻撃したんじゃなくて、出てきた企画に対し「全然、おれの分析した課題、解決されていないじゃん、立てた戦略、反映されていないないじゃん」と指摘しただけなのだが、ナイーブな彼は、全人格否定されたように感じたわけだ。)

 翌日、荒木さんが僕を会議室に呼び出して
「原さん、大人なんだから、ああいうの、やめましょうよ」と説教してくれました。荒木さんのほうが十歳くらい。年下なんだけど。
 荒木さん、いつものような静かな口調で、ちょっと半笑いで、でも目がマジで、ちょい怖かった。
 説教されて、大変に、反省しました。荒木さんのことを考えると、いつも、あのときのことを思い出す。

 デイストピア映画といったら、もし、アメリカの映画なら。いや、韓国映画でも、東欧のどこかでも、南米のどこかの映画でも、それはきっと、暴力と恐怖が、もっと、むき出しになると思う。

 もちろん、ポスターにもなっている中村倫也くん、目尻に殴られたアザがあるから、暴力皆無ではないのだけれど。日本にディストピアがあるとしたら、いや、日本社会そのものをディストビアとして描くとしたら、そこでふるわれる暴力性っていうのは、どんな形になるのかなあ。ということを荒木さんは表現したんだなあ。と思いました。

 僕より、10歳くらい上の世代っていうのは、政治的暴力を、なにがしか経験している。学生運動と、その残滓としての1970年代前半の内ゲバとかなんとか。身近な人間が政治的暴力にさらされる恐怖というのは、その世代まではあった。

 僕らの世代は、そういうリアルな政治的暴力が身近からなくなっちゃった代わりに、みんなプロレスとか格闘技とか空手とか、ある種限定された空間での暴力と、校内暴力という、幼稚で素朴な暴力に囲まれて育った。僕のような優等生でも、中学自体にツッパリに殴られたり通りすがりに回し蹴りをくったり、それから身を守るには自分も何かやらなくちゃみたいなことはあった。「政治が暴力だ」という感覚は急激になくなっていった。

 荒木さんの世代は、政治的暴力もなく、格闘技も校内暴力も誰もが経験するものではなくなり、いじめとかDVとか管理教育とか、もっとじわっと見えない形に暴力が変質した中で、大人になったのだと思う。

 暴力も、管理も、監視も、日本社会では、見えにくい。村上春樹が何でなかなかノーベル賞を取れないかというと、政治的暴力の表れかたがあまりに抽象的なので、「緊急にノーベル賞を授与して応援しないと、この人、、命が危ない」って、思えないからだと思う。ノーベル賞には、そういうところ(政治的弾圧や差別と闘っている文学者を応援する、ということ)がある。

 村上春樹の小説は、その点でゆるい甘いと思われやすい。本当は、村上春樹の小説がではなくて、日本というディストピアのありようが、ユルユルなのに、逃げられない。反抗しにくしいからなのだけれどな。それを文学にしようとすると、ああいう形になるのだと思う。

 この映画、デイストピアとしてのユルユルさ、ユルユルなのに逃れられない怖さ。日本のそういうことを、半笑いで、静かな口調で、でも目だけはマジで、描いた映画でした。

 と、ここまでが、Facebookに書いたことにちょいと加筆したパート。

 note用に、もうすこし、書き加えます。荒木さんへの、ここんところが、もうすこし、掘り下げてほしかったな、という要望というか、なぜそうしなかったの質問として、Facebookでは書かなかったことを書きます。

 「暴力」だけでなく、「性描写」についても、もし外国の映画だったら、もっと赤裸々だったろうなあと思う。「性」自体をテーマにしていなくても、新人監督としての荒木さんが「性」をどう描く人なのか。TVCMの世界では、そこは描かないことになっているので、映画だとどうなんだ、という興味がありました。

 僕が好きな映画って、「暴力」か「性」か、その両方が、印象的に描かれたものがほとんど。小説でもそうだけれど。伊丹十三監督デビュー作「お葬式」の、高瀬春奈のシーンとか。サム・ペキンパーの「わらの犬」とか。キューブリック「時計仕掛けのオレンジ」とか。金子修介監督の平成ガメラシリーズも、ヒロイン女性と怪獣の性的交感が、陰のテーマとなっていたり。エミール・クストリッツァの作品なんて、全部、性と暴力に塗りつぶされているし。

 で、この映画、「町」の状況・設定を考えれば、「性」について、描こうと思えば、とことん凄いことになりうる。どうするのかあ、と思ったのだが。実は相当期待していたのだが。スケベな期待ではなく。ですよ。もちろん。芸術的視点での期待です。

 さて、いよいよ、そういうシーンか???と思うと、「暗転」だったり、「セリフで説明」だったりで、するるっと、描かれない。はーん、直接は描かないというスタンスなんだ。R指定にしない配慮なのかな。いやいや、そういうことでは無く。中村倫也ファンへの配慮?いやいやファンは見たかったかもよ。

 個人的には、そこのところの、「性」の設定と「愛」の問題を、もっと深く観たかったなあ。掘り下げてほしかったなあ。そうなれば、あそこでの「愛」をめぐるやりとりに、「性が自由になる町で愛がどう生まれるのか」ということの納得が、もっと出たように思いました。

 荒木さんと僕の世代差なのかしら。暴力への距離感と共に、性ということへの、生々しさへの拒絶感のようなものがあるのかなあ。激しい暴力も生々しい性描写も封印する中で、(いや、たしかに、そういう日常を生きている人が大半だから、そういう方がリアルんだとは思うけれど)、政治や社会について批評性の強い映画を撮るということの意味とか、意義とか、そういうことについて、考えさせられました。結論はない。小説でも同じだと思うから。考えて行きます。

追記

キネマ旬報の「キネ旬Review」、辛口採点で知られるこのレビューでも、今回評価された邦画の中ではいちばん高評価だった。という星の数のこともさることながら、星四つくれた吉田広明氏のコメントが秀逸なので、上記下線部クリックすると、飛ぶので、興味ある方は読んでみてください。

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