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僕にとってのギターは、手編みのセーターみたいなものだ、と気づく。誰かが喜んで着るわけでなくても、自分の手の中から美しいものが生まれてくるという、自分の楽しみのためにだけ、弾いている。

 明日にも死ぬかもしれないし、永遠にとは言わないまでも、自分の親と同じくらい、90過ぎまで生きるかもしれない。(私の父は先日、90歳になった。全く頭も正常で、毎週、ヨガに通い、毎日、一時間散歩をする程度には元気だ。コロナが流行る前までは、月一回はゴルフコースを回っていたし、今も碁会所に毎週通って、碁を打っているようだ。アマ五段とか、それくらいはあるらしい。)。父の年齢になるまで32年もある。母も84歳で同様に頭も体も元気だ。

 私の場合、悪玉コレステロールも高いし血圧も高めだから、明日にも心臓麻痺とか脳梗塞とかで死ぬかもなあ、とも思うし、不運にも家にこもり切っているのに新型コロナになって死ぬかもしれないし、頸椎の持病が悪化して四肢麻痺で寝たきりになる確率も10年以内にそれなりにある。が、一方、父くらい長生きするかもしれない。未来があまりに不確定で幅がある。

 という中でも、別にやりたいことはやったし、いろいろ書き散らかして、私が何を考えている人間かはだいたい分かる程度にはなったし、本はどんなに長生きしても読みたい本を読み尽くせるわけではないから、あせらず日々読めばいいし。明日死んでも、予想以上に長く生きても、本とか文章を書くとか読書とか、そのあたりについては不安も不満もない。

 そんな中、「50年近く弾き続けてきたギターって、僕にとってなんだったんだろうな」と思う。いろんな種類のギター演奏に挑戦して来たけれど、エレキギターもクラシックギターも向いていないことがわかり、フォークギター、いわゆるアコギの、フィンガーピッキングだけはまずまず自由に弾きこなせるようになった。

 あ、この曲好きだな、と思ったら、聴こえるままに、さらさらっと弾いているうちに、たいていの曲はあんまり考えずに、自分なりのアレンジで弾けるようになっている。たとえば朝の連ドラの秦基博さんの『泣き笑いのエピソード』なんかは、一回聞いただけで、「ああこうだな」って弾いてみる。その後、秦さんが、ギター演奏だけを、ギター弾きに教える用ににわかりやすくYouTubeにアップした動画で確認しても「初めに聴いて耳コピーしたので98点くらい正解」っていう感じだ。

 原曲が秦くんのようにアコギだと「コピー」と言うことになるのだが、例えば藤井風君のような、Kirinjiのような、Salyuに小林武史が作ってあげたような、コード進行が複雑で美しいっていう曲で、ピアノやバンド構成の曲の場合は、ギター一本用に自分でコピーしながらアレンジすることになる。

 一~二週間、なんとなく聞きながら、ちょっとずつ工夫、修正していって、一月後には「だいたいコードも細かなリフも、90点くらい正解、雰囲気、出来た」ってなる。楽譜は読まないから、最近、あんまり読めないし。とにかく、聴いたまんまの雰囲気になるように、アレンジして、弾く。テレビから流れてきた音楽は、なんでもそのまんま、聞こえたままにコードも旋律もリズムも一台のギター用にアレンジして弾く。本を読んでいるとき以外、家事をしているとき以外は、一日中、ギターは抱えている。

 しかし、人様に聴かせるようなものではない。これって、つまり、いったいなんだろう。弾いていると、自分の心が落ち着くんだよな。自分の心が、なんとなく楽しくなるんだよな。

 体が動かなくなると、耳が遠くなると、死ぬよりも前にギターは弾けなくなるかもしれないな。音楽は、演奏は、その場で生まれてその場で消えるものだから、そうなったら、僕がどういうギターを弾いていたかは、何も残らないな。それでいい気もするし、妻が僕より長生きするとしたら、妻がときどき思い出して聴けるように、録音しておいた方がいいかなあ。いやあ、いらん気もするなあ。

 僕にとってのギターは、何に似ているかと言うと、「手編みのセーター」に似ているなあ。

 私の母は、セーターを手編みで編む人だった。専業主婦だが、ボランティアだなんだと(日本赤十字点字図書館の、朗読奉仕を何十年もしていた)をやっていて、それなりに忙しかったはずだが、それでも、夜、家事が一通り終わると、テレビを見ながら、たいてい、編み物をしていた。

 私が子供のころ着ていたセーターは全部母の手編みだったし、私が大学生、社会人になっても、セーターだベストだ、なんやかや、編んでは送ってきた。が、あるとき、私がほとんど、送ったセーターを着てないことに気がついて、あるときから送ってくるのをやめた。

 私の妻も、昔は、セーターを手編みする人だった。僕と高校生で付き合い始めてしばらくして、マフラーとか、なんやかやをくれるようになった。大学生になると、アイビーファッション用のベストとか、カウチンセーターとか、かなり凝ったものを編んでくれるようになり、ついには全面にMASAKIMASAKIと私の名前が編みこまれたセーターをくれて、着ていると、僕の友人からは「浮気防止の魔除けか」「耳なし芳一セーターか」とかからかわれた。

 妻も、そのうち、あまり編み物をしなくなった。忙しいのもあるけれど、編んでも、僕がそんなに着てくれない、ということがわかってきたからだ。


 手編みのセーターをもらっても、それは編んでくれた人の思いがこもっているから着なくちゃなあ、というプレッシャーをかけるだけで、実はそんなに喜んで着てくれないものだ。

 冷静に考えて、そんなにデザインとか着心地とか、抜群に、プロが作ったみたいに素敵なわけではない。というか、毛糸が首周りでちくちくして、毛糸のセーターって、そんなに着ないし。本当に気に入って着てもらえるのは、良くて5着に1着くらい。

 あれは、着る人のことを思って、とかではなくて、ふと時間が空いたときに、手を無心に動かして、デザインとか網目の詰まり方とかに、はじめのうちは注意するけれど、ベテランになると、ほぼ無意識に何かができあがってきて、それは編んでいる本人にとっての、なんとなく楽しい、無心になれる、そういう楽しみなんだろうなあ、と思う。でも、できあがったものを、相手が本当に喜ぶかと言うと、ふと気がつくと、そんなでもない。

 僕のギターも、弾いてる僕の、心の落ち着きと、自分の手から、それなりに美しい何かが生まれてくる喜びと、そういう体験時間を生み出してくれるもので、無理に誰かに聞いてもらう、ということは、僕も求めていないし、相手も、別に聴きたいとは全く思ってないな。

 同居家族は、妻も息子も「あ、またいつものようにパパがギターを弾いているな」と思うだけで、それがいいも悪いも何も思わないというか、「ちょっとうるさい」くらいしか思っていない。

 だから、もし、死んだ後のために、僕が自分のギター演奏を録音しておいたとしたら、それは音楽として美しいとか素敵とか、そういうことではなくて、「いつも、この曲、弾いていたよね」「いつも、ここでちょっとつっかえたよね」「ここのコードが、ちょっと違うんじゃないかと、いつも思って聞いてたんだよね」なんて、そういう話題を提供する程度のことになるのではないかと思う。

 それでも50年も弾いていて、しかも「聴こえたまんまを自分でアレンジして弾く」ということを続けていると、この曲を、こういう風にアレンジした演奏と言うのは、この世界に、他には全くないのだよなあ。完全に分からないもの、無かったものになってしまうのだよな。と思うと、なんとなく、残しておきたいような気もする。誰も喜ばないにしても。

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