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『CF』 吉村萬壱 (著) ここ数年の政治と社会状況の深層を抉り出す秀逸な小説的アイデア=宗教ではない、不思議な技術とビジネスモデルの企業「CF」を創り出すことで、まさに今現在と近未来の日本と世界を予言する傑作となった。吉村氏の才能と力量に感服。

『CF』 2022/6/29 吉村萬壱 (著)

Amazon内容紹介

 罪の責任を取る必要がない「無化」を行ってくれる超巨大企業・Central Factory。
 加害者のみならず被害者の苦しみも取り除いてくれる夢のような技術を持ち、世を平穏へと導いている。
が、それに疑問を持つ男がひとり。男はCFへのテロを計画していた。
 人生に上手く馴染めないキャバクラ嬢、能面のような夫の表情に悩む主婦、少女へ恋する中学生、自由を持て余すホームレス、CFの布教に勤しむ老婆、CFでの労働によって犯罪の清算をする中年、社長の著作代筆作業に行き詰まるCF広報室長。そして、CFの欺瞞を暴こうとテロを計画する男。
CFCFCF。
CFをめぐり、人々は交錯する。
罪とは何か。
責任のとり方を問う群像劇。
『卑俗にして至聖、極微にして極大、さらには極北。この小説家はほんとうに恐ろしい。』花村萬月
『せっかく読んでいた物語が、CFのせいでグチャグチャになる。それは全部CFのせいなんだけど、そもそも何の為にこれを読んでいるのかとCFは思わせてくる。そこからはもう、CFにまるごと委ねれば楽になる。CFが全部やってくれる。CFが知っている。CFに行きたい。』尾崎世界観 クリープハイプ

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ここから僕の感想


 第二次安倍政権になって以降、日本の政治のあり方に不安や疑問を抱いた小説家たちが、それをテーマにした小説を数多く書いている。本作は書きおろし作品で6月30日が初版だ。安倍元首相事件も、その後の統一教会問題への注目という事態も起きる前に執筆されている。しかし、きわめて予言的な小説になっている。

 予言的な政治小説といえば、この前紹介した島田雅彦の『パンとサーカス』もそうだったが、『CF』は、『パンとサーカス』ほど真正面から、日本の政治の大局的状況をそのまんま描いた小説ではない。しかし、あれとはまた別の切り込み方で、おそろしく正確に日本の社会や政治のあり方を浮き彫りにしている。その「切り込み方アイデア」としては、本当に秀逸で、この吉村萬壱という作家の小説は初めて読んだのだが、驚くべき才能だと感じた。

 Amazon内容紹介を読んでも、どういうことだが、分からないかと思う。この小説の中心に吉村氏が創り出したCFという企業のアイデア。その核となる技術。組織。ビジネスの展開の仕方。これを説明しだすとネタバレになるなあ。Amazon内容紹介の通りなのだが。

 政治家が何か不祥事を起こしても、A級国民が何か不祥事を起こしても、結局、責任を取らずにうやむやになるということが現実世界で続くことから構想されたのだと思うが、そのことを、ストレートな「政治家批判」の小説にせずに、「責任とは何か」「責任を取る、取らない」ということが、人間にとって、社会にとってどういうことなのか。そこをとことん深く掘り下げることで、小説は複雑さを増す。

 もちろん「だからみなん悪い」みたいな「みんな責任があるから結局誰も悪くない」みたいな話にはならない。
 
 話は、ちょっと横道に逸れる。この8月の、敗戦記念日周辺になると、必ず誰かが取り上げる伊丹万作氏の「戦争責任者の問題」。「騙されたあなたにも責任がある」。これは敗戦を境に、「自分は騙されていたのだ」として、戦時中の責任をのがれ、正義の側に回って、騙していた側を糾弾する側に回るものが多発した状況下で書かれたものだから、そのときの状況としては理解できる。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html


が、伊丹氏がこう書く部分が、日本人には響いてしまう。

「こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考が奪われること急であって、だました側を追及する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。」

 結局、「みんなが悪かったら、だれも裁くことはできない」という無責任論に日本人が逃げ込むことに容易に利用されてしまう。天皇陛下さえ責任を取らなかったのだから、国民みんな「仕方がなかった、私も悪かったけれどみんなが悪かった」と言っているうちに、責任はどこかに行ってしまう。

 だから、私は福島原発事故の後にこの文章がもてはやされたときも、「たとえ自分の手が汚れていようと、大きな責任のあったものを追及しなければならない」というブログを書いて、この文章を「責任逃れ」に利用しようとする人たちを批判した。

 敗戦を振り返るこの時期に、この文章を賞揚するのには反対である。なぜ日本人は被害者としてばかりこの時期を振り返り、加害者としての自分を振り返らないのか。伊丹氏の文章は、本来、そのことを指摘しているのに、いつのまにか「みんな悪かったから、誰も人を責める権利など無いから、結局誰も責任が無い」論に利用されがちだから。そういう心の傾向に日本人はあるから。扱うならば、「なぜ日本人は戦犯を自ら裁けなかったのか」と絡めて論じなければならない。

『CF』の話に戻る。

 誰もが逃れようもなく持つ加害者としての側面。それに気づくことで、だれもが「責任論」から逃れられない。そのことを突いて、人の心の弱みに付け込んでいくこと。それをビジネスと宗教の合わさったものとして、人の支配と、金儲けに利用していくこと。それがCFという企業なのである。それがどのような仕組みで機能するのかを、それに翻弄される多くの人々の群像劇として描いていく。

 加害者としての責任から逃れたいという人の心の弱さの核。それが世界を動かす原理だということに、本当に深く切り込む小説なのである。

 社会の底辺に押し込められている小さな個人の中にもあるその心の動きを正確に追いつつ、最終的に「だから誰もが悪い。ということは誰も責任を問えない」と問題を拡散させずに、それを政治や経済の原動力にしていく権力の構造に、再び戻す、ということを、小説家の責任として吉村萬壱氏はやりきろうとする。この点に、この小説家の強い意志を感じるのである。


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