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『MISSING 失われているもの』村上 龍 (著) やっぱり、天才でした。小説を書くことの根源と、母・父との葛藤と。これを、批判される父の立場で、読むという体験。

『MISSING 失われているもの』2020/3/18
村上 龍 (著)

Amazon内容紹介
「この女優に付いていってはいけない―。小説家は、母の声に導かれ彷徨い続ける。『限りなく透明に近いブルー』からひと筋に続く創造の軌跡!5年ぶり、待望の長編小説!」

ここから僕の感想。

 これは本当に、大傑作。なのだけれど、人に勧めるかというと、人を選ぶなあ。ブックカバーチャレンジに『69 Sixty Nine 』を挙げた時にも書いたけれど、僕は、村上春樹より村上龍の方が好き。老境、死に向き合い始める小説家の、記憶と小説創作の核にあるものを、内的体験として語る、というもの。「死に向かう意識」とか、「創作するということ」とか、「父母、家族の記憶と自己形成」とか、そういうことに興味意識が向いている人が読めば、間違いなく、面白いと思う。が、小説にエンターテイメントや、物語としての展開面白さのようなものを求める人には退屈に感じると思います。

 村上龍の小説には、いくつか、大きく異なるジャンルのものがあるけれど、これは政治やSFなどというダイナミックに物語を動かす装置が一切ない、私小説的かつ内省的なタイプの小説。
 大学時代に、「こんな文章を書きたいなあ」と思って、BRUTUSに連載されていた『テニスボーイの憂鬱』を、一生懸命、書き写して、そのリズムをつかもうとしていた時期がある。一人称主人公が、現在の出来事と気持ちを語っているうちに、自然に過去の記憶、エピソードに思考が移っていく。その過去の記憶が生々しい体験として記述される。そこからまた現在に戻る。その自由な行き来、思考の流れをつぎめなく滑らかに表現する、その文章の呼吸を、なんとかして掴みたいと思った。天才だと思った。この小説を読み始めて、『テニスボーイの憂鬱』をすぐに思い出した。
 生まれた直後の、非言語的な記憶から、母、父との関り、そうしたいちばん古い記憶体験が、小説創作する自己形成につながっていく、そのありようを、母の声との対話、心療内科医とのやりとりを通して、克明に認識し、記述されていく。

 ということで、私個人にとっては、村上龍の小説の中でも、屈指の傑作、なのだが、普通の人が読んで面白いかというと。
吉本ばななが、帯に文章を書いているのを紹介して、おしまい。
「いつまでたっても決して楽に流れない龍さんに対する尊敬を感じた。これに比べたらこんなに向き合っていても私はまだ逃げている。というか、「逃げない」の極限が彼なので、しかたない。決してスカっとしたとは言いがたい最後なのに、ものすごく救われた。小説の力を思い知った。」

 と、ここまでがFacebookに投稿したものなのだが。noteには、もうひとつ、追記。

 主人公の父についての描写が、ひどくしんどい。私、そのままなのだ。引用します。

「父親は(中略) 声が大きく、態度が明るく、よく喋り、みんなを和ませ、冗談を言って笑わせ、周囲に人気があったようだ。周囲とは、家族以外という意味だ。(中略)気に入らないことがあったり、自分の思う通りに事が運ばなかったり、意見を否定されたりすると、瞬時に逆上した。(中略)大声で怒鳴りまくり、家族を委縮させた。(中略)それはいつも突然はじまるので、母もわたしも、ひどく気をつかい、びくびくしていた。父親は、怒鳴り声で家族を威圧することが、強さだと勘違いしていた。この人は、実は弱いから、すぐに怒鳴るのだと、いつのころからか、わたしは気づいた。思い通りにならないからと泣き出す幼児と同じだと思った。ただ、逆上している父親に対し、反抗的な言動を示すと、事態が長引くし、母が悲しそうな表情になるので、黙って怒鳴り声を聞いた。」

 こういう父親のために、主人公は、ふいに抑うつと不安を感じる子供になっていった。

 こうした関係は、私と私の子どもとの関係に、ものすごく似ている。私の子どものうち何人かは、こういう、私の性格行動に由来する抑うつを抱え、また、文章を書くことでしかそれと折り合いがつけられないという人生を生きている。この小説は、あまりにストレートに、私を叩きのめしたのである。

 ふつう、小説を読むと、自分を主人公に重ね、父母が出てくると、自分の父母との関係を考える、という線で読み進めることが多い。しかし、この小説の場合、私は、明らかに主人公の父親に重ねられ、主人公の抑圧と、小説創作への取り組みというのは、私の子どもの人生に重ねられる。そう読まざるを得なかった。これは、ものすごくきつい読書体験だった。

 小説内に親子が出てくるとき、主人公が子であれば、普通は、子の立場で読むところが、親の立場で読むかということが、ときどき起きる。(例えば、サリンジャーの『フラニーとゾーイー』を、おろおろする母親の立場で読む、というような。)

 これは、私が長いこと子育てをしてきた(かなり激しく失敗した子育てをしてきた)ためなのだが。57年の人生のうち25歳で親になったので、32年間は親をしており、しかも六人の子どもの親をしていたために、自分の親の子であった57年よりも、六人の子どもの親であった総和の方が、体験として重たくなっているのである。

 ある年齢になっての読書というのは、そういう思わぬ体験になる、ということを、noteにだけ付け加えておきます。

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