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2024パリ五輪 柔道競技・観戦しながら感想分析などFacebookに投稿した長文転載。その5 男子90キロ級女子70キロ級の日。柔道が技による難易度芸術度の違いと実施の出来映え点を採点する体操競技のような採点競技なら。村尾が優勝していた。

村尾選手の決勝、悔しい「技ありなし」判定について。

 村尾三四郎は悔しかったけれど。、本当に立派な内容であった。審判が判定がということは言うまい。きれいに浮かせても回しても「背中がつくかどうか」が投げ技ポイントの条件という現行ルールの中では「疑惑の判定」は無かった。
 柔道が体操競技やフィギュアスケートやサーフィンのように、技の種類による難易度点と実施出来映え点により、一定時間内の総得点を競う(サーフィンのように)というルールならば、村尾三四郎が勝っていただろう。
 僕は以前からそのような「採点競技としての柔道」というのを提案しているのだが。ほぼ寝姿勢のようなところをペロんとめくるだけの技や、相手の内股がつぶれたところをセコくペロんと返すだけの技と、豪快華麗に相手を宙に回して畳に叩きつける技が同じ一本というのは納得できないからなあ。内股透かしは芸術度が高いが、内股を潰して回すのは芸術点最低である。
 タイミングと技術でいきなり相手を畳に叩きつけるような華麗な足技(出足払い。送り足払い。大内、小内刈り)の難易度点芸術点はもちろん最高レベルに設定して。
 目の肥えた日本での全日本選手権や、今回のフランスの観客の反応を見ていると、僕の言うところの「芸術点の高い技」に必ず大きな拍手がわく。つまり、実は芸術点採点競技として柔道を見ているのである。そういう「採点競技としての柔道」の可能性を真剣に検討してほしいなあと思うのである。
 格闘技で採点競技である空手やテコンドーだと、攻撃部位と突きか蹴りかで得点が違う。どうせ今や柔道でも大きな大会ではビデオレフリーが、いちいち技のチェックをするわけだから、僕のこの考え、荒唐無稽ではないと思うのである。

あの判定はについて補足説明

ツイッターで村尾三四郎の内股について誤審とか騒いでトレンドになってますが、誤審じゃないですよ。しりもちで片手しかついてないで、そこで、動作が止まっているから技ありではありません。

悔しいのは分かるけれど

 鈴木桂治監督も「映像確認したが、しりもち(背中が畳についていない)でも両手をつけば技ありだが、片手なのでポイントなし。ルールブックにも書いてあります」と冷静に語っています。

 厳密に言うと、尻もちをつき、片手をついても、そこから一連動作で押し込んで背中をつけた場合は技あり。

 一度、尻もち片手つきで動作が止まり、そこから改めて押し込んで背中をつけたのはポイントになりません。

 今回はこの「片手で耐えて、一度、動作が止まった」と審判が見なし、鈴木桂治監督もビデオで確認したがその通りだったということ。

 テレビ解説、大野将平氏が「技ありがあってもおかしくないと思った」と放送時に語ったのは、リアルタイムで見た印象では、①手をついたのが片手か両手か、②尻もちから背中をつけるまでの間を連続動作と見るか、一旦停止と見るかは判断識別が難しかった、ということだと思います。

 審判はそこの判断に迷いがなく、かつピデオチェックをしているジュリーも問題なしとしたのでしょう。、主審要請がなくても微妙な判定について主審と判断が異なる場合にはジュリーはインカムで指示を出すはずなので。

 空中高く勢いよくきれいに投げても回りすぎたりして背中がつかないとポイントなしで、ほぼ寝技みたいになってきたなくめくっただけ、格闘技的に相手にダメージなさそうなセコい動作で相手の背中をつければ技ありとか一本、というルールが変だ、という批判なら賛成、そう思います。

 なので、「ルールが変だ」批判はいいけれど「誤審だ」とか「えこひいきだ」「日本に金を取らせたくないからだ」とか言うのは当たっていないです。今回の件はルール通り公平に裁かれています。

 子どもが桐蔭(村尾とそのコーチの小野卓史さん2人とも桐蔭出身)で柔道をやっていたので、悔しい気持ちは「誤審だ」と騒いでいる人の何百倍も悔しい。その私が言っているのだから、間違いないです。年間のグランドスラム以上格式の試合をほぼもれなく見ている私が言うのですから。



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