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内田樹氏『日本の覚醒のために』と玉置浩二・声の力 [音楽] 『日本の覚醒のために──内田樹講演集 (犀の教室)』 昔書いたブログ転載。2017/7/7


 玉置浩二さんが、ツイッターで、突然トレンドに上がって、いまどきの若い人たちが、急に、玉置さんの歌の凄さに気が付き出したので、そのテーマで昔書いたブログを、noteに転載することにしました。

 内田樹 (著)についてフェイスブックに読書感想をいつものように書きましたが、以下はブログ追加部分。玉置浩二の声の力について。

 内田樹氏が書いた、能の発声から説き起こし、声と「信じさせる力」の関係ついて解説した文章が、私の感じる玉置浩二さんの声の力の解説になっていた、という話。
 『日本の覚醒のために』Ⅳ ことばの教育 で、音読の教育効果について内田氏が語ります。

 僕は17年ほど観世流の能をやっているのですが、稽古を始めて何年目かに、謡をやっていたら、それまで全然使っていなかった身体部位が共鳴し始めたということがありました。能の謡というものは「一人オーケストラ」みたいなものなんです。声帯だけでなく、胸骨や鼻骨や頭骨からも、胸郭や腹腔からも、全部から音が出る。稽古が進むと、共鳴する身体部位の種類が増えてくる。骨と筋肉や内臓では振動数が違いますから、震えて音を発するときに遅速の差が出る。それが輻輳して倍音が出る。その倍音にまた思いがけない身体部位が反応して、共鳴し始める。
 (中略)嘘をついている人間の言葉は内容的にどれほど整合的でも直観的に聞きわけることができます。嘘をついている人間は微妙に早口になるし、共鳴する身体部位が少ないので倍音が出ません。
 (中略)「声がいい」というのは、身体から倍音が出ているということだからです。だから、言っていることが支離滅裂であっても、没論理的であっても、話している本人が「自分は真実を話している」と確信していると、彼の身体部位は共鳴して倍音を出すようになる。そういうとき僕たちは話のコンテンツではなく、「モード」の方を重く見て、その人の言うことを信じてしまう。「人間は真実を述べているときに、身体各部がその発言に共鳴する」というのが人類の経験則だからです。

『日本の覚醒のために』Ⅳ ことばの教育

 引用がすごく長くなりましたが、この本を読んでいるときに、「玉置浩二ショー」をNHKBSでやっていて、なんで玉置浩二さんの歌を聞くと悲しくもないのに涙がボロボロでるのだろう、ということについて、この文章で、深く納得がいったのでした。

 私の妻は、論理的ではないけれど、観察力と直観力に非常に鋭い、優れたところがあって、私がギターを弾いて歌を歌っているのを横で聞いていて、「ねえねえ、もうすこし、肩を後ろに引いて、ほら、玉置浩二がギター弾きながら歌うときの格好みたいにしてみなよ。肩も響かせないとダメだよ。」と言うのです。「頭骨とか鼻腔とか胸郭真ん中あたりを意識するのは当たり前で、玉置浩二を見ていると、肩の後ろあたりも響くようにカラダをつかっているでしょ、」というのです。たしかになあ。私の歌う声が薄っぺらいのは、あきらかに倍音がすごく少ないせいなのは自覚しているのですが。

 妻は、玉置浩二さんの歌っている姿を見るたびに、「イエスキリストって、玉置浩二みたいな声だったんだと思う。教会にあるキリストの絵とか、十字架の像とかを見ると、顔の骨格とか、胸郭の広がり方とか、なんか似てるでしょ。きっと、玉置浩二みたいな、ああいう(倍音のすごく多い)声だったから、言葉が特別なチカラを持ったんだよ」と言うのです。

 内田樹氏の、この文章と、妻とが、同じことを言っていて、びっくりしました。

 玉置浩二さんの声って、パソコンやスマホの貧弱なスピーカーで聞いても、倍音が異常に出ていることがわかりますが、生で聞くと、本当に、異常ですよ。あんな声の人間、他にいません。涙が出るだけじゃなくて、一年ほど前にオーチャードホールで聞いた時は、凄まじいロングトーンを聞いたら、ホールですから当然屋根が、天井があるのですが、私の意識の中では、屋根がパカーンてなくなって、星空がぱーと目の前に広がったんです。譬(たとえ)話、比喩じゃないです。私の意識のリアリティとして、そうなったんです。玉置さんが元気なうちに、一度でいいから、ライブに行くことをお勧めします。長いこと音楽を自分でもやり、ライブもさまざま聞いてきましたが、あんな体験は、後にも先にも初めてでした。

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