『赤い髪の女 』と言ったら、日活の?と言われましたが違います。トルコのノーベル賞作家の最新小説です。なんだけれど、ものすごく読みやすくて面白い。海外文学苦手タイプの人にもおすすめです。
『赤い髪の女 』(日本語) 単行本 – 2019/10/17
オルハン パムク (著), 宮下 遼 (翻訳)
Amazon内容紹介
「ある晩、父が失踪した。少年ジェムは、金を稼ぐために井戸掘りの親方に弟子入りする。厳しくも温かい親方に父の姿を重ねていたころ、1人の女に出会う。移動劇団の赤い髪をした女優だ。ひと目で心を奪われたジェムは、親方の言いつけを破って彼女の元へ向かった。その選択が彼の人生を幾度も揺り動かすことになるとはまだ知らずに。父と子、運命の女、裏切られた男…。いくつもの物語が交差するイスタンブルで新たな悲劇が生まれる。ノーベル文学賞作家の傑作長篇。」
ここから僕の感想。
いやーーー。すごい。面白かったー。一気に読んでしまいました。あまりに面白いので、お薦めしたいのですが、サスペンス小説要素もあるので、ネタバレしたくないので、大事なことは何も書けません。
まだ今年始まったばかりなのに、2020年のベストワン候補を読んでしまったー、という感じ。文学的な純度が高いのに、エンターテイメント小説のようにぐんぐん読めてしまうのに、古典悲劇のような、もう止まらない運命的ドラマがーー。これは、この作家、それはノーベル賞受賞するよね、納得。この人の他の作品も、読んでみようと思いました。
本筋でないところ、面白かった点をいくつか。
トルコ人の主人公が、イランのテヘランに行っての感想
「しかし、イラン人があまりにトルコ人に似ているので、すっかり魅了されてしまったのも確かだ。」
日本人には、トルコ人がイラン人に対し、どんな感じを抱くか、なんていうことは想像がつかないのだけれど。おそらくだけれど、「中東イスラム諸国の中でいちばん西欧化し、世俗化しているトルコと、イスラム革命で宗教国家となり、欧米と鎖国状態のイラン。民族も違うし、全然違う」という前提がある上で、「似ている」と感じる面白さ。その先に共通の何かを見出す、という何重にも複雑なことを書いているのだと思う。そもそも日本人には「前提」の段階の理解が低いから、こういうところ、どう読むのが正しいのか、難しいのである。
翻って、中東や、ヨーロッパの人に、日本人が韓国の人や中国や台湾の人にどういう気持ちを抱くのか、東アジアの国の間の微妙な機微、想像つかないんだろうなあ。そういう機微に基づいた文学なんていうのは、理解しにくいんだろうなあ、そんなことを考えてしまった。
この小説、スタートが1984年。中東とヨーロッパの間で、中東の国として、いちばん西欧化、世俗化して近代化したトルコという国は、いろいろと日本に似ているところがある。イスタンブールが、お話のスタートではまだ田舎であった、その近郊を急速に都市化して飲み込んでいく変化を背景に話は進む。東京、首都圏の急激な膨張、近郊の相模原に30年も住んでその変化を感じている私には、他人事とは思えないところもある。全共闘世代が老人となり、その子供たちが40代半ばになる、そういう日本の世代のすごした歴史と、違うんだけれど、似ているところもあって、トルコと日本の、「妙に似ているところ、もちろん全然違うところの混在」も、面白さの一因になっている。ここ最近、イギリス、アイルランドの小説をたくさん読んできたのだが、トルコの方が、日本と似ているなあ、と思うところがたくさんありました。
変な言い方ですが、海外小説をほとんど読まない人でも、村上春樹の小説は読むよ、という人であれば、ぜったい面白く読めると思う。井戸も出てくるし。非西洋文学として、世界の人に共通に理解可能な、現代的な純文学として、傑作だと思う。
というここまでが、Facebook投稿なのですが、この「村上春樹が好き人なら、きっと面白い」というのが、僕が海外小説を人に薦めるときの、ひとつの基準なのです。そのことについて、note追加パートとして、すこし考察していきます。
Facebookに読書感想を投稿しても、日本人作家、村上春樹とか、朝井リョウとか、そういう人の本の感想を書くと、海外文学には反応しないような人から感想をもらうことが多い。イイネの数も3倍くらい多い。
海外の文学というと、人名も覚えにくいし、どんな社会や時代背景かもわからないし、とっつきにくい、ということはあるのかも。でも、海外小説の中には、この小説のように、日本人にとって、すごく読みやすい小説もときどきある。
そもそも日本人の小説だって、村上春樹の小説のように多くの人が「すいすい読める」というような小説は少ない。むしろ、村上春樹の小説って、なんであんなに、多くの人に読みやすいんだろう。ということを考えた。
キーワードは「心の勾配」。
こんな言葉は本当は無い。村上春樹の小説はなぜ読みやすいか、を考えていて、ふと、思いついた言葉。ランニングをしているとき、ほんのちょっと、緩い下り坂だと、すいすいと足が進む。下りでも急すぎると、走りづらい。上り坂だと、足が進まない。読者の心の傾きと、ちょうどよい傾き具合が合った文章の書き方、というのが、あるのだと思う。文章だけではなく、テーマとか。
あと、屋根の勾配と、そこに積もっている雪、みたいなイメージ。傾斜が急すぎると、雪がそもそも全然つかない。読者はつまらない。真っ平だと、全く滑り落ちない。これもつまらない。雪がある程度積もっては、するすると滑り落ちる、それを眺めるのは楽しい。雪を適量、貯めては滑り落ちる。ちょうどよい屋根の勾配のようなイメージ。たくさんの読者を集めてはするすると滑り落ちていくような。
例えば、イシグロカズオの小説の感想を書いても、たいていの人が『私を離さないで』は読んだ、感動した、という人が圧倒的に多い。村上春樹だと『ノルウェイの森』でしょう。若い主人公の、悲恋物語、として読める小説だと、読者数が圧倒的に多くなる。両方とも全然本当はそんな小説ではないのだけれど。「若い男女の難病悲恋もの」というのが、最大、「純文学を読む人が一番多い、心の勾配」具合らしい。
あと、「青春の社会不適合告白もの」、『ライ麦畑でつかまえて』とか、『人間失格』とかも、そういう「心の勾配、いちばんよく滑る」テーマ。そして文体。
テーマだけじゃなくて、村上春樹の場合、「何かから逃げて。一人で暮らしている僕」「女性が消える」「追いかける」「不思議な世界に行く」「暴力的なやつがいる。現実世界では非暴力な僕が、暴力に巻き込まれていく」
というような、人探し、性と政治の暴力がらみサスペンス、というのが、すいすいと読ませていくエンジンに、たいていなっている。純文学だけれど、謎解き小説でもある。
世界の文学は、この「心の勾配」のありようが、日本文学よりも、ずっと幅広い。日本文学の、ある程度ベストセラーになるようなものは、「青春期の主人公」「恋愛」「社会不適応」みたいな、かなり狭い「日本近代文学の私小説伝統」に何要素が適合していないと、大量の読者は獲得できない。
中南米や東欧なんかの小説だと、政治と暴力と生活・人生の距離が日本よりずっと近いから、その方向に傾いていないと、そもそも文学として扱われない。村上春樹も、本当はそういう作家なのだけれど、日本では政治暴力と生活の距離が(一見)遠いから、いったん、地下や異世界に行かないと、暴力が顕在化しない。
同じように、政治暴力顕在度が低い国でも、例えば、イギリス系の現代文学だと、むしろ「初老の取り返しがつかなくなった人生」の方が、読者の心の勾配にはまりやすい。高齢化社会の日本も、本来はそっちの方が大きいと思うのだが、なぜか、純文学がヒットするには、若さが必要のようなのだ。日本ではいつまでも、文学は青春期のはしかのようなものだと思われているような気がする。
トルコという国で、政治暴力が1970年代から80年代前半くらいまであったのが、経済成長、生活水準の上昇で背景化していった、ということの、日本との共通性というのも、この小説を近しく、「村上春樹的共通性」として感じさせる要因なのだろう。さらにその背景に、米国との近さ(つまりは冷戦時にソ連に対峙する米軍基地がおかれていること)の、そして非西欧でありながら、最もそこに近づこうとする国、社会であるということなど、世界の状況のなかでの日本との共通性とか、まあ分析しだすときりがないのだが。
という視点で考えた時に、この『赤い髪の女』、いろいろな意味で、村上春樹の心の勾配大ヒット要素が盛り込まれていて、しかも文章が平明である。ので、読み始めると、適度に雪が積もっては、するすると屋根を滑り降りる快感、というのが、実にほどよいまとまりで、何度も訪れる。純文学の人なのだけれど、読者を楽しませる、惹きつけて、振り回して、という読者コントロールの意識と技術が、すごく高い小説家なのである、この人。
なので、海外文学苦手タイプの人でも、この小説は読める、楽しめると思います。
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